1282年

シチリアの晩祷: シチリアでシャルル・ダンジューの圧制に対して暴動が発生。

1282年3月30日、シチリア島でアンジュー家の圧制に抗議した反乱が勃発しました。現地住民による蜂起は後に「シチリアの晩祷」と呼ばれます。
13世紀後半、シチリアを統治していたシャルル・ダンジュー(シャルル1世)の重税や圧政に耐えかねた住民が夜の祈祷中に突然立ち上がり武装蜂起しました。この反乱はパレルモを皮切りに島内全域に広がり、多くの支配層が排除されました。その激しい戦いの様子から「晩祷」と名付けられ、シチリア史に深い影響を与えました。反乱の結果、アンジュー家の支配力が弱まり、後にアラゴン王国の影響力が強まるきっかけとなりました。中世ヨーロッパの勢力図に変動をもたらした歴史的事件です。
1282年 シチリアの晩祷 シチリア シャルル・ダンジュー
1492年

アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世が、カトリックへの改宗にかかわらず、スペインからユダヤ人を追放することを宣言する。

1492年、スペイン両王が改宗を拒否したユダヤ人の国外追放を命じた勅令を発布しました。
フェルナンド2世とイサベル1世は宗教統一と国家の安定を理由に、ユダヤ人がキリスト教への改宗を選ばない限り国外追放とする勅令を発布しました。この「アルハンブラ勅令」により、約2万〜5万人のユダヤ人が生まれ故郷を去ることを余儀なくされました。追放されたユダヤ人は地中海沿岸やオスマン帝国などへ移住し、新たなコミュニティを形成しました。スペイン社会における宗教的緊張が高まり、文化的多様性に大きな影響を与えました。歴史的にはヨーロッパ全土へのユダヤ人ディアスポラ(離散)を加速させた出来事とされています。
1492年 アラゴン王 フェルナンド2世 イサベル1世 カトリック スペイン ユダヤ人
1796年

正十七角形が定規とコンパスだけで作図可能なことをカール・フリードリヒ・ガウスが発見。

1796年、若き数学者ガウスが定規とコンパスだけで正十七角形を作図できることを示しました。
カール・フリードリヒ・ガウスは19歳のときに、フェルマー数と呼ばれる特別な整数に基づく正多角形の作図理論を発展させました。その成果として、正十七角形が定規とコンパスのみで作図可能であることを証明しました。これは古代ギリシャ以来未解決だった問題で、1801年に発表された論文『算術の考察』で詳細が紹介されました。ガウスの発見は整数論と幾何学の橋渡しとなり、以後の数学発展に大きな影響を与えました。彼はこの功績により数学界で広く注目され、後に「数学の王子」と称されるようになりました。
1796年 正十七角形 定規とコンパスだけで作図可能 カール・フリードリヒ・ガウス
1806年

ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトがナポリ王に即位。

1806年、ナポレオン・ボナパルトの弟ジョゼフがナポリ王に任ぜられました。
ナポレオン戦争中、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトは弟ジョゼフをナポリ王に据え、イタリア南部の支配を強化しました。ジョゼフは即位後、フランス式の行政改革や近代化政策を導入し、封建的制度の廃止に着手しました。これによりナポリ王国の官僚機構や司法制度が刷新され、社会の近代化が進展しました。しかし一方で現地貴族や教会との衝突も激化し、内部対立が生じました。ジョゼフの統治はフランスの影響力拡大を象徴するとともに、ナポリ地域の歴史的転換点となりました。
1806年 ナポレオン ジョゼフ・ボナパルト ナポリ王
1814年

ナポレオン戦争: 第六次対仏大同盟がパリへの攻撃を開始。

1814年、第六次対仏大同盟の連合軍がパリ侵攻を開始し、ナポレオン帝国の終焉に向かいました。
ロシア、オーストリア、プロイセン、イギリスなどで構成された第六次対仏大同盟は、パリ攻略を最終目標として軍を進めました。厳しい冬季の遠征を経て、連合軍はフランス領内へ侵入し、徐々に圧力を強めました。3月30日には決定的な攻撃が始まり、パリ市街戦へと発展しました。この侵攻によりナポレオンの支配基盤は急速に揺らぎ、4月には退位へと追い込まれました。ウィーン体制成立の土台を築いた歴史的な軍事行動でした。
1814年 ナポレオン戦争 第六次対仏大同盟
1822年

フロリダ準州を設立。

1822年、アメリカ合衆国がフロリダ準州を設置し、行政区画として統治を開始しました。
1819年のアダムズ=オニス条約によりスペイン領フロリダがアメリカに譲渡され、1822年3月30日にフロリダ準州が正式に設立されました。準州政府はタラハシーを暫定首都とし、法と秩序の確立を図りました。当初はインディアンとの軋轢や入植者の土地問題が多発し、混乱が続きましたが、徐々に行政基盤が整備されました。フロリダは後に1845年に州に昇格し、合衆国南部地域の発展に寄与する重要な役割を果たしました。
1822年 フロリダ準州
1842年

