772年 ‐ 道鏡

(700 - )

法王

法王
奈良時代の僧侶で、称徳天皇の寵愛を受けて権勢を振るい、法王の位に昇った人物。
道鏡(700年頃-772年)は奈良時代の僧侶で、称徳天皇の信任を得て権勢をふるった。 764年には法王の称号を賜り、政務の実権を握った。 皇位継承を狙ったとの疑いで政争に深く関与し、その台頭は朝廷内外の反発を招いた。 称徳天皇の崩御後に失脚し、僧籍を剥奪され流罪となった。 最晩年は流罪先で過ごし、その波乱の生涯は後世に語り継がれている。
772年 道鏡 法王 700年
1234年

サンチョ7世

(1154 - 1234)

ナバラ王

ナバラ王
12世紀のナバラ王国を統治し、1212年のラス・ナバス・デ・トロサの戦いで重要な役割を果たした君主。
サンチョ7世(1154年頃-1234年)はナバラ王国の王(在位: 1194年-1234年)で、「強王」と称された。 彼は1212年のラス・ナバス・デ・トロサの戦いで指揮を執り、ムワッヒド朝からの解放に貢献した。 領国内では都市の整備や通商路の確保を推進し、経済発展を図った。 同時に隣国との同盟や結婚政策を通じて外交関係を強化し、王国の安定に努めた。 長い治世の中でナバラの独立を維持し、その功績は後世まで語り継がれる。
1234年 サンチョ7世 ナバラ 1154年
1498年

シャルル8世

(1470 - 1498)

ヴァロワ朝第7代フランス王

ヴァロワ朝第7代フランス王
ヴァロワ朝第7代フランス王としてイタリア遠征を行い、ルネサンス文化の導入に影響を与えた君主。
シャルル8世(1470年-1498年)はヴァロワ朝の第7代フランス王(在位: 1483年-1498年)である。 1483年に父ルイ11世の跡を継ぎ即位し、幼少期は母アンヌ・ド・ブルターニュらが摂政を務めた。 1494年にはイタリア遠征を起こし、ナポリ王国を占領するなどフランスの影響力を地中海に拡大した。 この遠征はイタリア戦争の始まりとされ、以後数十年にわたるヨーロッパの覇権争いの火種となった。 また、イタリアからの芸術家や人文主義者を招いたことで国内にルネサンス文化を促進した。 しかし遠征中の事故により1498年に急逝した。
1498年 シャルル8世 ヴァロワ朝 フランス 1470年
天文5年3月17日

今川氏輝

(1513 - 1536)

駿河国の戦国大名

駿河国の戦国大名
駿河国の戦国大名として家督を継ぎ、領国支配と軍事活動に取り組んだ武将。
今川氏輝(1513年-1536年)は駿河国を支配した戦国大名である。 1526年に家督を継承し、領国内の内政改革や軍備強化に努めた。 隣国との抗争にも関与しつつ、駿河における今川氏の勢力維持を図った。 しかし1536年に政務中の暗殺により若くして没し、その死は今川家の内紛を招いた。 短い治世ながらも彼の統治は後の今川氏真の時代に影響を残した。
1536年 天文 3月17日 今川氏輝 駿河国 戦国大名 1513年
1614年

エル・グレコ

(1541 - 1614)

画家

画家
ルネサンス期に活躍した希有な画家で、独自の色彩感覚と長身像で知られる。
エル・グレコ(1541年-1614年、本名ドメニコ・テオトコプーロス)はギリシャ出身の画家である。 イタリアのヴェネツィアやローマで修業を積んだ後、1577年にスペインのトレドに定住し活動した。 特徴的な長い人体表現や鮮やかな色使い、劇的な光と影の対比が彼の作品にみられる。 代表作には『オルガス伯の埋葬』や『聖三位一体』などがあり、バロック美術への橋渡し役を担った。 生前は評価が分かれたが、後世に再評価され、近代美術に大きな影響を与えた。
1614年 エル・グレコ 画家 1541年
寛永15年2月23日

島津忠恒

(1576 - 1638)

初代薩摩藩主

初代薩摩藩主
戦国時代から江戸時代初期にかけて薩摩藩を開いた初代藩主で、島津家の基盤を築いた大名。
島津忠恒(1576年-1638年)は薩摩藩の初代藩主である。 文禄・慶長の役では朝鮮出兵に従軍し、島津軍の指揮を執った。 関ヶ原の戦いでは西軍に参加したが、戦後も領地を維持し藩の存続を図った。 治世下で検地や治水、交易促進などの内政改革を推進し、薩摩の経済基盤を強化した。 また、文化面でも朱印船貿易を奨励し、領内に多様な情報と技術をもたらした。 その統治手腕は後世の島津家繁栄の礎となった。
1638年 寛永 2月23日 島津忠恒 薩摩藩主 1576年
慶安元年閏1月21日

