1199年

イングランド王リチャード1世(Lionheart)が死去。後継に指名された弟のジョンが即位。

1199年4月6日、十字軍で知られるイングランド王リチャード1世(獅子心王)が死去し、弟ジョンが王位を継承した。
リチャード1世は第三回十字軍に参加し、勇猛さで名を馳せた。 1199年にフランス遠征中に傷を負い、帰国途上に死去した。 彼の死により、子のいなかった王位継承権は弟ジョンに移った。 新王ジョンは即位後、王権強化と重税政策を進めたが、貴族との対立を招いた。 これが後のマグナ・カルタ制定の背景ともなった。
1199年 イングランド リチャード1世 ジョン
1320年

スコットランドでアーブロース宣言を採択。イングランドからの独立がほぼ成る。

1320年4月6日、スコットランドの貴族らが教皇庁に独立を訴える『アーブロース宣言』を採択した。
アーブロース宣言は、スコットランド王国の独立を認めるよう教皇に嘆願した文書である。 当時のイングランド王エドワード1世による支配への抵抗を背景に成立した。 領主らは自国の正当性を歴史的・法的根拠を交えて示した。 この宣言は民族自決と主権国家の概念を先取りするものとも評価される。 独立戦争への士気を高め、後のスコットランド国家形成に影響を与えた。
1320年 スコットランド アーブロース宣言 イングランド
1385年

ジョアン1世がポルトガル王に選出され即位。

1385年4月6日、ポルトガルの貴族たちがジョアン1世を王と選び、アヴィシュ朝が成立した。
ポルトガル国内で後継問題とカスティーリャの干渉を背景に紛争が続いていた。 ジョアン1世は1383–1385年危機を経て、貴族会議(コルテス)により王に選出された。 彼の即位により、ポルトガル王国はカスティーリャからの独立を維持した。 アヴィシュ朝は海洋進出を進め、後の大航海時代の礎を築いた。 ジョアン1世の統治は安定期の始まりと評価される。
1385年 ジョアン1世 ポルトガル
寛永10年2月28日

第一次鎖国令。江戸幕府が、奉書船以外で海外渡航・海外に長期在住した日本人の帰国を禁止。

1633年4月6日、江戸幕府が第一次鎖国令を発布し、奉書船以外の海外渡航を禁止した。
寛永10年のこの布令により、一般の日本人の海外渡航と海外長期滞在からの帰国が禁止された。 貿易は従来のオランダ商館と長崎奉書船に限定され、日本の国際窓口を厳格化した。 幕府はキリスト教禁圧と国家統制の観点から国際交流を制限した。 この政策はのちの鎖国体制確立への一歩となり、約200年続く孤立を招いた。 江戸時代の社会構造や経済にも深い影響を与えた歴史的布令である。
1633年 寛永 2月28日 鎖国 奉書船
1782年

ラーマ1世が、乱心をきたしたシャム国王タークシンを処刑し、自ら王位に就く。チャクリー王朝の始まり。

1782年4月6日、シャム国でラーマ1世が即位し、タークシン王を処刑してチャクリー王朝を開いた。
当時シャム国はタークシン王の精神的不安定により混乱していた。 チャクリー卿(後のラーマ1世)は都をバンコクに遷し新王朝を樹立する決断を固めた。 同日、タークシン王は反逆の罪で処刑され、ラーマ1世が正式に王位に就いた。 チャクリー王朝は今日まで続く長命な王朝となり、タイの近代化を推進した。 この即位は東南アジアの政治地図を一変させる転換点となった。
1782年 ラーマ1世 シャム タークシン チャクリー王朝
文化2年3月7日

長崎に来航中のロシア使節ニコライ・レザノフに通商拒絶を通告。

1805年4月6日、長崎に来航したロシア使節レザノフに対し、江戸幕府が通商を拒絶した。
ロシア帝国のニコライ・レザノフは日露貿易の開拓を目的に長崎へ来航した。 幕府は鎖国政策に基づき、オランダ商館以外との通商を一切認めなかった。 拒絶の背後にはキリスト教伝播への警戒と欧米列強への警戒があった。 レザノフは不成功に終わり、帰国後の外交戦略に影響を与えた。 この一件は日露関係と日本の対外政策史における重要なエピソードである。
1805年 文化 3月7日 ニコライ・レザノフ
1814年

