1853年

インドのボンベイと郊外を結ぶ鉄道が開業。アジア初の鉄道。

1853年、アジア初の鉄道としてインドのボンベイと郊外を結ぶ路線が開通しました。
1853年4月1日、インドのムンバイ(当時のボンベイ)と郊外のターナ間を結ぶ鉄道が開業しアジア初の鉄道となりました。建設はイギリス東インド会社によって行われ、蒸気機関車による定期運行が始まりました。この鉄道は植民地統治の効率化を目的としており貨物輸送や軍事移動にも活用されました。開業によりインドにおける近代的交通網の整備が本格化し経済発展の礎を築きました。後のインド全土への鉄道網拡大の先駆けとして重要な役割を果たしました。
1853年 インド ボンベイ 鉄道
1873年

郵便料金が全国均一となる(書状は市内1銭・市外2銭)

1873年、日本で郵便料金が全国均一制となり市内1銭・市外2銭に統一されました。
1873年4月1日、明治政府は日本国内の郵便料金を全国均一制とし書状の市内料金を1銭、市外料金を2銭に定めました。それまで地域ごとに異なっていた郵便料金が統一され国民の通信費負担が明確になりました。この改革は近代的な郵便制度整備の一環であり諸外国との料金制度調整にもつながりました。郵便制度の利便性向上により商業取引や情報交換が活発化し社会経済の発展を後押ししました。以後日本の郵便網は急速に拡充され1877年には万国郵便連合に加盟しました。
1873年
1893年

碓氷峠越えの官設鉄道・横川駅 軽井沢駅(後の信越本線、現在廃止)が開業。高崎駅 直江津駅が全通。

明治26年4月1日、官設鉄道の信越本線で横川駅と軽井沢駅が開業し、高崎駅から直江津駅間が全通しました。
碓氷峠越え区間の難所を含む信越本線は、東京と新潟を結ぶ重要幹線として整備されました。横川駅と軽井沢駅は1893年に開業し、峠越え列車の拠点となりました。これにより高崎駅から直江津駅までの全通が実現し、物流と人の往来が大幅に向上しました。軽井沢は避暑地としての発展の契機を迎え、観光産業にも貢献しました。現在は廃止された区間もありますが、当時の鉄道技術の粋が結集した路線です。
1893年 碓氷峠 横川駅 軽井沢駅 信越本線 高崎駅 直江津駅
1907年

南満洲鉄道(満鉄)が営業を開始。

明治40年4月1日、南満洲鉄道株式会社(満鉄)が正式に営業を開始しました。
南満洲鉄道(満鉄)は日露戦争の戦費補填を目的として南満洲で運営された鉄道会社です。満洲地域の鉄道網整備を進め、軍事輸送と物資輸送の基盤を築きました。列車運行とともに沿線都市の発展を促し、現地経済に大きな影響を与えました。満鉄は植民地経営の中核機関として位置づけられ、事業範囲は鉄道にとどまらず鉱業や港湾開発にも及びました。戦後の南満洲での日本勢力の衰退とともに満鉄も解体されました。
南満洲鉄道
1913年

北陸本線が全通。

大正2年4月1日、北陸本線が全通し、敦賀から金沢を経由して直江津まで鉄道網がつながりました。
北陸本線は福井県の敦賀を起点に新潟県の直江津までを結ぶ幹線鉄道です。1913年の全通により、日本海側の物流と旅客輸送が大きく促進されました。沿線各地の産業発展や観光地へのアクセスが向上し、地域経済の活性化に寄与しました。線路敷設には険しい地形や豪雪地帯での建設技術が投入され、鉄道技術の進歩を示す事例ともなりました。現在も主要幹線として多くの人々に利用されています。
1913年 北陸本線
1921年

北大阪電気鉄道(現・阪急電鉄京都本線・千里線)十三駅 豊津駅間が開業。

北大阪電気鉄道が十三駅と豊津駅の間で開業し、阪急電鉄京都本線と千里線の一部が誕生しました。
1921年4月1日、北大阪電気鉄道(現・阪急電鉄)の十三駅から豊津駅間が開通し、京都本線と千里線の運行が始まりました。これにより大阪市内と摂津地域を結ぶ交通網が大幅に拡充され、通勤・通学や物流が便利になりました。当時は人口増加に伴う都市化が進み、鉄道網の整備が急務とされていました。開業当初は蒸気や電気の併用運行であったことや、地域の発展と沿線開発の契機となった点が注目されます。現在も阪急電鉄の主要路線として多くの利用者に支持され、沿線には住宅地や商業施設が広がっています。
1921年 北大阪電気鉄道 阪急電鉄 京都本線 千里線 十三駅 豊津駅
1927年

