長保2年2月25日
女御藤原彰子が新たに一条天皇の皇后に冊立されて「中宮」を号し、中宮を号していた皇后藤原定子が「皇后宮」となる。
1000年、藤原彰子が一条天皇の皇后に冊立され「中宮」の称号を得た平安京の宮廷儀礼。
一条天皇(在位986–1011年)の時代、藤原氏の摂関政治が頂点を迎えていた。
1000年2月25日、女御藤原彰子が皇后に冊立され、新たに「中宮」の称号を得た。
これにより、以前から皇后を務めていた藤原定子は「皇后宮」と呼ばれる地位へと移行した。
中宮と皇后宮の制度は、平安朝の宮廷儀礼と摂関権力の象徴でもあった。
彰子は父・藤原道長の権勢を背景に宮中で強い影響力を持ち、文学作品にもたびたび登場する。
1000年
長保
2月25日
藤原彰子
一条天皇
藤原定子
元弘2年/正慶元年3月7日
鎌倉幕府が、元弘の乱で挙兵した後醍醐天皇の隠岐への流罪を決定。
1332年、鎌倉幕府が元弘の乱に関与した後醍醐天皇を隠岐へ流罪と決定した。
元弘元年(1331年)に始まった元弘の乱は、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと起こした反乱である。
鎌倉幕府は反乱鎮圧のために兵を派遣し、後醍醐天皇を捕えることに成功した。
1332年3月7日、幕府は後醍醐天皇の隠岐島への流罪を正式に決定した。
隠岐への流刑は天皇の権威を抑え込む目的があり、朝廷政治への幕府の介入を象徴した出来事でもある。
流罪によって後醍醐天皇は都を離れたが、その後も倒幕運動の中心人物として影響力を維持した。
この流刑は後醍醐天皇の後の笠置山挙兵や建武の新政への序章ともいえる。
1332年
元弘
正慶
3月7日
鎌倉幕府
元弘の乱
後醍醐天皇
流罪
1453年
メフメト2世によるコンスタンティノープル攻防戦が始まる。
1453年、オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープル包囲戦を開始した。
1453年4月2日、オスマン帝国の皇帝メフメト2世はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルへの包囲戦を開始した。
この攻防戦は古代ローマ以来約千年続いたビザンツ帝国の終焉を決定づけるものとなった。
オスマン軍は強力な大砲を用い、城壁の突破を試みたことが歴史的に注目される。
防御側のビザンツ帝国は都市の要塞化やギリシャ火などによって抵抗した。
包囲は約53日間におよび、同年5月29日に最終的にオスマン軍が都市を制圧した。
この勝利によりメフメト2世は『征服者(ファティフ)』の称号を得て、帝国の繁栄を加速させた。
1453年
メフメト2世
コンスタンティノープル攻防戦
1513年
フアン・ポンセ・デ・レオンが処女航海でフロリダに到達する。
1513年、スペインの探検家フアン・ポンセ・デ・レオンが処女航海でフロリダに到達した。
1513年4月2日、スペインの探検家フアン・ポンセ・デ・レオンが最初の航海で北アメリカ大陸南東部のフロリダに上陸した。
彼は長い間「若返りの泉」を探し求めて探検を行い、その過程でフロリダを新大陸として記録に残した。
当時フロリダはスペインの新領土として帝国の拡大に重要な位置を占めた。
ポンセ・デ・レオンの航海は西インド諸島から北上する形で行われ、先住民との最初の接触をもたらした。
この探検は後のスペインによる北アメリカ南部の植民地化の契機となった。
1513年
フアン・ポンセ・デ・レオン
フロリダ
寛永元年2月15日
猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が江戸京橋に猿若座(後の中村座)を開く。江戸歌舞伎の始まり。
1624年、初代中村勘三郎が江戸京橋に猿若座(後の中村座)を開業し、江戸歌舞伎の礎を築いた。
寛永元年(1624年)2月15日、猿若勘三郎(後の初代中村勘三郎)は江戸京橋に猿若座を開場した。
猿若座は後に中村座と改称され、江戸歌舞伎の中心的劇場として発展した。
当時、歌舞伎は庶民の娯楽として人気を博し、江戸の文化的景観を一変させた。
猿若勘三郎は歌舞伎役者としての技量だけでなく、経営者としても優れた手腕を発揮した。
中村座の開場は江戸における演劇興行の普及と興行形態の確立に大きく寄与した。
1624年
寛永
2月15日
初代中村勘三郎
京橋
中村座
歌舞伎
1783年
ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクがイギリスの第15代首相に就任。
1783年、ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク(ポートランド公爵)がイギリス第15代首相に就任した。
1783年4月2日、ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクがイギリス王国の第15代首相に任命された。
