193年

セプティミウス・セウェルスが軍団の支持を得てローマ皇帝に即位。

ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが軍団の支持を受けて即位し、セウェルス朝を開いた。
193年4月9日、セプティミウス・セウェルスは軍団の強い支持を得てローマ皇帝に即位し、混乱の続く帝国に新たな統治体制をもたらしました。 もともと北アフリカ総督を務めていた彼は、パルミラの内乱や前皇帝の暗殺を経て実権を握り、政治的・軍事的な実力を背景に権力基盤を築きました。 セウェルス朝の創始者として、その治世では軍事費の増大や東方重視の政策が特徴となり、帝国の安定化と同時に後の衰退の一因ともなりました。 彼の即位は「五皇帝の年」と称される193年の混乱を終わらせる契機の一つとされ、ローマ史に大きな転換点をもたらしました。 彼の即位後、セウェルス家による一連の皇位継承が始まり、皇帝権の強化が進みました。
193年 セプティミウス・セウェルス ローマ皇帝
大宝2年3月8日

文武天皇が、日本で初めて全国的に統一された計量単位(度量衡)を定める。

文武天皇が日本で初めて全国統一の度量衡を制定し、国内の流通と税制の基盤を整えた。
702年(大宝2年3月8日)、文武天皇は全国的に統一された度量衡を定める勅令を発布し、従来の地方ごとに異なる計量単位を整理しました。 この制度は後の律令制の基礎となり、税収の公平化や農産物取引の標準化に大きく寄与しました。 度量衡の統一により、地方役人や商人は同一基準で計測を行えるようになり、流通効率や行政管理が向上しました。 当時、中国の制度を参考にしたとされ、度量衡の正確性や標準化には青銅製の秤や石分銅が用いられました。 また、この施策は中央集権化を進める奈良時代の国家体制整備の一環として実施されました。
702年 大宝 3月8日 文武天皇 度量衡
1241年

ワールシュタットの戦い。モンゴル帝国軍がポーランド・ドイツ軍を敗る。

モンゴル帝国軍がワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツ連合軍を破り、ヨーロッパ進出の危険性を示した。
1241年4月9日、現在のポーランド領ワールシュタット付近でモンゴル帝国軍とポーランド・ドイツ連合軍が衝突しました。 モンゴル軍は高度に機動性を備えた騎馬軍団を駆使し、重装歩兵を主体とする連合軍を攻略しました。 連合軍はシレジア公ヘンリク2世率いる騎士団やテンペル騎士団など多様な兵力を集めていましたが、組織的な連携が取れずに敗退しました。 この勝利によりモンゴル帝国は中央ヨーロッパへの進出を示し、各地に恐怖を植え付けました。 その後、モンゴル軍はオゴタイ・ハーンの死去を受けて引き揚げ、さらなる侵攻は中断されました。
1241年 ワールシュタットの戦い モンゴル帝国
元弘3年/正慶2年閏2月24日

鎌倉幕府により隠岐島に流されていた後醍醐天皇が、隠岐を脱出し京に向かう。

後醍醐天皇が隠岐島からの脱出に成功し、京都への帰還を果たした。
1333年(元弘3年/正慶2年閏2月24日)、鎌倉幕府により隠岐島に流されていた後醍醐天皇は、隠密の助けを得て島を脱出しました。 脱出後は伯耆国の隠岐浦などを経由し、忠義を誓う武士や寺社の支援を受けながら京都へ向かいました。 この帰還は幕府の権威を大きく揺るがし、足利尊氏や新田義貞ら諸将の反幕府勢力を鼓舞する契機となりました。 後醍醐天皇の動きは後の建武の新政成立へとつながり、鎌倉幕府の滅亡へ決定的な一歩となりました。 彼の脱出劇は日本史における最大級のクーデターの序章と位置づけられています。
1333年 元弘 正慶 2月24日 鎌倉幕府 隠岐島 後醍醐天皇
1413年

イングランド王ヘンリー5世が戴冠。

ヘンリー5世がイングランド王として正式に戴冠し、百年戦争での活躍に向けて歩みを始めた。
1413年4月9日、ヘンリー5世はロンドンのウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、イングランド王位を正式に継承しました。 彼は在位中に軍事的才能を発揮し、1415年のアジャンクールの戦いなどでフランスに勝利を収めました。 王としての初期統治では、王権強化と財政改革に取り組み、国内の安定化を図りました。 ヘンリー5世の強力なリーダーシップは百年戦争を通じてイングランドの国威を高める要因となりました。 そのカリスマ的な統治はシェイクスピアの戯曲『ヘンリー五世』でも描かれ、後世に大きな影響を与えました。
1413年 イングランド ヘンリー5世
1440年

クリストファ3世がデンマーク王に即位。

クリストファ3世がデンマーク王に即位し、北欧の同君連合の一端を担った。
1440年4月9日、バイエルン公クリストファ3世はロスキレ大聖堂でデンマーク王として即位しました。 彼は後にスウェーデン王およびノルウェー王にも選出され、カールマル同君連合の維持に貢献しました。 同君連合下での彼の統治は、バルト海貿易の安定化や内部対立の調整をもたらしました。 クリストファ3世の即位は北欧諸国の統合的な支配体制構築への重要な一歩となりました。 しかし急逝により王政は再び不安定な時期を迎え、後継をめぐる政治対立が激化しました。
1440年 クリストファ3世 デンマーク
1483年

