寛政2年2月19日

長谷川宣以の建議により、江戸隅田川河口に無宿人の厚生施設・人足寄場を設置。

江戸幕府が隅田川河口に無宿人救済施設・人足寄場を開設しました。
1790年4月3日(寛政2年2月19日)、長谷川宣以の建議を受け江戸幕府は隅田川河口に人足寄場を設置しました。 人足寄場は無宿人(定住先のない失業者)に食事や宿泊を提供し、河岸工事などの労働を斡旋する施設です。 救済と治安維持を目的とし、無宿人の社会復帰を図る新しい社会福祉施策として注目されました。 開設当初は約200名程度を収容し、運営は幕府直轄で行われました。 この制度は後の救貧政策や監獄制度の基盤となり、近代的な福祉制度の萌芽とも評価されています。
1790年 寛政 2月19日 長谷川宣以 隅田川 人足寄場
万延元年3月11日

孝明天皇が勅使を派遣し、神武天皇の御陵祭を行わしめる。以降、毎年4月3日が神武天皇祭の祭日となる。

孝明天皇が神武天皇祭を制定し、毎年4月3日を祭日に定めました。
1860年4月3日(万延元年3月11日)、孝明天皇は勅使を派遣して神武天皇の御陵祭を執り行わせました。 これにより翌年から毎年4月3日が神武天皇祭の祭日として定められ、国家的儀礼となりました。 神武天皇祭は日本最古の天皇である神武天皇を祀る儀式で、皇統と国家の正統性を強調する意味合いを持ちます。 この祭日は後に政府の公式行事として継承され、近代国家としての皇室儀礼整備に寄与しました。 同時に国民統合の象徴として、天皇制の基盤を固める役割を果たしました。
1860年 万延 孝明天皇 神武天皇 御陵 神武天皇祭 祭日
1888年

志賀重昂が国粋主義団体・政教社の機関誌『日本人』を創刊。

志賀重昂が国粋主義団体の機関誌『日本人』を創刊しました。
1888年4月3日、地理学者かつ思想家の志賀重昂は政教社の機関誌として『日本人』を創刊しました。 同誌は日本本来の伝統や武士道精神を重視し、欧米化への反発を背景とした国粋主義的論調を展開しました。 政治や文化面での欧米追随に批判的な立場から、日本の独自性と国民意識の醸成を提唱しました。 『日本人』は知識人や官僚層を中心に影響を与え、明治期のナショナリズム形成に重要な役割を果たしました。 その後、雑誌は時代の流れとともに廃刊となりました。
1888年 志賀重昂 国粋主義 政教社 日本人
1899年

横浜港を2月18日に出港した日本人790人が「佐倉丸」でペルー・アンコン港(カヤオ港)に上陸(「ペルー日本友好の日」)。

日本人移民790人が「佐倉丸」でペルーに到着し、両国友好の契機となりました。
1899年4月3日、横浜港を出航した移民船『佐倉丸』がペルーのアンコン港(カヤオ港)に到着し、日本人790名が入植しました。 これは日本からの組織的な南米移民の先駆けとなる出来事で、主に農業労働を目的として派遣されました。 移民たちは過酷な労働環境に直面しながらも、現地社会との交流や日本文化の紹介に努めました。 この日を「ペルー日本友好の日」として両国で記念され、在ペルー日本人社会の礎となっています。 日本人移民は後の南米各国へのディアスポラに影響を与え、邦人社会の発展に寄与しました。
1899年 横浜港 2月18日 佐倉丸 ペルー
1919年

山本実彦が雑誌『改造』を創刊。

1919年に山本実彦が雑誌『改造』を創刊し、日本の知識人や政治家に影響を与えました。
山本実彦が創刊した『改造』は1919年4月3日に第1号が刊行されました。政治、経済、社会問題を幅広く扱い、当時の日本における自由主義思想や言論の発展に貢献しました。多くの著名な評論家や学者が寄稿し、議論の場を提供しました。大正デモクラシー期の知的ムーブメントを代表する雑誌として、後の出版文化にも影響を与えました。長年にわたり刊行され続け、日本の政治・社会思想史において重要な位置を占めています。
1919年 山本実彦 改造
2000年

北京大学が、北京大学医学院を再び吸収合併する。

北京大学が医学部組織を再編し、北京大学医学院を再び吸収合併した。
2000年4月3日、北京大学は独立運営していた北京大学医学院を再び吸収合併した。 この合併により医学部教育と研究体制が北京大学の一元管理下に整備された。 医学院は教員人事やカリキュラムを北京大学の規定に合わせて再編成された。 合併は国家規模の教育改革と大学統合強化の一環とされる。 これにより北京大学は医療教育のプレゼンス向上と研究力強化を図った。
2000年 北京大学