小田原急行鉄道・新宿駅 小田原駅(現・小田急小田原線)が開業。

小田原急行鉄道(現小田急小田原線)が新宿~小田原間で開業し、東京と箱根方面を直結しました。
1927年4月1日、小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)の新宿駅から小田原駅間が開業し、小田原線の運行がスタートしました。当初は急行列車の設定が話題を呼び、都心と西南地域を結ぶ高速鉄道として注目されました。沿線開発が進み、新宿から藤沢、箱根湯本へのアクセスが飛躍的に向上しました。これにより観光地や住宅地の発展が促進され、企業誘致や通勤圏の拡大に寄与しました。現在も小田急線は東京近郊の主要路線として多くの利用客を支えています。
1927年 新宿駅 小田原駅 小田急小田原線
1965年

戦後初の日本国産旅客機YS 11の国内初就航(東京 徳島 高知)。

1965年4月1日、戦後初の日本国産旅客機YS-11が東京−徳島−高知ルートで国内初就航しました。 国産航空機開発の成果を示す歴史的なフライトです。
YS-11は日本航空機製造(NAL/後の川崎重工)が開発した初の国産ターボプロップ旅客機です。 1957年に開発が正式決定され、1962年に初飛行、1965年の就航で実用化段階に入りました。 本便は東京羽田空港を出発後、徳島空港、そして高知空港への定期便として運航が開始されました。 座席数は60席前後で、国内地方路線の需要に応える設計となっており、地方空港網の活性化に寄与しました。 YS-11はその後も日本各地や海外へと導入され、国産航空機の品質と信頼性を示しました。 航空機産業復興の象徴となり、その技術は後のジェット機開発にもつながる重要なステップでした。
1965年 YS-11 東京 徳島 高知
1967年

アメリカ合衆国運輸省が業務開始。

1967年4月1日、米国で新設された運輸省(U.S. Department of Transportation)が正式に業務を開始しました。 交通政策の統括機関として連邦政府の役割を強化した日です。
運輸省(USDOT)は航空、鉄道、道路、海事など各種交通政策を総括する連邦省庁として設立されました。 それまで運輸行政は複数の省庁に分散していたが、1966年の法成立を受け、一元的な組織に再編されました。 新設により全国的な交通インフラ整備計画や安全基準の統一的運用が可能となりました。 高速道路の建設促進や公共交通機関の改善、交通安全対策の強化などが組織的に推進されました。 以後、USDOTはアメリカの経済発展と都市化を支える重要な政策立案機関として機能し続けています。 航空業界の規制緩和や環境対策、テロ対策など、時代に応じた多様な交通課題に取り組んできました。
1967年 アメリカ合衆国運輸省
1969年

板橋浄水場廃止。

1969年4月1日、東京都板橋区にあった板橋浄水場が廃止され、運用を終了しました。 都市インフラの再編が進んだ出来事です。
板橋浄水場は東京23区の水道用水を処理する主要な浄水施設として稼働してきました。 浄水場では原水を取水し、沈殿・ろ過・消毒など複数の工程を経て安全な飲料水を供給していました。 1969年4月1日の廃止により、同地域の水道需要は他の浄水場への分散や新設施設への移行で補われました。 高度経済成長期に伴う水道水需要の増加や技術革新に対応するための都市インフラ見直しの一環でした。 この廃止は都市インフラの更新と地域の水環境管理の進展を象徴する出来事です。
1969年 板橋浄水場
1971年

京王相模原線の京王多摩川駅 京王よみうりランド駅間が開業。

京王相模原線の京王多摩川駅と京王よみうりランド駅間の区間が開業し、地域交通と観光アクセスが向上しました。
1971年4月1日、京王電鉄が運営する京王相模原線の一部区間として、京王多摩川駅~京王よみうりランド駅間が新たに開業しました。 この新設区間により調布市と稲城市の結びつきが強まり、とりわけよみうりランドへのアクセス利便性が大きく向上しました。 開業当初は沿線周辺の住宅地開発が進んでおらず、レジャー利用を中心に利用者が増加しました。 鉄道開通を契機に沿線の商業振興や観光誘客に拍車がかかり、地域経済の活性化にも寄与しました。 以降、京王相模原線は東京都心と多摩地域をつなぐ重要路線として、さらなる設備近代化が進められています。
1971年 京王相模原線 京王多摩川駅 京王よみうりランド駅
1984年

三陸鉄道開業。

岩手県沿岸部を走る三陸鉄道が営業を開始し、地域交通と観光を支える路線として発足しました。
1984年4月1日、岩手県沿岸部で三陸鉄道が開業し、北リアス線と南リアス線の運行を開始しました。 沿線は漁村や観光地が点在し、住民の日常生活を支える足として期待が寄せられました。 海岸線に沿った車窓風景は美しく、観光列車の運行や地域振興にも一役買っています。 東日本大震災で甚大な被害を受けましたが、地元住民や自治体の努力で復旧・再開され、コミュニティの絆を象徴する存在となりました。 以降も三陸鉄道は地域の生活と観光を支える重要路線として運営が続けられています。
1984年 三陸鉄道