1807年

ウィリアム・キャベンディッシュ=ベンティンク ポートランド公爵が2回目の英国首相に就任。

1807年、ウィリアム・キャベンディッシュ=ベンティンク(ポートランド公爵)は英国首相に二度目の就任を果たしました。
ウィリアム・キャベンディッシュ=ベンティンク(1738–1809)は貴族であり政治家。 彼は1763年に初めて首相となり、1807年3月31日に再び首相職に就任しました。 第二次就任はナポレオン戦争期の情勢を背景としており、対仏政策が焦点となりました。 内政では経済安定と財政改革を目指しましたが、諸改革は議会での支持を得にくく、限定的なものに留まりました。 短期間の政権ながら、王党派としての立場を鮮明にし、後の保守主義政治に影響を与えました。
1807年 ウィリアム・キャベンディッシュ=ベンティンク ポートランド公爵
嘉永7年3月3日

ペリー提督と江戸幕府の間に全12ヶ条からなる日米和親条約(神奈川条約)が結ばれ、下田・函館が通商港とされる。

1854年、日米和親条約(神奈川条約)が締結され、下田と函館が初の通商港として開港しました。
アメリカ東インド艦隊司令官マシュー・ペリー提督と江戸幕府との交渉により調印されました。 条約は全12か条からなり、捕鯨活動の保証や難破船取り扱いなどを規定しています。 幕府側には井伊直弼らがあたり、開国政策の一環として締結を推進しました。 下田と函館の2港開港により、西洋諸国との本格的な貿易が開始されました。 この条約は後の日米修好通商条約など諸条約締結への礎ともなりました。
1854年 嘉永 3月3日 ペリー提督 江戸幕府 日米和親条約 下田 函館
1885年

イギリスがボツワナ共和国を保護領とする。

1885年、イギリスがボツワナ(当時ベチュアナランド)を保護領とする宣言を行いました。
アフリカ分割時代における英国の影響力拡大政策の一環です。 ベチュアナランドは南アフリカ北部の内陸地域で、ボーア人との緩衝地帯として重視されていました。 1885年3月31日、ヴィクトリア女王は正式に保護領化を宣言しました。 これにより現地のブツワナ人王国は英国保護下に置かれ、内政自治が許可されました。 保護領化は資源管理や地政学的安定を図る目的がありました。
1885年 イギリス ボツワナ共和国
1905年

タンジール事件: ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がモロッコの港であるタンジールを訪問する。

1905年、タンジール事件でヴィルヘルム2世がモロッコ訪問を行い、国際的緊張を高めました。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は鉄道完成祝賀のためモロッコのタンジールを訪問しました。 英仏両国の勢力均衡を揺さぶる外交的挑発と受け止められ、摩擦を生みました。 この訪問はモロッコ問題の火種となり、ロンドン会議やアルジェ協定へとつながりました。 最終的に1906年のアルヘシラス会議で国際協調が図られるまで緊張は続きました。 欧州列強の帝国主義競争を象徴する出来事です。
1905年 タンジール事件 ドイツ ヴィルヘルム2世 モロッコ タンジール
1909年

セルビアがオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナの支配を承認する。

1909年、セルビアがオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を承認しました。
1908年、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合すると宣言し緊張が高まりました。 セルビアは同地域のスラブ系住民との結びつきを理由に反対姿勢を示していました。 しかし条約交渉の結果、1909年3月31日に認可文書に調印しました。 これによりバルカン半島の勢力均衡が変化し、後の第一次世界大戦の遠因ともされます。 国際社会ではロシアやドイツなど列強の対応も注目されました。
1909年 セルビア オーストリア ボスニア ヘルツェゴヴィナ
1917年

アメリカ合衆国がデンマーク領西インド諸島を2500万ドルで購入し、ヴァージン諸島と改称。

アメリカ合衆国がデンマーク領西インド諸島を購入し、ヴァージン諸島と改称。20世紀初頭の領土再編の一例。
1917年3月31日、アメリカ合衆国はデンマーク領西インド諸島を約2500万ドルで購入し、同地区を「ヴァージン諸島」と改称しました。 この取引は第一次世界大戦中の戦略的価値や海上補給路の確保を目的として行われたとされます。 購入後はアメリカ海軍が暫定的に統治を行い、1927年に民政へ移管されました。 現在のアメリカ領ヴァージン諸島は美しいビーチリゾート地として知られ、多くの観光客を集めています。 領土再編の一例として、20世紀初頭の地政学的動きを象徴する出来事です。
1917年 デンマーク ヴァージン諸島
1919年

