1043年
エドワード懺悔王がイングランド王として戴冠。
エドワード懺悔王が1043年にイングランド王として戴冠し、その信仰深い治世を開始しました。
1043年4月3日、エドワード懺悔王はイングランド王として戴冠しました。
彼の治世では教会の権威が強化され、1045年頃からウェストミンスター寺院の建設が始まりました。
慈悲深い統治と法の整備に努めたことから、民衆からの支持を集めました。
その信仰心と清廉さは死後に聖王として崇敬される要因となり、宗教史に大きな影響を残しています。
王位継承を巡る混乱は、後のノルマン・コンクエストへの伏線ともなりました。
1043年
エドワード懺悔王
1367年
ナヘラの戦い。
1367年4月3日、百年戦争の一戦としてナヘラの戦いが行われ、イギリス・カスティーリャ連合軍が勝利しました。
ナヘラの戦いは1367年4月3日にスペイン北部のナヘラ近郊で行われました。
イギリス側はエドワード黒太子と亡命中のカスティーリャ王ペドロ1世が連合し、フランス支援を受けたアンリ・デ・トラスタマラ率いる軍と衝突しました。
激戦の末、黒太子連合軍が決定的な勝利を収め、ペドロ1世の政権復帰が実現しました。
しかし戦費負担がイングランド財政に大きな打撃を与え、後の国内不安や財政難へとつながったとされます。
この勝利は一時的にフランス勢力を後退させ、ペドロ1世の再統治に重要な役割を果たしました。
1367年
ナヘラの戦い
天正10年3月11日
天目山の戦い。武田勝頼が織田信長軍に敗れ、武田家が滅亡。
武田勝頼が織田信長軍に敗北し、武田氏が滅亡した最後の戦い。
1582年4月3日(天正10年3月11日)、武田勝頼は天目山にて織田信長軍と激突しました。
敗北した勝頼は山中で自害し、これによって戦国大名武田氏は滅亡しました。
この戦いは織田信長の甲信地方支配確立を象徴し、以後信長権力は東海道沿線まで拡大します。
武田氏の家臣団は多くが離散するか豊臣秀吉・徳川家康に仕え、戦国時代の勢力図は大きく変動しました。
天目山の戦いは日本の封建制度と大名間の勢力争いの転換点となりました。
1582年
天正
3月11日
天目山の戦い
武田勝頼
織田信長
寛政2年2月19日
長谷川宣以の建議により、江戸隅田川河口に無宿人の厚生施設・人足寄場を設置。
江戸幕府が隅田川河口に無宿人救済施設・人足寄場を開設しました。
1790年4月3日(寛政2年2月19日)、長谷川宣以の建議を受け江戸幕府は隅田川河口に人足寄場を設置しました。
人足寄場は無宿人(定住先のない失業者)に食事や宿泊を提供し、河岸工事などの労働を斡旋する施設です。
救済と治安維持を目的とし、無宿人の社会復帰を図る新しい社会福祉施策として注目されました。
開設当初は約200名程度を収容し、運営は幕府直轄で行われました。
この制度は後の救貧政策や監獄制度の基盤となり、近代的な福祉制度の萌芽とも評価されています。
1790年
寛政
2月19日
長谷川宣以
隅田川
人足寄場
万延元年3月11日
孝明天皇が勅使を派遣し、神武天皇の御陵祭を行わしめる。以降、毎年4月3日が神武天皇祭の祭日となる。
孝明天皇が神武天皇祭を制定し、毎年4月3日を祭日に定めました。
1860年4月3日(万延元年3月11日)、孝明天皇は勅使を派遣して神武天皇の御陵祭を執り行わせました。
これにより翌年から毎年4月3日が神武天皇祭の祭日として定められ、国家的儀礼となりました。
神武天皇祭は日本最古の天皇である神武天皇を祀る儀式で、皇統と国家の正統性を強調する意味合いを持ちます。
この祭日は後に政府の公式行事として継承され、近代国家としての皇室儀礼整備に寄与しました。
同時に国民統合の象徴として、天皇制の基盤を固める役割を果たしました。
1860年
万延
孝明天皇
神武天皇
御陵
神武天皇祭
祭日
1865年
南北戦争: アメリカ連合国(南軍)の首都リッチモンドが陥落。
南北戦争で北軍が南軍の首都リッチモンドを占領しました。
1865年4月3日、南北戦争末期にユリシーズ・グラント率いる北軍が南軍の首都リッチモンドを陥落させました。
南軍のロバート・E・リーは撤退を余儀なくされ、政府関係者や民間人は市外へ逃避しました。
リッチモンド陥落は南軍の戦意を大きく揺るがし、同月9日のアポマトックスでのリー降伏への道を開きました。
この出来事は南北戦争の事実上の終結を象徴し、アメリカの歴史における分裂から統一への転換点となりました。
これにより奴隷制廃止を目指す北軍の勝利が決定的となり、戦後の復興と公民権運動への布石となりました。
1865年
