紀元前46年

ローマ内戦: タプススの戦いでユリウス・カエサルが元老院派の軍を破る。

紀元前46年、ローマ内戦の一連の戦いであるタプススの戦いで、ユリウス・カエサルが元老院派軍を破り決定的な勝利を収めた。
タプススの戦いは、紀元前46年4月6日に行われたローマ内戦の主要な戦闘である。 カエサル軍は北アフリカで元老院派の指導者キンナとメトッラを撃破した。 前回の戦いで退却した元老院派軍は再結集を図ったが、カエサルの戦術に屈した。 この勝利により、カエサルは事実上の全権を掌握し、独裁官への道を確実にした。 ローマ共和政の終焉と帝政への移行の序章とも言える出来事である。
紀元前46年 ローマ内戦 タプススの戦い ユリウス・カエサル 元老院派
1199年

イングランド王リチャード1世(Lionheart)が死去。後継に指名された弟のジョンが即位。

1199年4月6日、十字軍で知られるイングランド王リチャード1世(獅子心王)が死去し、弟ジョンが王位を継承した。
リチャード1世は第三回十字軍に参加し、勇猛さで名を馳せた。 1199年にフランス遠征中に傷を負い、帰国途上に死去した。 彼の死により、子のいなかった王位継承権は弟ジョンに移った。 新王ジョンは即位後、王権強化と重税政策を進めたが、貴族との対立を招いた。 これが後のマグナ・カルタ制定の背景ともなった。
1199年 イングランド リチャード1世 ジョン
1320年

スコットランドでアーブロース宣言を採択。イングランドからの独立がほぼ成る。

1320年4月6日、スコットランドの貴族らが教皇庁に独立を訴える『アーブロース宣言』を採択した。
アーブロース宣言は、スコットランド王国の独立を認めるよう教皇に嘆願した文書である。 当時のイングランド王エドワード1世による支配への抵抗を背景に成立した。 領主らは自国の正当性を歴史的・法的根拠を交えて示した。 この宣言は民族自決と主権国家の概念を先取りするものとも評価される。 独立戦争への士気を高め、後のスコットランド国家形成に影響を与えた。
1320年 スコットランド アーブロース宣言 イングランド
1385年

ジョアン1世がポルトガル王に選出され即位。

1385年4月6日、ポルトガルの貴族たちがジョアン1世を王と選び、アヴィシュ朝が成立した。
ポルトガル国内で後継問題とカスティーリャの干渉を背景に紛争が続いていた。 ジョアン1世は1383–1385年危機を経て、貴族会議(コルテス)により王に選出された。 彼の即位により、ポルトガル王国はカスティーリャからの独立を維持した。 アヴィシュ朝は海洋進出を進め、後の大航海時代の礎を築いた。 ジョアン1世の統治は安定期の始まりと評価される。
1385年 ジョアン1世 ポルトガル
天正19年2月13日

豊臣秀吉が千利休を京都から堺へ追放。

1591年4月6日、豊臣秀吉が千利休を京都から堺に追放し、茶道界を動揺させた。
千利休は茶道を大成させた文化人として知られていた。 豊臣秀吉との関係は深かったが、突如として秀吉から京都追放の命を受けた。 追放の理由は諸説あるが、権力との軋轢や利休の過剰な風貌が背景にあるともされる。 堺へ戻った利休はその後も茶道を指導し続け、文化史に大きな影響を残した。 この事件は戦国期の権力と文化の相克を象徴している。
1591年 天正 2月13日 豊臣秀吉 千利休
寛永10年2月28日

第一次鎖国令。江戸幕府が、奉書船以外で海外渡航・海外に長期在住した日本人の帰国を禁止。

1633年4月6日、江戸幕府が第一次鎖国令を発布し、奉書船以外の海外渡航を禁止した。
寛永10年のこの布令により、一般の日本人の海外渡航と海外長期滞在からの帰国が禁止された。 貿易は従来のオランダ商館と長崎奉書船に限定され、日本の国際窓口を厳格化した。 幕府はキリスト教禁圧と国家統制の観点から国際交流を制限した。 この政策はのちの鎖国体制確立への一歩となり、約200年続く孤立を招いた。 江戸時代の社会構造や経済にも深い影響を与えた歴史的布令である。
1633年 寛永 2月28日 鎖国 奉書船
1782年

