敏達天皇14年3月1日

仏教排斥を唱える物部守屋が、疫病流行の原因が仏教崇拝にあると奏上。

物部守屋が当時の疫病流行を仏教崇拝のせいとし、仏教排斥を奏上した出来事。
敏達天皇14年(585年)3月1日、豪族・物部守屋が朝廷に対し、疫病の原因を仏教信仰の増加に求めて排斥を主張しました。 日本に伝来した仏教は蘇我氏が支援し、物部氏は伝統神道を重視して対立していた背景があります。 守屋は寺院の破壊や僧侶の追放を求める奏上を行い、朝廷内で大きな論争を巻き起こしました。 この対立は仏教政策の重要な転換点となり、後の蘇我馬子による仏教擁護へと繋がっていきます。 古代日本の宗教と政治が交差するエピソードとして注目される出来事です。
585年 敏達天皇 3月1日 仏教 物部守屋
1654年

ウェストミンスター条約締結により第1次英蘭戦争が終結。

1654年、ウェストミンスター条約により第一次英蘭戦争が正式に終結。
1652年に始まった第一次英蘭戦争は海上貿易を巡るイングランドとオランダの衝突でした。 激しい海戦が大西洋やカリブ海で展開され、多くの船舶と人命が失われました。 1654年4月5日、ウェストミンスター条約が締結され、両国は互いに貿易権を認め合うことになりました。 条約には占領地の返還や賠償金の支払いなども盛り込まれ、領土問題が一段落しました。 この合意は海上貿易の安定化をもたらし、後の英蘭間協力の基盤ともなりました。 第一次英蘭戦争はヨーロッパにおける覇権争いの一部として歴史に刻まれています。
1654年 ウェストミンスター条約 第1次英蘭戦争
1722年

オランダ海軍提督、ヤコブ・ロッゲフェーンがイースター島を発見。発見日が復活祭(イースター)であったことが島の名前の由来。

オランダ海軍提督ヤコブ・ロッゲフェーンが復活祭にイースター島を発見し、命名の由来となった。
1722年4月5日(イースターサンデー)、オランダ東インド会社の船団を率いたヤコブ・ロッゲフェーン提督が太平洋南東部で初めてイースター島を目撃しました。 発見が復活祭の日にあたったことから「パスクア(スペイン語でイースター)島」と名付けられました。 島は独特の石像モアイや孤立した地理的位置で知られ、後の研究者の関心を集めることになります。 ロッゲフェーンの航海はオランダの海洋探検史における重要な成果と位置づけられています。 イースター島はその後スペインやチリの支配を経て、現在はチリ領となっています。 島の文化や歴史には未解明の謎が多く、現代でも学術研究が続けられています。
1722年 オランダ 海軍 ヤコブ・ロッゲフェーン イースター島 イースター
1862年

南北戦争: ヨークタウンの包囲戦が始まる。

南北戦争中、北軍によるヨークタウン包囲戦が開戦。
1862年4月5日、アメリカ南北戦争において北軍司令官ジョージ・B・マクレラン率いるポトマック軍がバージニア州ヨークタウンを包囲し始めました。 ヨークタウンはリッチモンド攻略に向けた戦略的要衝であり、防衛線突破のため北軍は大規模な攻勢を準備しました。 包囲戦は長期化し、トレントン要塞やウィリアムズバーグ周辺で小規模な衝突も発生しました。 南軍はリチャード・E・リー指揮下で巧妙な防衛を展開し、北軍の前進を遅らせました。 北軍は徹底的な包囲を果たせず、後の半島方面作戦に影響を与える結果となりました。 この戦いは南北戦争初期の重要な攻防戦の一つとされています。
1862年 南北戦争 ヨークタウンの包囲戦
明治2年2月24日

東京奠都: 天皇の東京滞在中は太政官を東京に置くことを決定。

明治政府が東京奠都を決定し、太政官を東京に設置。
1869年4月5日(明治2年2月24日)、明治政府は天皇の東京滞在に合わせ、太政官の機能を東京へ移す「東京奠都」を正式に決定しました。 これにより、これまで京都を中心にしていた朝廷機構が事実上東京に移転し、中央集権化が加速しました。 太政官は国家の最高行政機関として北海道開拓や廃藩置県などの近代化政策を指導しました。 東京奠都は新政府の近代化路線を象徴する出来事であり、現在の首都機能の基礎となりました。 また西洋式官僚制度の導入や都市計画の推進にも大きな影響を与えました。 最終的に首都が法律で東京と定められたのは1898年のことでした。
1869年 明治 2月24日 東京奠都 太政官
明治5年2月28日

兵部省を廃止し陸軍省・海軍省を設置。

明治政府が兵部省を廃止し、陸軍省と海軍省を新設。
1872年4月5日(明治5年2月28日)、明治政府は軍制改革の一環として兵部省を廃止しました。 代わりに近代国家の軍事機構整備を目的とした陸軍省と海軍省が新設されました。 陸軍省はフランス式を参考にした歩兵・砲兵中心の組織改編と士官養成制度の整備を担当しました。 海軍省は長崎造船所で国産軍艦の建造を推進し、近代的な海軍力の確立を目指しました。 この改革は欧米列強に追いつくための重要な一歩となり、西南戦争や日清戦争での勝利につながる基盤を作りました。
1872年 2月28日 兵部省 陸軍省 海軍省
1879年

