1890年

第3代京都府知事北垣国道が、田邉朔郎、島田道生らを登用し、工事に5年の歳月を費やした琵琶湖疏水(第一疏水)の竣工式が、夷川船溜で行われる。

琵琶湖疏水(第一疏水)の完成式が京都で行われ、京都市内への水運と電力供給が開始された。
1890年4月9日、田邉朔郎や島田道生らの設計により、京都府知事北垣国道が着工から約5年をかけて琵琶湖疏水(第一疏水)の竣工式を夷川船溜で執り行いました。 琵琶湖の湖水を京都市内へ引き入れることで、灌漑用水や飲料水の安定供給が可能となりました。 さらに水力発電所が設けられ、京都初の電力供給を実現しました。 疏水は市内を巡る渡し舟や舟運にも利用され、近代京都の都市インフラ基盤を築く重要な役割を果たしました。 現在も桜の名所として親しまれる観光地となっています。
1890年 京都府知事 北垣国道 田邉朔郎 琵琶湖疏水
1937年

朝日新聞社の「神風号」がロンドンに着。東京~ロンドン間1万5357kmを、94時間17分56秒、給油や仮眠時間などを除いた実質飛行時間51時間19分23秒の世界記録で飛行する。

朝日新聞社の飛行艇「神風号」が東京~ロンドン間の世界最速飛行記録を樹立した。
1937年4月9日、朝日新聞社がチャーターした飛行艇「神風号」がロンドンに到着しました。 東京~ロンドン間1万5357kmを94時間17分56秒で飛行し、給油と仮眠時間を除く実質飛行時間51時間19分23秒という当時の世界記録を打ち立てました。 当時の長距離飛行技術と航空機の耐久性を示す偉業として大きな注目を集めました。 日本の航空技術と国際的な挑戦精神を象徴する出来事であり、新聞社によるプロモーション活動の先駆けでもありました。 神風号の成功はその後の民間航空路線や航空輸送発展に影響を与えました。
1937年 朝日新聞社 神風号
1957年

第二次中東戦争以降閉鎖されていたスエズ運河の通行が再開。

1957年4月9日、第二次中東戦争後に封鎖されていたスエズ運河の通行が再開されました。
1956年の第二次中東戦争(スエズ危機)により、一時閉鎖されていたスエズ運河がついに復旧しました。 1957年4月9日に公式に再開されると、地中海と紅海を結ぶ重要な海路が再び実用化されました。 事前の掘削や海底掃海作業が行われ、安全航行の体制が整えられました。 運河再開は世界貿易に大きな影響を与え、石油輸送などのコストや時間を大幅に改善しました。 中東地域の地政学的緊張にも注目が集まりました。
1957年 第二次中東戦争 スエズ運河
1965年

世界初のドーム球場・アストロドームが開場。

1965年4月9日、世界初のドーム型多目的球場『アストロドーム』が開場しました。
アストロドームは米国テキサス州ヒューストンに建設された初の屋内野球場です。 全天候型のドーム構造により、雨天や酷暑を気にせず試合が可能となりました。 球場の完成に合わせてヒューストン・アストロズが本拠地として移転しました。 イベントでは人工芝(アイビーターフ)が初めて採用され、以後多くのドーム球場で導入されました。 革新的な設計はその後のスタジアム建設に大きな影響を与えました。
1965年 ドーム球場 アストロドーム
1974年

鹿児島県阿久根市と出水郡長島町を結ぶため、黒之瀬戸海峡上に架橋された黒之瀬戸大橋が開通。

鹿児島県阿久根市と長島町を結ぶ黒之瀬戸大橋が開通し、海峡を越えた陸上交通が可能になりました。
1974年4月9日に開通した黒之瀬戸大橋は、黒之瀬戸海峡に架かる橋梁で、阿久根市と長島町を直結しました。 従来はフェリーでの移動を余儀なくされていた地域住民にとって、通勤や物流の利便性が飛躍的に向上しました。 橋の完成により、九州本土と薩摩半島を結ぶ陸上交通網が整備され、経済活動や観光振興にも大きく寄与しました。 地元の漁業や農業産品の物流コストが削減され、地域社会の活性化を促した歴史的なインフラ整備事業です。
鹿児島県 阿久根市 出水郡 長島町 黒之瀬戸大橋
1984年

東急田園都市線が全通。

東急田園都市線が全線開通し、東京・渋谷から神奈川県南部まで直通運転が可能になりました。
東急田園都市線は1977年に渋谷-長津田間が開業し、1984年4月9日に長津田から中央林間間が延伸されて全線が開通しました。 延伸により、東京23区と神奈川県東部を結ぶ重要な通勤路線としての役割が確立し、沿線開発が一層加速しました。 新線開業に伴い、駅周辺では住宅地や商業施設の整備が進み、ベッドタウンとしての魅力が高まりました。 また、路線運行の効率化と輸送力強化により、ラッシュ時の混雑緩和にも貢献しています。
1984年 東急田園都市線
1988年

翌日の瀬戸大橋の開通に伴い、宇野 高松の宇高連絡船が高速艇を除きこの日限りで廃止。

瀬戸大橋開通を前に、宇野―高松間を結んできた宇高連絡船が定期航路を終了しました。
1988年4月9日、翌日に瀬戸大橋が開通する準備として宇野港と高松港を結ぶ宇高連絡船が高速艇を除き廃止されました。 連絡船は戦後間もなくから四国と本州を結ぶ重要な海上交通手段として利用されてきましたが、橋梁開通により役割を終えることになりました。 廃止に伴い多くの航路施設が閉鎖され、地域の交通体系は陸路中心へと移行しました。 瀬戸大橋開通後、陸上輸送の利便性が飛躍的に向上し、物流や観光の新たな発展をもたらしました。
1988年 瀬戸大橋 宇高連絡船
2008年

オアシス香港航空が運行を停止。

香港を拠点とするオアシス香港航空が運航停止し会社清算へと向かった。
Oasis Hong Kong Airlinesは2006年に設立され、2007年からロンドン-香港-ロサンゼルス間などで長距離航空サービスを提供しました。 同社はプレミアムクラスを手頃な価格で提供する新たなビジネスモデルを掲げましたが、運航コストの高騰や資金繰りの困難から経営が悪化しました。 2008年4月9日、同社は営業を停止し、すべてのフライトがキャンセルされました。 多くの乗客が旅行を中断され、航空業界における低運賃長距離路線のリスクが浮き彫りになりました。 この停止は香港や国際線市場の競争環境やビジネス戦略の見直しを促すきっかけとなりました。
2008年 オアシス香港航空