紀元前46年
ローマ内戦: タプススの戦いでユリウス・カエサルが元老院派の軍を破る。
紀元前46年、ローマ内戦の一連の戦いであるタプススの戦いで、ユリウス・カエサルが元老院派軍を破り決定的な勝利を収めた。
タプススの戦いは、紀元前46年4月6日に行われたローマ内戦の主要な戦闘である。
カエサル軍は北アフリカで元老院派の指導者キンナとメトッラを撃破した。
前回の戦いで退却した元老院派軍は再結集を図ったが、カエサルの戦術に屈した。
この勝利により、カエサルは事実上の全権を掌握し、独裁官への道を確実にした。
ローマ共和政の終焉と帝政への移行の序章とも言える出来事である。
紀元前46年
ローマ内戦
タプススの戦い
ユリウス・カエサル
元老院派
1320年
スコットランドでアーブロース宣言を採択。イングランドからの独立がほぼ成る。
1320年4月6日、スコットランドの貴族らが教皇庁に独立を訴える『アーブロース宣言』を採択した。
アーブロース宣言は、スコットランド王国の独立を認めるよう教皇に嘆願した文書である。
当時のイングランド王エドワード1世による支配への抵抗を背景に成立した。
領主らは自国の正当性を歴史的・法的根拠を交えて示した。
この宣言は民族自決と主権国家の概念を先取りするものとも評価される。
独立戦争への士気を高め、後のスコットランド国家形成に影響を与えた。
1320年
スコットランド
アーブロース宣言
イングランド
1862年
南北戦争: シャイローの戦いが始まる。
南北戦争最大級の激戦、シャイローの戦いが始まりました。
両軍の犠牲者数が甚大となった衝撃的な幕開けです。
1862年4月6日、テネシー州シャイロー近郊で南北戦争の大規模な戦闘が勃発しました。
北軍のオリバー・O・ハワード将軍率いる部隊と南軍のピーダーソン将軍らが激突。
初日の乱戦は膠着状態を招き、両軍ともに多大な損失を被りました。
最終的に北軍が現地を制圧しましたが、死傷者数は双方合わせて約2万5千人に上り、戦争史上最も凄惨な戦闘の一つとされています。
シャイローの戦いは南北戦争の長期化を象徴する出来事となりました。
1862年
南北戦争
シャイローの戦い
1865年
南北戦争: セイラーズクリークの戦い
南北戦争終結間近の戦い、セイラーズクリークの戦いが行われました。
リー将軍率いる部隊が大規模に包囲され、決定的な敗北を喫しました。
1865年4月6日から7日にかけてバージニア州セイラーズクリーク周辺で戦闘が発生。
リー将軍率いる南軍は北軍に包囲され、およそ8000名が捕虜となる大敗を喫しました。
この戦いで南軍の主力が壊滅的打撃を受け、戦意は大きく喪失。
数日後のアポマトックス降伏へとつながり、南北戦争終結への決定的な一歩となりました。
南軍側の敗北は南北対立の歴史的転換点として位置づけられています。
1865年
セイラーズクリークの戦い
慶応4年3月14日
前日から続く2度目の西郷隆盛と勝海舟の会談により、官軍による江戸総攻撃の中止と江戸城の無血開城が決定。
勝海舟と西郷隆盛の会談で、江戸総攻撃が回避され無血開城が決定しました。
日本の内戦を血を流さずに終結へ導いた歴史的合意です。
1868年4月6日(慶応4年3月14日)、明治維新期の江戸城無血開城が決定しました。
官軍側の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟が二度目の会談を行い、江戸総攻撃の中止で合意。
これにより江戸城はほとんど戦闘を伴わずに開城され、都市の破壊と犠牲を免れました。
無血開城は明治政府樹立への平和的移行を可能にし、日本の近代国づくりに大きな影響を与えました。
両者の交渉は和解の象徴として今日まで語り継がれています。