ラーマ1世が、乱心をきたしたシャム国王タークシンを処刑し、自ら王位に就く。チャクリー王朝の始まり。

1782年4月6日、シャム国でラーマ1世が即位し、タークシン王を処刑してチャクリー王朝を開いた。
当時シャム国はタークシン王の精神的不安定により混乱していた。 チャクリー卿(後のラーマ1世)は都をバンコクに遷し新王朝を樹立する決断を固めた。 同日、タークシン王は反逆の罪で処刑され、ラーマ1世が正式に王位に就いた。 チャクリー王朝は今日まで続く長命な王朝となり、タイの近代化を推進した。 この即位は東南アジアの政治地図を一変させる転換点となった。
1782年 ラーマ1世 シャム タークシン チャクリー王朝
文化2年3月7日

長崎に来航中のロシア使節ニコライ・レザノフに通商拒絶を通告。

1805年4月6日、長崎に来航したロシア使節レザノフに対し、江戸幕府が通商を拒絶した。
ロシア帝国のニコライ・レザノフは日露貿易の開拓を目的に長崎へ来航した。 幕府は鎖国政策に基づき、オランダ商館以外との通商を一切認めなかった。 拒絶の背後にはキリスト教伝播への警戒と欧米列強への警戒があった。 レザノフは不成功に終わり、帰国後の外交戦略に影響を与えた。 この一件は日露関係と日本の対外政策史における重要なエピソードである。
1805年 文化 3月7日 ニコライ・レザノフ
1814年

ルイ18世がフランス王に即位。フランス復古王政が始まる。

1814年4月6日、ルイ18世がフランス王に即位し、ナポレオン後の復古王政が始まった。
ナポレオン没落後、ブルボン家の王政復古が進められた。 ルイ18世は憲章(憲法的王政)を導入し、立憲君主制への道を模索した。 国内では王党派と革命派の対立が続き、政治的緊張が高まった。 経済再建とフランス社会の秩序回復が大きな課題となった。 この即位はヨーロッパ再編の文脈で行われたウィーン会議とも連動している。
1814年 ルイ18世 フランス復古王政
文政8年2月18日

江戸幕府が異国船打払令(無二念打払令)を発布。

1825年4月6日、江戸幕府が異国船打払令を発布し、洋船を発見次第撃退する方針を定めた。
文政8年の打払令では、外国船が領海に近づくこと自体を脅威とみなした。 准許なき接近者は砲撃や拿捕を厭わない厳格措置が取られた。 背景にはアヘン戦争前夜の欧米列強の海軍力への危機感があった。 この方針はやがて米艦ポーハタン号事件などの摩擦を生む要因となった。 幕末の開国論議が活発化するきっかけにもなった歴史的布令である。
1825年 文政 2月18日 江戸幕府 異国船打払令
1830年

末日聖徒イエス・キリスト教会が組織される。

アメリカで末日聖徒イエス・キリスト教会が正式に組織されました。 モルモン教としても知られる宗教団体の歴史的な始まりです。
1830年4月6日、ジョセフ・スミスを指導者とし、末日聖徒イエス・キリスト教会(LDS教会)が正式に設立されました。 この団体は後に「モルモン教」とも呼ばれ、独自の聖典『モルモン書』を持つことが特徴です。 初期の信者は迫害を受けつつも、後にユタ州などへ移住し共同体を築きました。 現在では世界中に数百万人の信者を抱える国際的な宗教組織に成長しています。 アメリカ宗教史において重要な位置を占める出来事です。
1830年 末日聖徒イエス・キリスト教会
1862年

南北戦争: シャイローの戦いが始まる。

南北戦争最大級の激戦、シャイローの戦いが始まりました。 両軍の犠牲者数が甚大となった衝撃的な幕開けです。
1862年4月6日、テネシー州シャイロー近郊で南北戦争の大規模な戦闘が勃発しました。 北軍のオリバー・O・ハワード将軍率いる部隊と南軍のピーダーソン将軍らが激突。 初日の乱戦は膠着状態を招き、両軍ともに多大な損失を被りました。 最終的に北軍が現地を制圧しましたが、死傷者数は双方合わせて約2万5千人に上り、戦争史上最も凄惨な戦闘の一つとされています。 シャイローの戦いは南北戦争の長期化を象徴する出来事となりました。
1862年 南北戦争 シャイローの戦い