イングランド国王エドワード4世が死去。エドワード5世が即位。

エドワード4世の死去により若きエドワード5世が即位したが、摂政リチャード3世の台頭が物語を乱した。
1483年4月9日、イングランド王エドワード4世が急逝し、12歳の息子エドワード5世が王位を継承しました。 即位後まもなく叔父のリチャード公(後のリチャード3世)が摂政として政務を掌握しました。 リチャードは後にエドワード5世を廃し、自ら王位を宣言して王政を奪取する布石を打ちました。 この一連の動きは「王子誘拐事件」や「塔の二王子」の悲劇につながり、王位継承の正統性を巡る争いを引き起こしました。 イングランド中世の王位継承における大きな転機とされています。
1483年 エドワード4世 エドワード5世
1609年

スペイン王フェリペ3世がモリスコ追放の勅令に署名する。

フェリペ3世がモリスコ追放令に署名し、イスラム系住民の国外追放を決定した。
1609年4月9日、スペイン王フェリペ3世はモリスコ(イスラム教から改宗したムスリム系住民)の追放令に正式署名しました。 この勅令により約30万人以上とされるモリスコは差別的扱いを受け、一斉に国外へ追われることとなりました。 追放は1614年まで断続的に続き、バレンシアやアラゴンなど主要地域で実行されました。 労働力や文化的多様性の喪失はスペイン国内の農業・工芸産業に大きな打撃を与えました。 この政策は宗教的寛容性の後退を象徴する出来事として歴史的に評価されています。
1609年 スペイン王フェリペ3世 モリスコ追放
1782年

アメリカ独立戦争: セインツの海戦が始まる。

アメリカ独立戦争中のセインツの海戦が開戦し、イギリス海軍がフランス艦隊と戦闘を開始した。
1782年4月9日、カリブ海ドミニカ島沖でアメリカ独立戦争の一環としてセインツの海戦が勃発しました。 イギリス東インド艦隊司令官ジョージ・ロドニー提督率いる英艦隊は、コント・ド・グラス率いるフランス艦隊を迎え撃ちました。 激戦の末、英艦隊は火器射程の利を活かし、仏艦隊に大打撃を与えて混乱を誘発しました。 この勝利によりイギリスはカリブ地域での制海権を確保し、アメリカ側への補給路を断つ戦略的優位を得ました。 海戦は同年6月の趨勢を決定づける一因ともなり、独立戦争終結後の和平交渉に影響を与えました。
1782年 アメリカ独立戦争 セインツの海戦
天明8年3月4日

寛政の改革: 江戸幕府第11代将軍・徳川家斉が老中・松平定信を将軍輔佐とする。

徳川家斉が老中松平定信を将軍輔佐に任じ、寛政の改革が本格始動した。
1788年4月9日(天明8年3月4日)、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉は老中松平定信を将軍輔佐に任命しました。 これにより松平定信は幕政の実権を掌握し、財政再建や倹約令の徹底など寛政の改革を推進しました。 寛政の改革は農村復興や貨幣改鋳、学問奨励など多岐にわたり、幕府改革の象徴とされています。 改革は一時的な支持を得たものの、厳しい倹約政策や寛政異学の禁など批判も多く、限界も露呈しました。 その後の幕政方針に影響を与えつつ、幕末維新への布石ともなった重要な出来事です。
1788年 天明 3月4日 寛政の改革 徳川家斉 老中 松平定信
天保5年3月1日

天保の改革: 水野忠邦が江戸幕府老中に就任。

水野忠邦が江戸幕府老中に就任し、幕府財政改革や政治刷新を目指す天保の改革を本格的に開始した。
江戸幕府は財政難や社会不安の中で水野忠邦を老中に抜擢しました。 水野は租税改正や幕閣刷新、倹約令の徹底など、一連の政策を通じて幕政立て直しを図りました。 しかし有力大名や豪商など既得権益勢力の抵抗を強く受け、改革は次第に頓挫していきました。 天保の改革は幕末の動乱期に先駆けた試みとして歴史的な意義を残しています。 改革の成功には至らなかったものの、その後の幕政論議に影響を与えました。
1834年 天保 3月1日 天保の改革 水野忠邦
安政5年2月26日

飛越地震が発生する。

1858年の安政5年に飛越地方を襲い、家屋倒壊や土砂崩れで多くの犠牲者を出した大地震。
江戸時代後期の1858年2月26日に飛越地震が発生しました。 震源は飛騨・越中地方とされ、推定M7前後の規模です。 強い揺れにより山間部を中心に土砂崩れや断層崖の出現が相次ぎ、村落が壊滅的な打撃を受けました。 被害の正確な数は不明ながら多数の死傷者が報告され、農村社会に深刻な影響を与えました。 幕府は救援物資の供給や復興土木工事を実施し、被災地の再建にあたりました。 当時の記録が限られるものの、飛越地震は安政期を象徴する大災害の一つです。
1858年 安政 2月26日 飛越地震