ハイデラバード・ハイ・コートが完成。

ハイデラバード・ハイ・コートが完成。インド南部の司法拠点が整備された。
1919年3月31日、インド南部ハイデラバードにおいてハイデラバード・ハイ・コート(高等裁判所)の建物が完成しました。 この裁判所は当時のニザーム朝の下で司法機能を強化するために設立された重要な施設です。 建築様式はイスラムとヨーロッパの折衷様式を取り入れており、地域の歴史的建造物のひとつとされています。 完成後、ハイデラバード・ハイ・コートは周辺地域の法的紛争を裁く中心的機関として機能しました。 現在も同地で最高裁判所としての役割を担い続けています。
1919年 ハイデラバード・ハイ・コート
1921年

オーストラリア陸軍の航空部門を改組してオーストラリア空軍を設置。

オーストラリア空軍(RAAF)が設立。国家防衛における航空戦力の独立組織化。
1921年3月31日、オーストラリア陸軍の航空部門が独立し、オーストラリア空軍(Royal Australian Air Force, RAAF)が正式に設立されました。 RAAFはイギリスに次いで歴史上2番目に独立した空軍として知られ、国家防衛における航空戦力の重要性を示す出来事でした。 設立当初の人員はおよそ200名ほどで、小規模ながらも即応性を重視した組織構造が特徴です。 第二次世界大戦では大きく拡張され、パプアニューギニアや南太平洋で活躍しました。 現在もオーストラリア防衛の中核を担う空軍として存在感を放っています。
1921年 オーストラリア陸軍 オーストラリア空軍
1933年

アメリカで失業対策のための市民保全部隊 (CCC) を創設。

ニューディール政策の一環として市民保全部隊(CCC)が創設。失業対策と自然保護を両立。
1933年3月31日、アメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトのニューディール政策の一環として、市民保全部隊(Civilian Conservation Corps, CCC)が創設されました。 18歳から25歳の若者が自然保護や公共事業に従事し、失業対策と環境保全を同時に進める画期的なプログラムでした。 主な活動には植林、土壌浸食防止、公園整備、道作りなどが含まれ、約300万人が参加しました。 CCCは第二次世界大戦の勃発とともに解散しましたが、アメリカの森林保全や公園システムに大きな遺産を残しました。 その成果は現在の国立公園管理や自然保護運動にも引き継がれています。
1933年 市民保全部隊
1937年

食い逃げ解散: 林銑十郎が、衆議院を解散。

1937年3月31日、日本の第31代内閣総理大臣・林銑十郎が衆議院を突然解散し、政局を大きく揺るがしました。
1937年3月9日に第31代内閣総理大臣に就任した林銑十郎内閣は、経済混乱の収拾と軍部の統制強化が課題でした。 就任からわずか22日後の3月31日、林氏は衆議院を突如解散します。 この異例のスピード解散が「食い逃げ解散」の語源となりました。 解散の主な背景には、日中関係の悪化と財政再建への強い危機感があったと考えられています。 解散発表直後には各党が対応に追われ、選挙戦の準備が慌ただしく始まりました。 結果は政党再編と軍部の影響力増大を招き、戦時色を強める政治状況を助長しました。
1937年 食い逃げ解散 林銑十郎 衆議院を解散
1947年

日本で、大日本帝国憲法下における衆議院が解散、貴族院が停会。

1947年3月31日、大日本帝国憲法下で最後の衆議院解散が行われ、貴族院の審議は停止されました。
1947年3月31日、大日本帝国憲法下で最後の衆議院解散が実施され、貴族院は開催を停止しました。 この解散・停会は、5月施行予定の新憲法下での国会移行を前に行われたものです。 帝国議会の解体に伴い、貴族院は事実上の廃止状態となり、衆議院は総選挙準備に入りました。 戦前・戦中期から続いた旧議会制度は終焉を迎え、戦後民主主義の国会制度が新たに構築されました。 当時の政治的転換点として、後の議会運営に大きな影響を与えました。
大日本帝国憲法 衆議院 貴族院