1130年

モーシェ・ベン=マイモーン

(1130 - 1204)

哲学者

哲学者
中世イスラーム世界で活躍したユダヤ教哲学者。 医学や法学にも精通し、その著作は後世に大きな影響を与えた。
モーシェ・ベン=マイモーン(マイモニデスとも呼ばれる)は、1130年にコルドバで生まれたユダヤ教の法学者・哲学者。 彼はイスラーム文化圏で学び、医学や天文学、倫理学など幅広い分野で業績を残した。 代表作「法典集成」ではユダヤ法を体系的にまとめ、ユダヤ共同体の法的基盤を築いた。 哲学者としてはアリストテレス哲学をユダヤ思想に統合し、中世ヨーロッパの哲学発展にも影響を与えた。 その学問はイスラーム圏・ユダヤ圏を越えてルネサンス期の思想家にも継承された。 1204年にエジプトで亡くなったが、現在も「大師(ラームバム)」として尊崇されている。
1130年 モーシェ・ベン=マイモーン 哲学者 1204年
貞応元年2月16日

日蓮

(1222 - 1282)

僧、日蓮宗開祖

日蓮宗開祖
鎌倉時代の僧侶で日蓮宗を開祖。 唱題運動を通じて広く民衆に法華経の教えを説いた。
日蓮は1222年に安房国で生まれ、法華経を重視する独自の教義を説いた。 南無妙法蓮華経の唱題を中心とした信仰運動を展開し、当時の仏教界に大きな論争を巻き起こした。 佐渡流罪を含む激しい迫害を受けながらも信徒を支え、日蓮宗の基礎を築いた。 また「立正安国論」など多くの著作を残し、日本仏教史において重要な位置を占める。 1282年に死去後も、全国各地で日蓮の教えは受け継がれ続けている。
1222年 貞応 2月16日 日蓮 日蓮宗 1282年
1432年

メフメト2世

(1432 - 1481)

オスマン帝国第7代スルタン

オスマン帝国第7代スルタン
オスマン帝国第7代スルタン。 「征服王」と呼ばれ、ビザンツ帝国を滅ぼした。
メフメト2世(1432年-1481年)は幼くしてスルタン位を継承し、オスマン帝国の中興期を築いた。 1453年にコンスタンティノープルを攻略し、ビザンツ帝国を滅亡させ、史上有名な「征服王」と称された。 都をイスタンブルと改称し、東ローマの文化と融合した都市を建設、多文化政策を推進した。 優れた行政手腕と軍事戦略で帝国領域をバルカン半島や黒海沿岸に拡大し、オスマン帝国を強国へと導いた。 彼の統治は近代オスマン国家の基礎を築いたと評価される。
1432年 メフメト2世 オスマン帝国 1481年
1510年

アントニオ・デ・カベソン

(1510 - 1566)

作曲家、オルガニスト

作曲家 オルガニスト
スペイン・ルネサンス期の作曲家・オルガニスト。 王室礼拝堂の主任オルガニストを務めた。
アントニオ・デ・カベソン(1510年-1566年)は、盲目の作曲家・オルガニストとして知られる。 スペイン王室の礼拝堂で長年オルガン演奏を担当し、宮廷音楽の中心人物となった。 彼の作品は主に鍵盤楽器のために書かれ、フーガや変奏曲など当時先進的な形式を取り入れている。 「オルガーノの音楽集」などの出版物は後世の作曲家に大きな影響を与え、スペイン鍵盤音楽の礎を築いた。 同時代のイタリアやフランスとも共鳴し、国際的な評価を得た稀有な音楽家である。
1510年 アントニオ・デ・カベソン 作曲家 オルガニスト 1566年
寛永14年3月4日

細川行孝

(1637 - 1690)

第2代宇土藩主

第2代宇土藩主
江戸時代の大名で、宇土藩の第2代藩主。 細川氏の一族として藩政を支えた。
細川行孝(1637年-1690年)は、宇土藩第2代藩主として藩政を担当した。 肥後細川氏の分家にあたり、熊本藩主細川氏の一門として九州地域の統治に関与した。 藩政では財政再建や治水事業に取り組み、領内の安定と発展を図った。 藩士教育や学問奨励にも関心を示し、地域文化の振興に貢献した。 1690年に死去するまで、宇土藩の基盤強化に尽力した。
1637年 寛永 3月4日 細川行孝 宇土藩主 1690年
元文6年2月14日

池田政香

(1741 - 1768)

第4代鴨方藩主

第4代鴨方藩主
江戸時代の大名で、鴨方藩の第4代藩主。 幕府の要職も歴任した。
池田政香(1741年-1768年)は、備中国鴨方藩の第4代藩主として藩政を担った。 池田氏の一門として藩財政の再建や治水・治山事業に取り組み、領民の生活向上に努めた。 また若くして老中など幕府の要職を経験し、幕政にも影響を与えた。 藩内では学問や文化活動を奨励し、教育機関の整備にも力を注いだ。 早世したが、その統治は鴨方藩の発展に一定の成果を残した。
1741年 元文 2月14日 池田政香 鴨方藩主 1768年
1746年

