1906年

鉄道国有法公布。

1906年、日本で鉄道国有法が公布され、主要私鉄の国有化が進みました。
明治政府は鉄道網の整備と統一運営を目的に鉄道国有法を制定しました。 同年3月31日に公布され、大手私鉄の買収国有化が正式に決定しました。 これにより政府直轄の鉄道省が創設され、運賃や路線計画の一元管理が可能になりました。 国有化は経済発展と治安維持、軍事輸送など多方面への影響をもたらしました。 戦前日本の交通インフラ基盤を築いた重要法案です。
1906年 鉄道国有法
1924年

村山貯水池完成。

村山貯水池が完成し、多摩地域の水利用基盤が強化。
1924年3月31日、東京都西多摩郡の多摩川上流に村山貯水池(村山ダム)が完成しました。 この貯水池は東京市(現東京都)への安定的な水供給と洪水調節を目的として建設されました。 堤高は約35メートル、総貯水容量は数千万立方メートルに上ります。 完成当初から多摩地域の基幹水源として機能し、都市化の進展を支えました。 現在では周辺が公園として整備され、市民の憩いの場にもなっています。
1924年 村山貯水池
1929年

大阪電気軌道(今の近畿日本鉄道)が伊賀電気鉄道を合併、伊賀線となる。

大阪電気軌道が伊賀電気鉄道を合併し、伊賀線を開業。関西の私鉄網が拡大。
1929年3月31日、大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)が伊賀電気鉄道を合併し、伊賀線(現・近鉄伊賀線)が開業しました。 この合併により関西地域の私鉄ネットワークが拡大し、伊賀地方と大阪を結ぶ新たな交通手段が誕生しました。 路線は当初狭軌(1067mm)で建設され、地域の産業振興や観光開発に寄与しました。 その後近鉄の一部として運行が継続し、現在も地元輸送の重要路線となっています。 地域経済と住民の生活を支える鉄道路線の一つです。
1929年 近畿日本鉄道 伊賀線
1965年

1898年2月1日に通水を開始した東京近代水道の中核施設淀橋浄水場が廃止。東村山浄水場へ機能移転された。

1965年、東京近代水道の中核であった淀橋浄水場が廃止され、機能が東村山浄水場に移転されました。水道インフラ整備の転換点です。
淀橋浄水場は1898年に通水を開始し、近代的な水道システムの中心を担ってきました。都心部への安定供給を実現し、都市の発展を支えた歴史的施設です。1965年3月31日に老朽化対策と供給量増大のため廃止され、その機能は東村山浄水場へ移転されました。東村山浄水場は最新の浄水技術を導入し、より広域への給水を可能にしました。この移転は東京の水道インフラ整備が次のステージに進む重要な転換点となりました。
1965年 1898年 2月1日 淀橋浄水場 東村山浄水場
1969年

大阪市電がこの日限りで全線廃止。

1969年、大阪市電が全線廃止され、路面電車の歴史に幕を閉じました。都市交通の変遷を象徴する出来事です。
大阪市電は1903年に営業を開始し、大阪市内を網羅する路面電車網として市民に親しまれました。しかし自動車交通の増加や地下鉄整備の進展に伴い、次第に利用者が減少しました。1969年3月31日をもって最終運行を終え、全線が廃止されました。これにより道路上の電車軌道は撤去され、バスや地下鉄への移行が加速しました。現在も市電を懐かしむ保存車両や観光復元路線が存在し、交通史の一幕として記憶されています。
1969年 大阪市電
1972年

横浜市電が最終営業。翌4月1日付で全線廃止。

1972年3月31日、横浜市電が営業を終了し、翌4月1日に全線が廃止されました。半世紀以上にわたり市民を支えた路面電車の歴史に幕を下ろしました。
横浜市電は明治期に開業し、市内を網羅する路面電車として長く親しまれてきました。自動車やバスの普及に伴い利用者数が減少し、都市交通政策の転換期を迎えます。1972年3月31日が最終営業日となり、翌4月1日付で全路線が廃止されました。廃止後はバス路線への切り替えが進められ、市電跡地には歩道や自転車道が整備されました。現在も復刻車両の走行イベントなどが行われ、市民の記憶に残る存在となっています。
1972年 横浜市電 4月1日
1974年

前日3月30日に営業運転を終了した名古屋市電が無料のお名残乗車運転を実施。翌4月1日全線廃止。

1974年3月31日、営業最終日を迎えた名古屋市電が無料のお名残乗車を実施しました。翌日の全線廃止を前に多くのファンが別れを惜しみました。
名古屋市電は大正時代に運行を開始し、市内の主要路線を結ぶ交通手段として親しまれてきました。市電廃止に伴い、1974年3月31日には無料のお名残乗車イベントが開催され、地元住民や愛好家が多数参加しました。最終日は旧型車両から最新型まで多彩な車両が走り、記念グッズの配布や写真撮影コーナーも設けられました。翌4月1日には全路線が正式に廃止され、以降はバス路線へ移行。現在も市電を題材にした展示や復刻イベントが行われ、市民の記憶に残る伝説的な最後の日となりました。
1974年 3月30日 名古屋市電
1976年

