193年

セプティミウス・セウェルスが軍団の支持を得てローマ皇帝に即位。

ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが軍団の支持を受けて即位し、セウェルス朝を開いた。
193年4月9日、セプティミウス・セウェルスは軍団の強い支持を得てローマ皇帝に即位し、混乱の続く帝国に新たな統治体制をもたらしました。 もともと北アフリカ総督を務めていた彼は、パルミラの内乱や前皇帝の暗殺を経て実権を握り、政治的・軍事的な実力を背景に権力基盤を築きました。 セウェルス朝の創始者として、その治世では軍事費の増大や東方重視の政策が特徴となり、帝国の安定化と同時に後の衰退の一因ともなりました。 彼の即位は「五皇帝の年」と称される193年の混乱を終わらせる契機の一つとされ、ローマ史に大きな転換点をもたらしました。 彼の即位後、セウェルス家による一連の皇位継承が始まり、皇帝権の強化が進みました。
193年 セプティミウス・セウェルス ローマ皇帝
元弘3年/正慶2年閏2月24日

鎌倉幕府により隠岐島に流されていた後醍醐天皇が、隠岐を脱出し京に向かう。

後醍醐天皇が隠岐島からの脱出に成功し、京都への帰還を果たした。
1333年(元弘3年/正慶2年閏2月24日)、鎌倉幕府により隠岐島に流されていた後醍醐天皇は、隠密の助けを得て島を脱出しました。 脱出後は伯耆国の隠岐浦などを経由し、忠義を誓う武士や寺社の支援を受けながら京都へ向かいました。 この帰還は幕府の権威を大きく揺るがし、足利尊氏や新田義貞ら諸将の反幕府勢力を鼓舞する契機となりました。 後醍醐天皇の動きは後の建武の新政成立へとつながり、鎌倉幕府の滅亡へ決定的な一歩となりました。 彼の脱出劇は日本史における最大級のクーデターの序章と位置づけられています。
1333年 元弘 正慶 2月24日 鎌倉幕府 隠岐島 後醍醐天皇
1413年

イングランド王ヘンリー5世が戴冠。

ヘンリー5世がイングランド王として正式に戴冠し、百年戦争での活躍に向けて歩みを始めた。
1413年4月9日、ヘンリー5世はロンドンのウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、イングランド王位を正式に継承しました。 彼は在位中に軍事的才能を発揮し、1415年のアジャンクールの戦いなどでフランスに勝利を収めました。 王としての初期統治では、王権強化と財政改革に取り組み、国内の安定化を図りました。 ヘンリー5世の強力なリーダーシップは百年戦争を通じてイングランドの国威を高める要因となりました。 そのカリスマ的な統治はシェイクスピアの戯曲『ヘンリー五世』でも描かれ、後世に大きな影響を与えました。
1413年 イングランド ヘンリー5世
1440年

クリストファ3世がデンマーク王に即位。

クリストファ3世がデンマーク王に即位し、北欧の同君連合の一端を担った。
1440年4月9日、バイエルン公クリストファ3世はロスキレ大聖堂でデンマーク王として即位しました。 彼は後にスウェーデン王およびノルウェー王にも選出され、カールマル同君連合の維持に貢献しました。 同君連合下での彼の統治は、バルト海貿易の安定化や内部対立の調整をもたらしました。 クリストファ3世の即位は北欧諸国の統合的な支配体制構築への重要な一歩となりました。 しかし急逝により王政は再び不安定な時期を迎え、後継をめぐる政治対立が激化しました。
1440年 クリストファ3世 デンマーク
1483年

イングランド国王エドワード4世が死去。エドワード5世が即位。

エドワード4世の死去により若きエドワード5世が即位したが、摂政リチャード3世の台頭が物語を乱した。
1483年4月9日、イングランド王エドワード4世が急逝し、12歳の息子エドワード5世が王位を継承しました。 即位後まもなく叔父のリチャード公(後のリチャード3世)が摂政として政務を掌握しました。 リチャードは後にエドワード5世を廃し、自ら王位を宣言して王政を奪取する布石を打ちました。 この一連の動きは「王子誘拐事件」や「塔の二王子」の悲劇につながり、王位継承の正統性を巡る争いを引き起こしました。 イングランド中世の王位継承における大きな転機とされています。
1483年 エドワード4世 エドワード5世
1609年

スペイン王フェリペ3世がモリスコ追放の勅令に署名する。

フェリペ3世がモリスコ追放令に署名し、イスラム系住民の国外追放を決定した。
1609年4月9日、スペイン王フェリペ3世はモリスコ(イスラム教から改宗したムスリム系住民)の追放令に正式署名しました。 この勅令により約30万人以上とされるモリスコは差別的扱いを受け、一斉に国外へ追われることとなりました。 追放は1614年まで断続的に続き、バレンシアやアラゴンなど主要地域で実行されました。 労働力や文化的多様性の喪失はスペイン国内の農業・工芸産業に大きな打撃を与えました。 この政策は宗教的寛容性の後退を象徴する出来事として歴史的に評価されています。
1609年 スペイン王フェリペ3世 モリスコ追放
天明8年3月4日