彼はホイッグ党に属し、長年にわたって政府要職を歴任していたベテラン政治家であった。
首相就任後はアメリカ独立戦争後の復興や財政改革に取り組んだ。
ポートランド公爵の指導のもと、イギリスはヨーロッパ大陸諸国との均衡外交を強化した。
また、内政面では穏健な政策を採り、政党間の調停役としての評価も高かった。
1783年
ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク
1792年
アメリカ合衆国造幣局設立。
1792年、アメリカ合衆国造幣局(US Mint)が設立された。
1792年4月2日、アメリカ合衆国議会は造幣局設立法(Coinage Act of 1792)を可決した。
これによりワシントンD.C.に最初の造幣局が開設され、統一通貨の製造が開始された。
US Mintの設立は経済基盤の強化と国内貿易の円滑化を目的としていた。
初期にはセントやダイムなど複数の硬貨が発行され、国内外で流通した。
その後、造幣技術の発展と共に州内外に支局が拡大されていった。
1792年
アメリカ合衆国造幣局
1801年
ナポレオン戦争: コペンハーゲンの海戦
1801年、ナポレオン戦争下のコペンハーゲンの海戦が勃発した。
1801年4月2日、イギリス海軍はナポレオン戦争中、デンマーク=ノルウェー連合艦隊に対しコペンハーゲン港内で攻撃を開始した。
ネルソン提督率いるイギリス艦隊は近接戦闘を展開し、港内要塞を砲撃した。
デンマークはバルト海交易路の中立を保持しようとしたが、イギリスは北方艦隊の脅威を排除する狙いがあった。
激しい砲撃戦は数時間に及び、最終的にデンマーク艦隊は降伏を余儀なくされた。
この勝利によりイギリスは同盟国の北方艦隊を制圧し、ナポレオンへの圧力を強化した。
1801年
ナポレオン戦争
コペンハーゲンの海戦
1890年
皇紀2550年を記念して官幣大社として橿原神宮を創建。初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮廷があったとされる畝傍橿原宮の地に創建された。
1890年、神武天皇を祀る橿原神宮が官幣大社として創建された。
1890年4月2日、皇紀2550年を記念して奈良県橿原市に橿原神宮が創建された。
建国の始祖とされる神武天皇を祀り、その宮廷があったと伝えられる畝傍橿原宮の地に建てられた。
創建にあたっては明治政府が国家神道の象徴として位置づけ、官幣大社に昇格した。
朱塗りの社殿や広大な境内は日本の伝統建築と庭園文化の融合を示している。
現在も祭礼や参拝が盛んに行われ、多くの観光客を集める歴史的名所となっている。
1890年
皇紀
橿原神宮
神武天皇
1904年
小泉八雲がアメリカで『怪談 (Kwaidan)』を刊行。
1904年、小泉八雲がアメリカで怪談集『怪談 (Kwaidan)』を刊行した。
1904年4月2日、日系アイルランド人作家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)がアメリカで怪談集『怪談 (Kwaidan)』を出版した。
本書には日本の伝説や民話に基づく短編が収められ、異界的な世界観が欧米読者を魅了した。
八雲は日本文化への深い理解を背景に、独自の英語表現で日本怪談の魅力を伝えた。
刊行直後から文学界で注目され、後の翻訳や映画化など多方面で影響を及ぼした。
『怪談』は海外における日本文化紹介の先駆けとも評され、現在も名著として知られる。
1904年
小泉八雲
怪談
1905年
瀬戸自動鉄道(現在の名鉄瀬戸線)で蒸気動車の運行が開始される。日本初の気動車運行。
1905年4月2日、瀬戸自動鉄道(現在の名鉄瀬戸線)で蒸気動車の運行が始まり、日本初の気動車による鉄道運行が実現しました。
日本初の気動車として導入された蒸気動車は、瀬戸自動鉄道が名古屋と瀬戸を結ぶ新たな交通手段を提供しました。運行開始により鉄道輸送の効率化が図られ、地域の発展に大きく貢献しました。蒸気動車は従来の客車牽引方式とは異なり、機関車と客車が一体化した構造を持ち、自走式の利便性が特徴でした。運行は当初試験的なものでしたが、その後の気動車技術発展の礎となりました。
1905年
名鉄瀬戸線
気動車
1922年
『週刊朝日』『サンデー毎日』が創刊。
1922年4月2日、『週刊朝日』と『サンデー毎日』が同日に創刊され、日本の定期刊行誌市場に新たな潮流を生み出しました。
『週刊朝日』は朝日新聞社、『サンデー毎日』は毎日新聞社がそれぞれ創刊した週刊誌で、政治・社会から文化・芸能まで幅広い話題を扱いました。当初から大衆向けの読み物として人気を集め、両誌は戦後の日本における週刊誌文化を築く代表的な媒体となりました。特に大正時代末期のメディア多様化の中で、新たな情報発信の形を示し、以後の雑誌出版界に大きな影響を与えました。
1922年
週刊朝日
サンデー毎日