フランシスコ・デ・ゴヤ

(1746 - 1828)

画家

画家
スペインを代表する画家。 ロマン主義の先駆者として知られる。
フランシスコ・デ・ゴヤ(1746年-1828年)は、マドリードを拠点に活躍した画家・版画家である。 宮廷画家として王室や貴族の肖像を多数手掛ける一方、戦争や社会の惨状を鋭く描いた。 代表作には「マドリード1745年5月3日の処刑」や「黒絵」シリーズなどがあり、表現の革新性が高く評価される。 晩年は聴力を失いながらも独自の作風を追求し、印象派や20世紀美術に大きな影響を与えた。 ゴヤは「近代美術の父」と称されることもある。
1746年 フランシスコ・デ・ゴヤ 画家 1828年
1793年

フアン・マヌエル・デ・ロサス

(1793 - 1877)

アルゼンチンの指導者

アルゼンチンの指導者
19世紀アルゼンチンの政治指導者。 ブエノスアイレス軍閥の台頭を主導した。
フアン・マヌエル・デ・ロサス(1793年-1877年)は、アルゼンチン独立後の混乱期に実権を握ったカウディーリョ(軍事指導者)である。 1829年以降、ブエノスアイレス州知事として中央集権化を推進し、連邦主義派と対立した。 彼の統治は厳格な支配と汚職の問題を伴ったが、国内交通網の整備や公共事業を進めた。 1852年のカサレスの戦いで敗北し、亡命生活を余儀なくされた。 その後も南米政治史において論争的な人物として評価される。
1793年 フアン・マヌエル・デ・ロサス アルゼンチン 1877年
寛政11年2月25日

井伊直経

(1799 - 1856)

第8代与板藩主

第8代与板藩主
江戸時代の大名で、与板藩の第8代藩主。 井伊家分家筋の一員として治世にあたった。
井伊直経(1799年-1856年)は、越後国与板藩の第8代藩主として藩政を担った。 井伊家本家の彦根藩主井伊直弼との親交もあり、幕府とのつながりを生かした統治を行った。 藩財政の再建や農村整備に力を入れ、治水や用水路の整備にも尽力した。 また学問や武芸を奨励し、藩士の人材育成を重視した。 晩年には幕末の動乱期を迎えつつも、藩内の安定統治に尽力した。
1799年 寛政 2月25日 井伊直経 与板藩主 1856年
文化元年2月19日

間部詮勝

(1804 - 1884)

第7代鯖江藩主、老中

第7代鯖江藩主 老中
江戸時代の大名で、鯖江藩の第7代藩主・老中。 幕政を担った重臣として知られる。
間部詮勝(1804年-1884年)は、越前国鯖江藩の第7代藩主であり、幕府の老中を務めた。 文化元年生まれの一方で、幕政では外交・財政・治安維持など多岐にわたる役割を担った。 開国後の混乱期には異国船対応や海防策に関与し、幕政改革を試みた。 藩政では藩校の整備や産業振興に努め、地域社会の発展に貢献した。 幕末・明治維新期を生き抜いた数少ない大名の一人である。
1804年 文化 2月19日 間部詮勝 鯖江藩主 老中 1884年
文化6年2月14日

脇坂安宅

(1809 - 1874)

第4代龍野藩主

第4代龍野藩主
江戸時代末期に龍野藩第4代藩主として藩政を担った大名。廃藩置県後は隠退し、1874年に没した。
1809年に生まれ、家督を継いで第4代龍野藩主となった。 江戸時代末期の激動の時代に藩を統治し、領民の生活を見守った。 明治維新後、廃藩置県により藩領を失い、身分を喪失した。 その後は史料が乏しい隠遁生活を送り、地方で余生を過ごした。 1874年に没し、廃藩期の藩主として知られる。
1809年 文化 2月14日 脇坂安宅 龍野藩主 1874年
文化15年2月24日

長谷信篤

(1818 - 1902)

幕末から明治の公卿、華族

幕末から明治の公卿 華族
幕末から明治にかけて朝廷で政務に携わった公卿・華族。儀礼や行事の運営に尽力した。
1818年に公卿の家系に生まれ、幼くして宮廷で教育を受けた。 幕末期には朝廷の政務に参画し、朝幕関係の調整に関与した。 明治維新後は華族に列せられ、新政府の宮中儀礼や行事運営に携わった。 皇室と政府の橋渡し役として儀礼的側面を支えた。 1902年に没し、公卿としての実績は後世に伝えられている。
1818年 文化 2月24日 長谷信篤 幕末 明治 公卿 華族 1902年