寛政の改革: 江戸幕府第11代将軍・徳川家斉が老中・松平定信を将軍輔佐とする。

徳川家斉が老中松平定信を将軍輔佐に任じ、寛政の改革が本格始動した。
1788年4月9日(天明8年3月4日)、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉は老中松平定信を将軍輔佐に任命しました。 これにより松平定信は幕政の実権を掌握し、財政再建や倹約令の徹底など寛政の改革を推進しました。 寛政の改革は農村復興や貨幣改鋳、学問奨励など多岐にわたり、幕府改革の象徴とされています。 改革は一時的な支持を得たものの、厳しい倹約政策や寛政異学の禁など批判も多く、限界も露呈しました。 その後の幕政方針に影響を与えつつ、幕末維新への布石ともなった重要な出来事です。
1788年 天明 3月4日 寛政の改革 徳川家斉 老中 松平定信
天保5年3月1日

天保の改革: 水野忠邦が江戸幕府老中に就任。

水野忠邦が江戸幕府老中に就任し、幕府財政改革や政治刷新を目指す天保の改革を本格的に開始した。
江戸幕府は財政難や社会不安の中で水野忠邦を老中に抜擢しました。 水野は租税改正や幕閣刷新、倹約令の徹底など、一連の政策を通じて幕政立て直しを図りました。 しかし有力大名や豪商など既得権益勢力の抵抗を強く受け、改革は次第に頓挫していきました。 天保の改革は幕末の動乱期に先駆けた試みとして歴史的な意義を残しています。 改革の成功には至らなかったものの、その後の幕政論議に影響を与えました。
1834年 天保 3月1日 天保の改革 水野忠邦
文久3年2月22日

京都で足利三代木像梟首事件が発生。

京都で足利三代将軍の木像が梟首されるという政治的意味を持つ事件が起こった。
1863年2月22日(文久3年2月22日)、京都で足利義満、義教、義政の三代将軍の木像が何者かによって梟首される事件が発生しました。 尊王攘夷運動の高まりを背景に、幕府体制への反発から象徴的に行われたとされます。 現場には反幕府を示す文言が残され、朝廷や公武合体派への不満が強まっていました。 事件は倒幕運動の伏線とも言われ、その後の長州藩などの武力行動に影響を与えました。 政治的緊張が高まる幕末の京都を象徴する出来事です。
1863年 文久 2月22日 足利三代木像梟首事件
1928年

トルコが憲法からイスラム教を国教とする条項を廃止。

トルコ共和国が憲法からイスラム教を国教とする規定を廃止し、世俗化を推進した。
1928年4月9日、ムスタファ・ケマル・アタテュルク率いるトルコ国民政府は、憲法上のイスラム教を国教と定める条項を廃止しました。 この改革は、イスラム法からの脱却と近代的国家体制の構築を目指すケマル・アタテュルク主導の世俗化政策の一環です。 教育、司法、政治の各分野で宗教的権威を排除し、西欧的な法制度や文化の導入を迅速に進めました。 改革は強い反発も招いたものの、トルコの近代化を加速させる原動力となりました。 現在のトルコ共和国の国家像を形成した歴史的転換点です。
1928年 トルコ イスラム教
1935年

天皇機関説事件:美濃部達吉の著書『憲法概要』など5点が出版法違反で発禁処分に。

美濃部達吉の天皇機関説理論をめぐり著作が発禁となった政治的検閲事件。
1935年4月9日、天皇機関説を唱えた法学者美濃部達吉の著書『憲法概要』など5点が出版法違反を理由に発禁処分となりました。 天皇機関説は憲法上、天皇を国家機関の一つと位置づける理論で、当時の政権との軋轢を生んでいました。 政府は国家神格化への批判とみなし、出版差止めを命じることで言論統制を強化しました。 事件は言論の自由と学問の自主性に対する重大な侵害として、国内外で議論を呼びました。 戦前日本における思想弾圧の象徴的な出来事の一つです。
1935年 天皇機関説事件 美濃部達吉
1948年

コロンビアのボゴタで自由党党首ホルヘ・エリエセル・ガイタンが暗殺される。ボゴタ暴動の発端に。

1948年4月9日、コロンビア・ボゴタで自由党党首ホルヘ・エリエセル・ガイタンが暗殺され、暴動が発生しました。
ホルヘ・エリエセル・ガイタンは民衆派指導者として支持を集めていました。 1948年4月9日、彼がボゴタの街頭で暗殺されると、市民は『ボゴタ暴動』を起こしました。 暴動では数百人が死亡し、市街地は戦場と化しました。 この事件はコロンビアの政治的不安を象徴し、後の『ラ・ビオレンシア』時代を招くきっかけとなりました。 暗殺の背後関係や実行者は今も明らかになっていません。
コロンビア ボゴタ ホルヘ・エリエセル・ガイタン 暗殺 ボゴタ暴動