覚深法親王

(1588 - 1648)

江戸時代の皇族

江戸時代の皇族
江戸時代前期の皇族として宮廷の儀礼や学問に携わり、文化活動にも貢献した人物。
覚深法親王(1588年-1648年)は江戸時代前期の皇族である。 京都の宮廷において儀礼や学問を司り、天皇即位の儀式など重要な行事に関与した。 和歌や書道を好み、文化人としての一面も持ち合わせていた。 また、朝廷の祭祀や仏事の運営に携わり、宗教儀礼の管理にも尽力した。 晩年は隠居し、京都での文化活動を継続した。
1648年 慶安 1月21日 覚深法親王 江戸時代 皇族 1588年
1651年

レンナート・トルステンソン

(1603 - 1651)

スウェーデン陸軍元帥

スウェーデン陸軍元帥
三十年戦争で活躍したスウェーデンの陸軍元帥で、機動戦術に優れた軍事指導者。
レンナート・トルステンソン(1603年-1651年)はスウェーデン貴族に生まれた軍人である。 三十年戦争ではスウェーデン軍の指揮を執り、快速運動と砲兵の組み合わせにより数々の勝利を収めた。 特にブレッテンフェルトの戦い(1631年)などで戦術的才能を発揮し、敵軍を圧倒した。 戦後は国防総監として軍の再編を推進し、スウェーデンの常備軍体制の確立に貢献した。 また、和平交渉にも参与し、ウェストファリア条約締結に向けた外交活動を支援した。
1651年 レンナート・トルステンソン スウェーデン陸軍 元帥 1603年
1719年

ジャン=バティスト・ド・ラ・サール

(1651 - 1719)

カトリックの聖人

カトリックの聖人
フランス出身のカトリック司祭で、貧しい子女の教育改善に尽力し、ラサール会を創設した聖人。
ジャン=バティスト・ド・ラ・サール(1651年-1719年)はフランスの司祭であり教育者である。 1680年代にパリで貧しい子女の教育改善を目指し、同僚と共にラサール会(キリスト学校修道会)を設立した。 彼は修道士や共に学ぶ兄弟たちによる学校運営を通じ、一般大衆への読み書き教育を普及させた。 「良い教師が良い生徒を育てる」という教育理念を提唱し、教師研修にも力を注いだ。 1900年に列聖され、教育聖人として世界中の教会や学校で尊敬を集めている。
1719年 ジャン=バティスト・ド・ラ・サール カトリック 聖人 1651年
1761年

トーマス・ベイズ

(1702 - 1761)

数学者

数学者
18世紀のイギリスの牧師・数学者で、ベイズの定理を提唱した統計学の先駆者。
トーマス・ベイズ(1702年頃-1761年)はイギリスの牧師であり数学者である。 確率論に関する先駆的研究を行い、死後に息子リチャードによって発表された『論理的推論の論文』でベイズの定理を提示した。 この定理は事後確率を求める方法として統計学、機械学習、データ解析など幅広い分野で応用されている。 また、微積分や無限級数の研究も行い、学問的基礎の構築に寄与した。 生前は教会の説教活動に専念していたが、その業績は後世に大きな影響を与えた。
1761年 トーマス・ベイズ 数学者 1702年
1779年

イレール=マリン・ルエル

(1718 - 1779)

化学者

化学者
18世紀のフランスの化学者で、酸と塩基の反応に関する研究を行い、化学実験法の発展に寄与した。
イレール=マリン・ルエル(1718年–1779年)は、フランスの化学者です。 18世紀において酸と塩基の反応や分離技術の研究を進め、有機化学の基礎を築きました。 パリで化学講義を行い、多くの学生を指導した教育者としても知られています。 実験装置の改良や分析法の発展にも寄与し、精密化学技術の向上に貢献しました。 彼の研究は後世の化学者に大きな影響をもたらし、近代化学の礎となりました。
1779年 イレール=マリン・ルエル フランス語版 1718年
1783年

イグナーツ・ホルツバウアー

(1711 - 1783)

作曲家

作曲家
マンハイム楽派を代表するドイツの作曲家。交響曲やオペラの作品で知られる。
イグナーツ・ホルツバウアー(1711年–1783年)は、ドイツ・マンハイム楽派の中心人物の一人です。 オペラ『グンター・フォン・シュヴァルツブルク』などの舞台作品で高い評価を受けました。 彼の交響曲は革新的な管弦楽法を示し、後の作曲家に影響を与えました。 マンハイム宮廷楽団の指揮者として活動し、音楽演奏水準の向上に貢献しました。 その自由な音楽構成と抒情的な旋律は楽派の特徴を体現しています。
1783年 イグナーツ・ホルツバウアー 1711年