1868年
慶応
3月14日
西郷隆盛
勝海舟
江戸城の無血開城
1917年
第一次世界大戦: アメリカ合衆国がドイツに対して宣戦布告。
アメリカ合衆国が第一次世界大戦でドイツに宣戦布告しました。
連合国側への本格参戦の始まりです。
1917年4月6日、アメリカ合衆国議会はドイツに対して正式に宣戦布告を可決しました。
ドイツの無制限潜水艦作戦やジマーマン電報事件を受けて参戦を決断。
ウッドロー・ウィルソン大統領は『世界を民主主義の安全保障に』と演説し支持を訴えました。
アメリカ軍の参戦は連合国に新たな戦力と資源をもたらし、戦局を大きく動かしました。
最終的に1918年11月の停戦協定締結への道筋を開く転機となりました。
1917年
第一次世界大戦
宣戦布告
1941年
第二次世界大戦・バルカン戦線 (第二次世界大戦): ナチス・ドイツがユーゴスラビアおよびギリシャに侵攻。(ユーゴスラビア侵攻・ギリシャの戦い)
1941年4月6日、ナチス・ドイツがバルカン半島に侵攻し、ユーゴスラビアとギリシャで戦闘を開始した。
1941年4月6日、ナチス・ドイツ軍はバルカン戦線でユーゴスラビアとギリシャに侵攻しました。
ドイツ軍は航空爆撃と機甲部隊による速攻作戦を展開しました。
ユーゴスラビアは数日で降伏し、ギリシャでも激しい戦闘が続きました。
この侵攻によりバルカン半島は枢軸国支配下に置かれ、東地中海への進出路が確保されました。
連合軍は反撃を試みたものの、戦線は一時的に後退を余儀なくされました。
1941年
第二次世界大戦
バルカン戦線 (第二次世界大戦)
ナチス・ドイツ
ユーゴスラビア
ギリシャ
ユーゴスラビア侵攻
ギリシャの戦い
1941年
第二次世界大戦: イギリス軍がエチオピアの首都・アディスアベバを陥落し、イタリアの占領から解放。
1941年4月6日、イギリス軍がアディスアベバを解放し、イタリアの支配からエチオピアを解放した。
1941年4月6日、イギリス軍はエチオピアの首都アディスアベバを陥落させました。
イタリアによる占領支配はこれにより終焉を迎え、ハイレ・セラシエ1世の復位が実現しました。
アフリカ戦線における連合国側の大きな勝利と位置づけられています。
この解放作戦はイギリス東アフリカ軍の戦略的勝利となりました。
エチオピアの独立回復は国際社会にも大きな影響を与えました。
エチオピア
アディスアベバ
イタリア
1994年
ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件: ルワンダ大統領とブルンジ大統領が、搭乗していた飛行機を何者かに撃墜され死亡。
1994年4月6日、ルワンダとブルンジ両国の大統領を乗せた飛行機が撃墜され、ルワンダ大統領ハビャリマナとブルンジ大統領ンタリャミラが死亡しました。
この事件は、和平協議への途上で飛行機が撃墜されたことにより発生し、ルワンダ紛争を激化させる重大な契機となりました。ハビャリマナ大統領はフツ族政権の象徴的リーダーであり、支持者と反政府勢力の停戦協定の協議中でしたが、武装勢力と見られる何者かによって攻撃されました。同時に搭乗していたブルンジ大統領ンタリャミラも巻き込まれ、双方の国で政治的混乱が一気に深刻化しました。特にルワンダでは直後にジェノサイドが始まり、約100日間で80万人以上が犠牲になる惨事となりました。国際社会は事態の深刻さを認識しながらも即時介入できず、その後の国連平和維持活動のあり方にも大きな教訓を残しました。現在もこの事件は民族紛争と国際対応の難しさを示す歴史的事例として語り継がれています。
ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件
ルワンダ
ブルンジ