延元元年2月15日

光厳上皇の新田義貞追討の院宣が備後の鞆の足利尊氏のもとに到着。

1336年、光厳上皇が新田義貞追討の院宣を足利尊氏に下し、南北朝時代の序章を告げた。
1336年(延元元年2月15日)、光厳上皇は反乱軍を鎮圧するため、新田義貞の追討を命じる院宣(公式文書)を発しました。 この院宣は備後国鞆に滞在していた足利尊氏へ届けられ、尊氏は幕府との対立を深めるきっかけとなりました。 尊氏は義貞を討伐する役目を帯びていましたが、最終的に朝廷側と対立し京都奪還へ動くことになります。 こうした動きが南北朝時代の幕開けとなり、日本の政治的分裂を招く一因となりました。 以後、南朝と北朝が並立する時代が始まり、尊氏を中心とする新たな武家政権の基盤が築かれました。
1336年 延元 光厳上皇 新田義貞 追討 院宣 備後の鞆 足利尊氏
享禄4年3月10日

中嶋の戦いはじまる。

1531年、享禄4年に地方領主同士が衝突した中嶋の戦いが勃発した。
1531年(享禄4年3月10日)、戦国時代の地方抗争の一つとして中嶋の戦いが勃発しました。 この戦いは周辺の国人領主同士が領地と権益を巡って衝突したもので、細かな史料は残っていません。 戦国期にはこうした小規模な合戦が頻発し、諸勢力の連携と裏切りが繰り返されました。 中嶋の戦いもまた、地域内の勢力均衡を変動させ、後の大名勢力の興亡に影響を及ぼしました。 具体的な戦闘規模や結果は不明ですが、当時の混乱を象徴する一例と考えられています。
1531年 享禄 3月10日 中嶋の戦い
1854年

クリミア戦争: イギリスとフランスがロシア帝国に宣戦布告し、クリミア戦争が開戦。

1854年、イギリスとフランスがロシア帝国に宣戦布告し、クリミア戦争が開戦した。
1854年3月28日、クリミア戦争がイギリスとフランスによるロシア帝国への宣戦布告とともに勃発しました。 聖地エルサレムを巡る宗教問題やバランス・オブ・パワーが背景にあり、欧州列強間の対立が激化しました。 この戦争では塹壕戦や近代的な砲兵・鉄道輸送などが導入され、近代戦の先駆けとも評されます。 著名な「軽騎兵突撃」やセヴァストポリ包囲戦など激戦が繰り広げられ、多大な犠牲者を出しました。 最終的に1856年のパリ条約で講和し、ロシアの影響力削減が図られました。
1854年 クリミア戦争 イギリス フランス ロシア帝国
1938年

南京に中華民国維新政府が成立。

中華民国維新政府が南京に樹立され、汪兆銘政権とも呼ばれる。
1938年3月28日、日中戦争中の中国で南京に中華民国維新政府が成立した。日本の傀儡政権として汪兆銘が首班に就任し、蒋介石率いる正統政府と対立した。維新政府は日本の支援を受け、中国南部や中部を支配下に置いた政治体制である。国際的には正統性を認められず、抗日勢力との衝突が続いた。戦後、汪兆銘政権は解体され、多くの関係者が処罰を受けた。
1938年 南京 中華民国維新政府