193年
ディディウス・ユリアヌスが親衛隊の帝位の「公開競売」を落札しローマ皇帝に即位。
193年、ディディウス・ユリアヌスが親衛隊による史上初の帝位公開競売に勝利し、ローマ皇帝に即位した出来事。
193年、皇帝コモドゥスの暗殺後に混乱したローマ帝国で、親衛隊は帝位を入札制とし公開競売を実施しました。
ディディウス・ユリアヌスは最も高い入札額を提示して皇帝位を手に入れ、同日ローマ皇帝に即位しました。
この出来事は帝国の権威を著しく損ない、軍団の影響力を象徴する事件となりました。
しかしユリアヌスの治世は短命に終わり、わずか数ヶ月後に暗殺されて執政権が再び揺らぎました。
競売による皇位継承は前例のない不祥事とされ、ローマ市民や元老院の反発を招くことになりました。
193年
ディディウス・ユリアヌス
364年
ローマ皇帝ウァレンティニアヌス1世が、弟のウァレンスを共同皇帝とする。
364年、ウァレンティニアヌス1世が弟ウァレンスを共同皇帝に任命し、帝国支配を分担した。
364年3月28日、ウァレンティニアヌス1世は帝国内の統治を分担するため、弟ウァレンスを共同皇帝(アウグストゥス)に任命しました。
これにより西方と東方の二元支配体制が確立し、安全保障や税収管理の効率化が図られました。
ウァレンティニアヌス1世は軍事面での強化を行い、ゲルマン民族の侵入に対抗しました。
一方、ウァレンスは東方の行政と防衛を担当し、後にニケーア公会議の開催などキリスト教会にも影響を与えました。
この兄弟共同統治は、後の帝国分裂への前兆とも指摘されます。
364年
ウァレンティニアヌス1世
ウァレンス
延元元年2月15日
光厳上皇の新田義貞追討の院宣が備後の鞆の足利尊氏のもとに到着。
1336年、光厳上皇が新田義貞追討の院宣を足利尊氏に下し、南北朝時代の序章を告げた。
1336年(延元元年2月15日)、光厳上皇は反乱軍を鎮圧するため、新田義貞の追討を命じる院宣(公式文書)を発しました。
この院宣は備後国鞆に滞在していた足利尊氏へ届けられ、尊氏は幕府との対立を深めるきっかけとなりました。
尊氏は義貞を討伐する役目を帯びていましたが、最終的に朝廷側と対立し京都奪還へ動くことになります。
こうした動きが南北朝時代の幕開けとなり、日本の政治的分裂を招く一因となりました。
以後、南朝と北朝が並立する時代が始まり、尊氏を中心とする新たな武家政権の基盤が築かれました。
1336年
延元
光厳上皇
新田義貞
追討
院宣
備後の鞆
足利尊氏
享禄4年3月10日
中嶋の戦いはじまる。
1531年、享禄4年に地方領主同士が衝突した中嶋の戦いが勃発した。
1531年(享禄4年3月10日)、戦国時代の地方抗争の一つとして中嶋の戦いが勃発しました。
この戦いは周辺の国人領主同士が領地と権益を巡って衝突したもので、細かな史料は残っていません。
戦国期にはこうした小規模な合戦が頻発し、諸勢力の連携と裏切りが繰り返されました。
中嶋の戦いもまた、地域内の勢力均衡を変動させ、後の大名勢力の興亡に影響を及ぼしました。
具体的な戦闘規模や結果は不明ですが、当時の混乱を象徴する一例と考えられています。
1531年
享禄
3月10日
中嶋の戦い
1802年
ヴィルヘルム・オルバースが2番目の小惑星パラスを発見。2006年に最大の小惑星ケレスが準惑星に分類されたため、パラスは小惑星帯最大の小惑星となった。
1802年、ヴィルヘルム・オルバースが小惑星パラスを発見し、後に小惑星帯最大の天体とされた。
1802年3月28日、ドイツの天文学者ヴィルヘルム・オルバースは小惑星パラスを発見しました。
彼は先に発見されたケレスの軌道を予測し、続く天体探索の成果としてパラスを確認しました。
当時は太陽系内の惑星を次々と発見する時代だったものの、パラスは二番目の小惑星として注目されました。
2006年にケレスが準惑星に再分類された結果、パラスは現在小惑星帯で最大の天体となっています。
この発見は小惑星研究の発展と、太陽系形成過程の理解に大きく貢献しました。
1802年
ヴィルヘルム・オルバース
小惑星
パラス
ケレス
準惑星
小惑星帯
1854年
クリミア戦争: イギリスとフランスがロシア帝国に宣戦布告し、クリミア戦争が開戦。
1854年、イギリスとフランスがロシア帝国に宣戦布告し、クリミア戦争が開戦した。
1854年3月28日、クリミア戦争がイギリスとフランスによるロシア帝国への宣戦布告とともに勃発しました。