ルイ18世がフランス王に即位。フランス復古王政が始まる。

1814年4月6日、ルイ18世がフランス王に即位し、ナポレオン後の復古王政が始まった。
ナポレオン没落後、ブルボン家の王政復古が進められた。 ルイ18世は憲章(憲法的王政)を導入し、立憲君主制への道を模索した。 国内では王党派と革命派の対立が続き、政治的緊張が高まった。 経済再建とフランス社会の秩序回復が大きな課題となった。 この即位はヨーロッパ再編の文脈で行われたウィーン会議とも連動している。
1814年 ルイ18世 フランス復古王政
文政8年2月18日

江戸幕府が異国船打払令(無二念打払令)を発布。

1825年4月6日、江戸幕府が異国船打払令を発布し、洋船を発見次第撃退する方針を定めた。
文政8年の打払令では、外国船が領海に近づくこと自体を脅威とみなした。 准許なき接近者は砲撃や拿捕を厭わない厳格措置が取られた。 背景にはアヘン戦争前夜の欧米列強の海軍力への危機感があった。 この方針はやがて米艦ポーハタン号事件などの摩擦を生む要因となった。 幕末の開国論議が活発化するきっかけにもなった歴史的布令である。
1825年 文政 2月18日 江戸幕府 異国船打払令
慶応4年3月14日

前日から続く2度目の西郷隆盛と勝海舟の会談により、官軍による江戸総攻撃の中止と江戸城の無血開城が決定。

勝海舟と西郷隆盛の会談で、江戸総攻撃が回避され無血開城が決定しました。 日本の内戦を血を流さずに終結へ導いた歴史的合意です。
1868年4月6日(慶応4年3月14日)、明治維新期の江戸城無血開城が決定しました。 官軍側の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟が二度目の会談を行い、江戸総攻撃の中止で合意。 これにより江戸城はほとんど戦闘を伴わずに開城され、都市の破壊と犠牲を免れました。 無血開城は明治政府樹立への平和的移行を可能にし、日本の近代国づくりに大きな影響を与えました。 両者の交渉は和解の象徴として今日まで語り継がれています。
1868年 慶応 3月14日 西郷隆盛 勝海舟 江戸城の無血開城
慶応4年3月14日

五箇条の御誓文発布。

新政府の基本方針を示す五箇条の御誓文が発布されました。 近代日本の礎を築く重要な宣言です。
1868年4月6日(慶応4年3月14日)、明治新政府は五箇条の御誓文を発表。 天皇を中心とした国家の基本理念として、広く民意を取り入れ、封建的特権の廃止を掲げました。 開国、平等、公共の精神を重視し、近代国家への移行を促進。 この宣言は国内外に大きな反響を呼び、後の憲法制定や法制改革に影響を与えました。 明治維新期の改革の出発点として位置づけられています。
五箇条の御誓文
1882年

自由党党首の板垣退助が遊説中に暴漢に襲われる。(岐阜事件)

自由党党首・板垣退助が岐阜で演説中に襲撃される岐阜事件が発生。 初期民権運動に衝撃を与えた政治事件です。
1882年4月6日、岐阜市で自由党党首の板垣退助が遊説中に暴漢に襲撃され負傷しました。 政府による言論弾圧や民権運動への圧力を象徴する事件として大きな議論を呼び起こします。 板垣は後に公職追放となりましたが、民権運動への支持はむしろ強まりました。 岐阜事件は明治期の政治的緊張を示す一例として歴史に刻まれ、言論・集会の自由の重要性が浮き彫りに。 事件後の憲法論議や政党政治の発展に影響を与えました。
1882年 自由党 板垣退助 岐阜事件
1917年

第一次世界大戦: アメリカ合衆国がドイツに対して宣戦布告。

アメリカ合衆国が第一次世界大戦でドイツに宣戦布告しました。 連合国側への本格参戦の始まりです。
1917年4月6日、アメリカ合衆国議会はドイツに対して正式に宣戦布告を可決しました。 ドイツの無制限潜水艦作戦やジマーマン電報事件を受けて参戦を決断。 ウッドロー・ウィルソン大統領は『世界を民主主義の安全保障に』と演説し支持を訴えました。 アメリカ軍の参戦は連合国に新たな戦力と資源をもたらし、戦局を大きく動かしました。 最終的に1918年11月の停戦協定締結への道筋を開く転機となりました。
1917年 第一次世界大戦 宣戦布告