527年

「ローマ法大全」の「旧勅法彙纂」が公布。

東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世がローマ法大全の旧勅法編を公布し、古代ローマ法を体系化しました。
ローマ法大全は東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世の命で編纂された法典群で、旧勅法編は古代ローマの法令を集成した最も古い部分です。527年の公布により、バラバラだった帝国各地の法規が体系化され、法的安定性を高めました。その結果、行政や裁判の基礎が確立され、統一的な法運用が可能になりました。法典は中世ヨーロッパへ伝わり、法学教育や法制度の発展に大きな影響を与えました。今日に至るまで法思想史や法学研究の重要資料とされる歴史的意義を持ちます。
527年 ローマ法大全
天承2年3月13日

平忠盛が平氏の武士では初めて内昇殿を許される。

平氏の棟梁平忠盛が武士では初めて内昇殿を許され、武家の社会的地位向上を象徴しました。
平忠盛は平安時代後期の武将で、1132年に天皇の住まいへの昇殿を許された最初の武士となりました。内昇殿とは、朝廷の最も奥深い場所に出仕する儀式的許可であり、官位や特権を示すものです。これにより朝廷内での武士の影響力が認められ、以後の武家政治への道を開く契機となりました。また平家の台頭と摂関政治の衰退を象徴する事件として後世に語り継がれます。
1132年 天承 3月13日 平忠盛 内昇殿
天授4年/永和4年3月10日

足利義満が、京都室町に造営した室町殿(花の御所)に幕府を移転。

足利義満が室町殿(花の御所)に幕府を移し、室町幕府の中心地を確立しました。
1378年、室町幕府3代将軍足利義満は京都の室町に新たに造営した室町殿に政庁を移転しました。この花の御所と呼ばれた邸宅は豪華絢爛な建築様式を誇り、将軍権力の象徴でした。移転により幕府の政治・文化の中心が整えられ、義満はここから日本各地を統治しました。また金閣寺の造営など文化政策も推進し、「北山文化」と呼ばれる華やかな時代の幕開けとなりました。室町幕府の安定と将軍権威の強化に大きく寄与した歴史的事件です。
1378年 天授 永和 3月10日 足利義満 花の御所
1798年

アメリカ合衆国がミシシッピ準州を創設。

アメリカ合衆国でミシシッピ準州が創設され、領土拡大と行政区画の整備が進みました。
1798年、アメリカ連邦議会はミシシッピ川以東の地域をミシシッピ準州として創設しました。この準州はミシシッピ川流域の開拓や交易を促進し、新たな植民地経営の拠点となりました。先住民族との関係調整や土地分配の制度化が進められ、後のミシシッピ州誕生への道を開きました。領土の政治的・経済的統治を目的とした準州設置はアメリカの西部開拓政策の一環と位置づけられます。この設置は米西部への拡大主義を背景に行われ、国家統一と発展に寄与しました。
1798年 アメリカ合衆国 ミシシッピ準州
慶応4年3月15日

明治政府が五榜の掲示の高札を設置。

明治元年、明治政府が東京・五箇所に高札を立てて『五榜の掲示』を公布し、新政権の基本方針を示しました。
五榜の掲示は慶応4年3月15日(1868年4月7日)に掲示されました。内容は「五箇条の御誓文」に基づく国民への行動指針であり、尊皇攘夷や開国・富国強兵などが示されました。旧幕府の律令体制を否定し、天皇中心の国家理念を宣言する重要な政治的声明とされます。これにより、新政府は国内の結束と近代化への道筋を国民に浸透させました。現代日本の憲政や行政改革につながる礎となった出来事です。
1868年 慶応 3月15日 五榜の掲示
1906年

第一次モロッコ事件の終結のためのアルヘシラス会議が終了。

第一次モロッコ事件の解決を図るためアルヘシラス会議が開催され、列強の外交駆け引きが展開されました。
1906年のアルヘシラス会議は第一次モロッコ事件終結のために開催され、ドイツ・フランス・イギリスなど13カ国が参加しました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がモロッコ独立を支持し、フランスの勢力拡大と衝突したのが発端です。会議ではフランスのモロッコ支配を制限する条項が模索され、最終的に小さな譲歩にとどまりました。これにより欧州列強間の軍拡競争や同盟強化が進むきっかけとなります。国際関係の緊張が高まり、第一次世界大戦への遠因ともいわれる重要な外交会議でした。
第一次モロッコ事件 アルヘシラス会議
1908年