南北戦争
アメリカ連合国
リッチモンド
1888年
志賀重昂が国粋主義団体・政教社の機関誌『日本人』を創刊。
志賀重昂が国粋主義団体の機関誌『日本人』を創刊しました。
1888年4月3日、地理学者かつ思想家の志賀重昂は政教社の機関誌として『日本人』を創刊しました。
同誌は日本本来の伝統や武士道精神を重視し、欧米化への反発を背景とした国粋主義的論調を展開しました。
政治や文化面での欧米追随に批判的な立場から、日本の独自性と国民意識の醸成を提唱しました。
『日本人』は知識人や官僚層を中心に影響を与え、明治期のナショナリズム形成に重要な役割を果たしました。
その後、雑誌は時代の流れとともに廃刊となりました。
1888年
志賀重昂
国粋主義
政教社
日本人
1899年
横浜港を2月18日に出港した日本人790人が「佐倉丸」でペルー・アンコン港(カヤオ港)に上陸(「ペルー日本友好の日」)。
日本人移民790人が「佐倉丸」でペルーに到着し、両国友好の契機となりました。
1899年4月3日、横浜港を出航した移民船『佐倉丸』がペルーのアンコン港(カヤオ港)に到着し、日本人790名が入植しました。
これは日本からの組織的な南米移民の先駆けとなる出来事で、主に農業労働を目的として派遣されました。
移民たちは過酷な労働環境に直面しながらも、現地社会との交流や日本文化の紹介に努めました。
この日を「ペルー日本友好の日」として両国で記念され、在ペルー日本人社会の礎となっています。
日本人移民は後の南米各国へのディアスポラに影響を与え、邦人社会の発展に寄与しました。
1899年
横浜港
2月18日
佐倉丸
ペルー
1899年
日本で最初に全土をカバーした地質図、100万分の1「大日本帝国地質図」が地質調査所から発行される。
地質調査所が日本全土を網羅した1:100万地質図を発行しました。
1899年4月3日、日本の地質調査所は初めて全国をカバーする100万分の1スケールの『大日本帝国地質図』を発行しました。
数十年にわたる現地調査と試料分析をもとに、岩石分布や地形分類が体系的にまとめられました。
この地質図は鉱山開発やインフラ建設計画など産業界における資源探索に大きく貢献しました。
学術的にも日本列島の地質構造理解を飛躍的に進展させ、地質学研究の基礎資料となりました。
以降、改訂版や詳細図が刊行され、日本の地質体系の整備が継続的に進められました。
地質図
1911年
東京の日本橋が石橋に改築され開通式。
木製の日本橋が石橋に改築され、近代的な開通式が行われました。
1911年4月3日、東京の日本橋は木造から石造アーチ橋へと改築され、開通式が執り行われました。
この改築は明治期の都市近代化政策の一環で、耐久性と交通量の増加に対応する目的がありました。
石橋は重量車両の通行にも耐えうる構造とされ、新たな街のランドマークとなりました。
その後も日本橋は道路網の起点としての役割を維持し、経済活動の中心地としての地位を象徴しています。
現在の橋は戦後の再建を経て文化財にも指定され、歴史的価値を伝えています。
1911年
日本橋
1914年
吉野二郎監督による日本初のカラー映画『義経千本桜 吉野山道中』が公開。
1914年、日本初のカラー映画『義経千本桜 吉野山道中』が吉野二郎監督により公開され、映像表現の新たな可能性を示しました。
日本初のカラー映画として1914年4月3日に公開された『義経千本桜 吉野山道中』は、吉野二郎監督によって制作されました。当時の撮影技術の限界を超えた試みであり、手彩色技術により鮮やかな色彩表現を実現しました。題材は日本の古典芸能を代表する歌舞伎作品で、映像化により当時の観客に新鮮な体験を提供しました。本作は後の日本映画におけるカラー作品制作の先駆けとなり、映画技術の発展に大きな影響を与えました。現存するフィルムは限られていますが、その歴史的価値は高く評価されています。
1914年
吉野二郎
映画
1919年
山本実彦が雑誌『改造』を創刊。
1919年に山本実彦が雑誌『改造』を創刊し、日本の知識人や政治家に影響を与えました。
山本実彦が創刊した『改造』は1919年4月3日に第1号が刊行されました。政治、経済、社会問題を幅広く扱い、当時の日本における自由主義思想や言論の発展に貢献しました。多くの著名な評論家や学者が寄稿し、議論の場を提供しました。大正デモクラシー期の知的ムーブメントを代表する雑誌として、後の出版文化にも影響を与えました。長年にわたり刊行され続け、日本の政治・社会思想史において重要な位置を占めています。
1919年
山本実彦
改造