仙台市電が最終営業。翌4月1日全線廃止。

1976年3月31日、仙台市電が最終営業を迎え、翌4月1日に全線が廃止されました。70年以上の歴史に終止符が打たれました。
仙台市電は1907年に開業し、市街地と郊外を結ぶ路面電車として長く親しまれてきました。高度経済成長期以降の自動車交通の普及により利用客は減少し、廃止論が浮上。1976年3月31日に最終運行が行われ、翌日全線廃止となりました。廃止後はバス路線への移行が進み、停留所跡には記念碑が建てられています。現在も鉄道ファンによる記念乗車会や資料展示が行われ、市電の歴史を伝える活動が続いています。
1976年 仙台市電
1980年

シカゴ・ロック・アイランド・アンド・パシフィック鉄道がストライキの影響で運航を停止。その後、セントルイス・サウスウェスタン・アンド・ミッドコンティネント鉄道が大部分を買収した。

1980年3月31日、シカゴ・ロック・アイランド・アンド・パシフィック鉄道がストライキで運航を停止しました。その後、セントルイス・サウスウェスタン鉄道が大部分を買収しました。
シカゴ・ロック・アイランド・アンド・パシフィック鉄道(通称ロッキアイランド鉄道)は長年にわたり中西部の貨物・旅客輸送を担ってきました。労働組合との賃金交渉が難航し、1980年3月31日に全面ストライキを実施。これにより運行が停止し、同社は経営悪化に拍車がかかりました。その後、セントルイス・サウスウェスタン・アンド・ミッドコンティネント鉄道(現ナショナル・ヨーロピアン・トランスポート)が大部分の路線と資産を買収しました。買収後は統合・再編が進み、中西部鉄道網の再構築が図られています。鉄道業界における労使関係と合併再編の典型例として知られます。
1980年 シカゴ・ロック・アイランド・アンド・パシフィック鉄道 セントルイス・サウスウェスタン・アンド・ミッドコンティネント鉄道
1981年

福井鉄道南越線がこの日限りで廃止。

福井鉄道が運営する南越線が1981年3月31日をもって廃止され、沿線地域の公共交通に大きな影響を与えた。
南越線は福井県内の地域を結ぶローカル鉄道として、通勤通学や物流に利用されてきました。路線廃止前には沿線住民や鉄道ファンが最終列車を見送り、鉄道文化の一つの節目となりました。1981年3月31日の廃止により、地域住民は代替バスなどに移行せざるを得なくなりました。鉄道路線の消滅は、地方交通のあり方を考える契機ともなりました。現在は廃線跡を活用した遊歩道などの整備が進み、地域の歴史を伝える場となっています。
1981年 福井鉄道 南越線
1984年

国鉄日中線・相模線西寒川支線・赤谷線・魚沼線・清水港線がこの日限りで廃止。

国鉄が昭和59年3月31日に日中線や相模線西寒川支線など複数の盲腸線を廃止し、地方交通網の再編が進行。
日中線、相模線西寒川支線、赤谷線、魚沼線、清水港線などの路線は都市部から距離がある盲腸線として積み残されていました。1984年3月31日をもってこれらが一斉に廃止され、沿線地域には空白地帯が生まれました。国鉄は経営改善策の一環で採算性の低い路線を整理し、地方鉄道やバス路線への移行を促進しました。廃線跡は土木遺構やサイクリングロードなどに活用されるケースも見られます。一方で、鉄道を失った沿線住民の足の確保や地域活性化の課題は残されました。
1984年 国鉄 日中線 相模線 赤谷線 魚沼線 清水港線
1985年

国鉄相生線・渚滑線・万字線・倉吉線・矢部線・勝田線・添田線・室木線・香月線が最終営業。翌4月1日全線廃止。

国鉄相生線、渚滑線など9路線が1985年3月31日の最終営業をもって廃止、翌日全線が運行停止となった。
相生線、渚滑線、万字線、倉吉線、矢部線、勝田線、添田線、室木線、香月線の9路線はいずれも地方の盲腸線として知られていました。1985年3月31日の最終営業を終え、翌4月1日に全線が廃止されました。国鉄は採算性の低い路線の整理を進め、地方交通の再構築を図りました。廃止路線の多くはバス転換や廃線跡の遊歩道化で対応が試みられましたが、地域の鉄道文化が失われたことへの惜別も大きかったです。地域振興と交通インフラの両立が今も課題として残ります。
1985年 相生線 渚滑線 万字線 倉吉線 矢部線 勝田線 添田線 室木線 香月線