チリがペルー・ボリビアに宣戦布告、太平洋戦争が勃発する。

チリがペルー・ボリビアに宣戦布告し、太平洋戦争が開戦。
1879年4月5日、チリ政府は隣国ペルーとボリビアに宣戦布告し、硝酸塩資源を巡る太平洋戦争(挟撃戦争)が勃発しました。 戦争の主因は鉱産資源の所有権と輸出権を巡る経済的利害対立にあります。 チリ海軍は太平洋で迅速に制海権を掌握し、アリカやイキケの港を封鎖しました。 陸戦ではアタカマ砂漠地帯を舞台に激戦が繰り広げられ、両軍は厳しい環境に直面しました。 ボリビアは内陸国で海軍力に劣り、戦況は徐々にチリ優勢に傾きました。 1879年から1884年にかけて戦闘と和平交渉が続き、最終的にチリが勝利を収めました。
1879年 チリ ペルー ボリビア 宣戦布告 太平洋戦争
1904年

総武鉄道本所駅(現在の錦糸町駅)〜両国橋駅(現在の両国駅)間が開業。

総武鉄道本所駅から両国橋駅間が開業し、現在の錦糸町~両国線が始まる。
1904年4月5日、総武鉄道は本所駅(現在の錦糸町駅)から両国橋駅(現在の両国駅)までの区間を開通させました。 この路線は隅田川東岸を結び、東京市内の鉄道網を拡充しました。 開業により墨田区や江東区の交通利便性が大きく向上し、沿線地域の住宅地・商業地化が進みました。 当時の蒸気機関車牽引の列車と木造駅舎が風景の一部となっていました。 後に総武鉄道は国有化され、現在のJR総武線の一部として引き継がれています。
1904年 総武鉄道 錦糸町駅 両国駅
1914年

北勢鉄道(現在の三岐鉄道北勢線)の大山田駅(現在の西桑名駅)〜楚原駅間14.5kmで開業。

北勢鉄道の大山田~楚原間14.5kmが開業、現在の三岐鉄道北勢線の一部。
1914年4月5日、北勢鉄道は大山田駅(後の西桑名駅)から楚原駅まで約14.5kmの区間を開通させました。 三重県北勢地域の農産物や鉱産資源輸送を目的として敷設された路線です。 開業当初は蒸気機関車が牽引し、小規模な駅舎や信号所が沿線に設けられていました。 地元住民の通学や買物の足としても利用され、地域生活に大きく貢献しました。 その後国有化され、現在は第三セクターの三岐鉄道北勢線として親しまれています。
1914年 北勢鉄道 西桑名駅 楚原駅
1915年

広島県産業奨励館(のちの原爆ドーム)竣工。

広島県産業奨励館(後の原爆ドーム)が竣工し、見本市会場として開設。
1915年4月5日、広島県産業奨励館が竣工し、産業振興を目的とした見本市や展示会の施設として開館しました。 建物はチェコ出身の建築家ヤン・レッツェルが設計し、ルネサンス様式を取り入れた鉄筋コンクリート構造でした。 織物や機械、農産物など多彩な地元産品の展示が行われ、企業誘致と技術交流を促進しました。 1934年には中央公会堂として文化イベントや講演会も開催されました。 1945年8月6日の原爆投下で被爆しながらも外壁が残存し、後に「原爆ドーム」として平和記念碑に指定されました。 現在はユネスコ世界文化遺産に登録され、多くの訪問者を集める平和の象徴となっています。
1915年 原爆ドーム
1918年

日本・イギリスがロシア革命への干渉のため陸戦隊をウラジオストクに上陸させる。

1918年4月5日、日本とイギリスは共同でウラジオストクに陸戦隊を上陸させ、ロシア革命への干渉を開始した。
第一次世界大戦終結後の混乱期、列強はロシア内戦へ介入を試みていた。 1918年4月5日、日本とイギリスは共同でウラジオストクに陸戦隊を上陸させた。 この上陸作戦は反ボリシェヴィキ勢力を支援し、鉄道防備や治安維持を目的としていた。 日本軍は陸戦隊を派遣し、イギリス軍も少数部隊を協力させて行動した。 この介入はシベリア出兵の一部と位置づけられ、その後のシベリア地域での連合国軍介入のきっかけになった。 極東情勢を複雑化させ、日英関係にも少なからぬ影響を与えた。
1918年 ロシア革命 陸戦隊 ウラジオストク
1923年

日本民主青年同盟の前身の日本共産青年同盟が設立。

1923年4月5日、日本共産青年同盟が設立され、後の日本民主青年同盟の前身となった。
日本共産青年同盟は、1923年4月5日に設立された左翼系青年組織の先駆けである。 当初は日本共産党の青年組織として、労働運動や社会主義思想の普及を目指した。 機関誌の発行や集会での演説などを通じて若者への啓蒙活動を展開した。 しかし治安維持法の適用などにより活動は弾圧され、組織の存続は困難を極めた。 戦後、同盟は名称を変えながら再編され、最終的に日本民主青年同盟へと発展した。 その歩みは日本の戦前・戦後を通じた左派青年運動の歴史を物語っている。
1923年 日本民主青年同盟