ハーバート・ヘンリー・アスキスがイギリスの第52代首相に就任。

1908年、ハーバート・ヘンリー・アスキスがイギリスの第52代首相に就任し、社会改革を推進しました。
ハーバート・ヘンリー・アスキスは自由党所属の政治家で、1908年4月7日に第52代英国首相に就任しました。彼の内閣は社会保障制度の創設や労働者保護法の制定など、いわゆる「自由党改革」を積極的に進めました。老齢年金法の導入や失業保険制度の整備は後の福祉国家の基盤となりました。また、議会制度改革や軍縮条約の締結にも取り組み、欧州の安定に寄与しました。アスキスは1916年まで首相を務め、第一次世界大戦時の指導者としても知られています。
1908年 ハーバート・ヘンリー・アスキス
1945年

鈴木貫太郎内閣が発足。

1945年、鈴木貫太郎が臨時内閣を組織し、日本の終戦と戦後処理にあたりました。
1945年4月7日、鈴木貫太郎内閣が発足しました。鈴木は最後の海軍大将出身首相として、ポツダム宣言受諾を含む終戦交渉を主導しました。有限なリソースの中で食糧難や空襲被害への対応を迫られ、国内の混乱を最小限に抑える努力を行いました。戦後初期の行政組織や連合国軍最高司令官との協議にも関与し、日本の再建に向けた基礎を築きました。短期間ながら歴史的な分岐点を担った内閣といえます。
鈴木貫太郎内閣
1947年

労働基準法公布。

戦後の労働環境を整備するための労働基準法が公布されました。
1947年4月7日、戦後日本の労働環境を整備するために労働基準法が公布されました。 GHQの指導を受け、生存権に基づき労働時間や賃金、休憩・休日、年次有給休暇などを規定しました。 また、労働組合の結成権や団体交渉権、労働争議権なども明記されました。 労働者の最低基準を法的に保障することで、経済復興を支える基盤を築きました。 その後も時代に合わせた改正が行われ、現在の日本の労働法制の中核となっています。
1947年 労働基準法
1948年

国連により世界保健機関 (WHO) が設立される。

世界保健機関 (WHO) が国連の専門機関として設立されました。
1948年4月7日、国際連合の専門機関として世界保健機関 (WHO) が設立されました。 WHO憲章は23か国などの署名により発効し、世界的な公衆衛生活動を統括する役割を担います。 感染症対策や疫学調査、保健政策の支援などを通じて、国際的な健康水準の向上を目指しています。 1950年代以降、天然痘撲滅プログラムやポリオ根絶計画など数多くの成果を挙げてきました。 保健に関する最大の国際機関として、現在も加盟国と連携し活動を続けています。
1948年 国連 世界保健機関
1955年

イギリスのウィンストン・チャーチル首相が辞任。アンソニー・イーデンが第64代首相に就任。

チャーチル首相が辞任し、イーデンが第64代イギリス首相に就任しました。
1955年4月7日、第二次世界大戦期の指導者として知られるウィンストン・チャーチルが首相を辞任しました。 健康上の理由や党内外の政治的圧力が背景にあり、在任期間は1951年からの二度目の政権でした。 同日、外相を務めていたアンソニー・イーデンが第64代首相に就任し、保守党政権を引き継ぎました。 イーデン政権はその後、スエズ危機などの難局に直面し、英国の外交・防衛政策に大きな影響を及ぼしました。 この交代は戦後英国政治の転換点として位置づけられています。
1955年 ウィンストン・チャーチル アンソニー・イーデン
1956年

スペインが、セウタ・メリリャ・イフニ・タルファヤを除くモロッコにある保護領を放棄。

スペインがセウタ・メリリャ・イフニ・タルファヤを除くモロッコの保護領を放棄しました。
1956年4月7日、スペインはモロッコに設置していた保護領のうち、セウタ・メリリャ・イフニ・タルファヤを除く地域を放棄しました。 これはモロッコ独立(1956年3月2日)に伴う措置で、一部地域はスペイン領として残されました。 保護領放棄によりモロッコは領域の大部分を回復し、国家統一が進展しました。 フランコ政権下の動きであり、植民地体制の縮小と脱植民地化の一環とされます。 現在もセウタとメリリャはスペイン領となり、地中海航路で重要な拠点となっています。
1956年 スペイン セウタ メリリャ イフニ タルファヤ モロッコ