聖地エルサレムを巡る宗教問題やバランス・オブ・パワーが背景にあり、欧州列強間の対立が激化しました。
この戦争では塹壕戦や近代的な砲兵・鉄道輸送などが導入され、近代戦の先駆けとも評されます。
著名な「軽騎兵突撃」やセヴァストポリ包囲戦など激戦が繰り広げられ、多大な犠牲者を出しました。
最終的に1856年のパリ条約で講和し、ロシアの影響力削減が図られました。
1854年
クリミア戦争
イギリス
フランス
ロシア帝国
文久元年2月19日
元号が万延から文久に改元。
1861年、日本の元号が万延から文久へ改元され、幕末動乱期の新たな幕開けとなった。
1861年(文久元年2月19日)、日本の元号が万延から文久へと改元されました。
元号改定は天皇の在位や国家的変動を機に行われる制度で、国内の政治情勢を反映しています。
文久年間は幕末の動乱期にあたり、国内外の緊張が高まっていた時期です。
改元後、薩英戦争や桜田門外の変など国内の政治事件が相次ぎました。
文久の時代は維新への過程を示す重要な時期と位置づけられています。
1861年
文久
2月19日
元号
万延
1871年
パリ市庁舎でパリ・コミューンの成立を宣言。
1871年、パリ市庁舎でパリ・コミューン成立が宣言され、市民自治政府が樹立された。
1871年3月28日、パリ市庁舎(オテル・ド・ヴィル)でパリ・コミューンの成立が宣言されました。
普仏戦争後の混乱期に市民自主管理を掲げ、労働者や市民による自治政府が樹立される動きでした。
コミューン派は社会改革や共同所有を掲げ、教育や福祉の拡充を試みました。
しかしパリ政府との対立は激化し、わずか2か月余りでフランス軍によって武力鎮圧されました。
パリ・コミューンは労働者運動の象徴として後世に大きな影響を与えました。
1871年
パリ市庁舎
パリ・コミューン
1876年
日本の明治政府が廃刀令を発布。
1876年、明治政府が廃刀令を発布し、武士の帯刀を原則禁止とした。
1876年3月28日、明治政府は廃刀令を発布し、武士階級の特権であった帯刀を原則禁止しました。
廃刀令は近代国家への移行と身分制度の廃止を推進する一環で、武装解除を図る政策でした。
一般庶民だけでなく元武士も対象となり、刀剣文化や武士のアイデンティティが大きく揺らぎました。
これに対し不満を抱いた武士層の一部は反発し、後の西南戦争など武士反乱の遠因ともされます。
廃刀令は日本の近代化と法の下の平等原則を象徴する改革でした。
1876年
明治政府
廃刀令
1890年
日本最初の民間鉄道車両メーカー「平岡工場」が開業。
1890年、民間初の鉄道車両メーカー「平岡工場」が開業し、国産化を推進した。
1890年、日本最初の民間鉄道車両メーカー「平岡工場」が開業しました。
これにより政府系以外の鉄道車両製造が始まり、国産化と技術発展が促進されました。
平岡工場は木造客車や貨車の製造を手がけ、各地の鉄道会社へ納入を行いました。
その後の日本の鉄道産業は、多数の民間企業の参入によって急速に成長しました。
平岡工場の設立は日本の近代産業史における重要な一歩といえます。
1890年
鉄道車両
平岡工場
1894年
金玉均が上海で朝鮮政府の刺客により暗殺される。
朝鮮独立運動の指導者金玉均が上海で暗殺された事件。
金玉均は朝鮮の近代化と独立を目指した政治家である。1894年3月28日、上海に滞在中、朝鮮政府の刺客に襲撃され暗殺された。暗殺の背景には朝鮮国内の保守勢力と改革勢力の対立があった。金玉均の死は独立運動に大きな衝撃を与えた。彼の思想や活動は後の独立運動家に影響を及ぼした。
1894年
金玉均
上海
刺客
暗殺
1900年
スウェーデンの探検家・地理学者のスウェン・ヘディンによって、廃墟になっていたシルクロードの古代都市が発見される。
スウェン・ヘディンがシルクロード沿いに眠る古代都市の遺跡を再発見した歴史的探検。
スウェン・ヘディンはスウェーデン出身の著名な探検家・地理学者である。1900年3月28日、彼はかつて繁栄を極めたシルクロード沿いの遺跡を発見した。廃墟となっていた都市の発掘により東西交易の歴史を知る重要な手掛かりが得られた。彼の探検は中央アジア史研究に大きな貢献を果たした。ヘディンの詳細な記録は後世の考古学調査にも影響を与え続けている。
1900年
スウェーデン
スウェン・ヘディン
シルクロード