クロウフォード・ロングが初めてジエチルエーテルによる麻酔を用いて手術を行う。

1842年、外科医クロウフォード・ロングがジエチルエーテルを用いた初の麻酔手術を成功させました。
アメリカの医師クロウフォード・ロングは、ジョージア州で歯の腫瘍を切除する際にジエチルエーテルを吸入させ、疼痛を感じさせずに手術を完遂しました。この試みは世界で初めての全身麻酔手術とされ、外科手術の痛みから患者を解放する画期的な成果でした。発表は遅れたものの、後にエーテル麻酔は急速に普及し、外科医療の発展を促しました。多くの医師がこの技術を採用し、手術の安全性と成功率が大幅に向上しました。現代麻酔学の礎を築いた歴史的瞬間です。
1842年 クロウフォード・ロング ジエチルエーテル 麻酔
1856年

パリ条約が調印され、クリミア戦争が終結。

1856年、クリミア戦争を終結させるパリ条約が締結されました。
オスマン帝国とロシア帝国が対立し、イギリス・フランスも参戦したクリミア戦争は国際的な大規模紛争となりました。1856年3月30日にパリで調印されたパリ条約により、黒海の非武装化と領土現状維持が定められました。条約交渉では英仏外相らが主導し、ロシアの南下政策を抑制する条項が盛り込まれました。これによりヨーロッパの勢力均衡が再編され、多国間協調の先駆けとなりました。戦後は赤十字運動の発展にも良い影響を与えた重要な外交成果です。
1856年 パリ条約 クリミア戦争
1858年

アメリカのハイマン・リップマンが、消しゴムをニカワで鉛筆に固定させる「消しゴム付き鉛筆」の特許を取得。

1858年、ハイマン・リップマンが消しゴムを鉛筆の端に装着する方式で特許を取得しました。
ペンシルユーザーの利便性向上を目指し、リップマンは動物性のニカワを用いて消しゴムを鉛筆に固定するアイデアを発明しました。この設計は従来の独立して使用する消しゴムと鉛筆を一体化し、執筆ミスの訂正を迅速にしました。発明はすぐに広まり、多くの文具メーカーが同様の製品を市場に投入しました。その結果、消しゴム付き鉛筆は学校やオフィスの必需品となり、文房具文化に革命をもたらしました。
1858年 アメリカ ハイマン・リップマン 消しゴム 鉛筆
1863年

デンマーク王子ヴィルヘルム・ゲオルクがギリシャ王に選出され、ゲオルギオス1世として即位。

1863年、デンマーク王子ヴィルヘルムがギリシャ王に選ばれ、ゲオルギオス1世として即位しました。
オスマン帝国から独立したギリシャは初代国王オットーを失脚させ、新たな国王を迎えることを決定しました。ヨーロッパ列強の合意に基づき、デンマークのヴィルヘルム王子が候補に選ばれ、3月30日にギリシャ王位に就きました。ゲオルギオス1世は長期にわたり統治し、近代ギリシャの国家基盤を築くために憲法改正や経済改革を推進しました。その治世はギリシャのヨーロッパ統合を進展させる重要な時期となりました。
1863年 デンマーク ギリシャ ゲオルギオス1世
1867年

アラスカ購入: アメリカ合衆国の国務長官ウィリアム・スワードにより、アラスカを720万ドル(1エーカー・約4047平方メートル当たり2セント)でロシア帝国からアメリカ合衆国に売り渡す契約が締結される。当時は「スワードの愚行」などと呼ばれ、良い評価は受けなかった。

アメリカ合衆国がロシア帝国からアラスカを総額720万ドルで購入した歴史的な取引です。
【背景】 19世紀半ば、ロシアは財政難から極東領土の手放しを検討していました。 【条約締結】 1867年3月30日、国務長官ウィリアム・スワードはロシアとアラスカ売却条約を調印。 【価格と反響】 1エーカーあたり2セント、総額720万ドルという破格の安値で「スワードの愚行」と批判を浴びました。 【成果と評価】 後のゴールドラッシュなどで価値が証明され、アメリカにとって戦略的資源地となりました。 【意義】 領土拡大政策の一環として、米国史に残る大規模な買収事例です。
1867年 アラスカ購入 アメリカ合衆国 国務長官 ウィリアム・スワード アラスカ エーカー セント
1911年

日本の電気事業法(旧法)公布。

日本初の電気事業法が公布され、電力事業の法的枠組みが整備されました。
【制定の目的】 急速に普及する電気事業を統一的に管理・監督し、安全かつ安定的な供給を図るために制定されました。 【主な内容】 電力会社の設立許可、送配電網の保護、料金設定の基準などが盛り込まれました。 【影響】 電力インフラの整備が進み、産業および都市生活の近代化が加速しました。 【その後】 戦後の改正を経て、現在の電気事業法へと発展しています。
1911年 電気事業法