1814年

米英戦争・クリーク戦争: ホースシュー・ベンドの戦い

クリーク戦争のホースシュー・ベンドの戦いでアンドリュー・ジャクソン率いる米軍が勝利。
1814年3月27日、米英戦争中のクリーク戦争においてホースシュー・ベンドの戦いが行われた。 アンドリュー・ジャクソン将軍率いるテネシー志願軍と連合部隊が、レッド・スティック派のクリーク族を包囲。 激戦の末、米軍は決定的勝利を収め、クリーク族から膨大な領土割譲を引き出した。 この戦いはジャクソンの名声を高め、後の大統領就任への道を開く転機となった。 また、南部インディアン戦争における戦術や部族間同盟の在り方に大きな影響を与えた。
1814年 米英戦争 クリーク戦争 ホースシュー・ベンドの戦い
1846年

米墨戦争: ザカリー・テイラー将軍指揮下の部隊がテキサス砦の建造を開始。

米墨戦争でザカリー・テイラー将軍率いる部隊がテキサス砦の建造を開始。
1846年3月27日、米墨戦争の開戦直後、ザカリー・テイラー少将はリオグランデ川沿岸にテキサス砦の建設を命じた。 この砦は後にブラウン砦と呼ばれ、メキシコとの国境線を巡る緊張状態を象徴する施設となった。 テキサス砦の築城はメキシコとの紛争を一層激化させ、武力衝突を誘発。 テイラー将軍は限られた資源と厳しい気候条件の中で迅速に要塞を完成させた。 砦は後にアメリカ勝利の象徴となり、テイラー自身の将軍としての評判を確立した。
1846年 米墨戦争 ザカリー・テイラー テキサス砦
1854年

クリミア戦争: イギリスがロシア帝国に宣戦布告。

クリミア戦争でイギリスがロシア帝国に正式に宣戦布告。
1854年3月27日、イギリス政府はロシア帝国に対し宣戦布告し、クリミア戦争への正式参戦を決定。 これはフランス、オスマン帝国との協調路線の一環であり、ロシアの南下政策を牽制する目的。 イギリス艦隊は地中海へ進出し、黒海沿岸での海戦や上陸作戦を計画。 戦争は近代的な砲撃や工兵技術の活用が顕著となり、軍事戦術に革新をもたらした。 また、戦場医療の改善を訴えたフローレンス・ナイチンゲールの活動でも知られる。
1854年 クリミア戦争 イギリス ロシア帝国
1904年

日露戦争: 第二回旅順口閉塞作戦。広瀬武夫海軍中佐が戦死。

日露戦争の第二回旅順口閉塞作戦で広瀬武夫海軍中佐が戦死。英雄的な奮戦が語り継がれる。
1904年3月27日、日露戦争における第二回旅順口閉塞作戦が実施された。 日本海軍中佐広瀬武夫は投錨艇による閉塞任務を自ら指揮し、砲火の中で勇敢に奮闘。 閉塞作戦は旅順港を封じ込めることでロシア艦隊の行動を制限する戦略的意義を持った。 広瀬は撤退時に残された仲間を救おうとし、多数の砲弾を浴びて壮烈な最期を遂げた。 彼の犠牲は後世に語り継がれ、日本海海戦への流れを作った重要なエピソードとなった。
1904年 日露戦争 第二回旅順口閉塞作戦 広瀬武夫
ユリウス暦3月14日

第一次世界大戦: ロシアの黒海艦隊によるボスポラス砲撃作戦が始まる。

第一次世界大戦中のロシア海軍がボスポラス海峡の要塞を砲撃する作戦を開始した。
1915年3月27日(ユリウス暦3月14日)、ロシアの黒海艦隊がオスマン帝国領のボスポラス海峡沿岸要塞を砲撃する作戦を実施した。 この攻撃はオスマン帝国海軍や沿岸防御施設に打撃を与え、黒海でのロシアの支配を強化する目的があった。 ロシアの戦艦や巡洋艦が複数回にわたり要塞を狙い、砲撃は数日間続いた。 オスマン側は沿岸砲台や地雷原で応戦し、両者ともに一定の損害を受けた。 戦術的には限定的な成果にとどまったものの、連合国側の海上優勢を印象づける一幕となった。
1915年 3月14日 第一次世界大戦 ロシア 黒海艦隊 ボスポラス砲撃
1938年

日中戦争: 台児荘の戦いが始まる、

日中戦争中、中国軍と日本軍の間で台児荘の戦いが始まった。
1938年3月27日、日中戦争における台児荘会戦の序盤となる戦闘が開始された。 山東省台児荘付近で中国国民革命軍第5軍が防御線を構築し、日本軍の進攻を迎え撃った。 中国軍は地形を生かし効果的な抵抗を行い、日本軍の補給路を脅かした。 この戦いは中国側にとって初の大規模な守備戦勝利となり、士気向上の契機となった。 一方、日本軍は犠牲を払いながらも鉄道橋の重要拠点を奪取し、戦局はさらに膠着状態へと移行した。
1938年 日中戦争 台児荘の戦い
1941年

第二次世界大戦: ユーゴスラビアでクーデター。反独軍事政権が樹立し、2日前に加盟した日独伊三国同盟から離脱。

ユーゴスラビアで反独クーデターが発生し、親独政権を倒して三国同盟から離脱した。
1941年3月27日、ユーゴスラビア首都ベオグラードで親独的なペータル・パーヴロヴィッチ摂政を倒すクーデターが発生した。 反独派将校らは王制復活を宣言し、17歳のペータル2世を国家元首に擁立した。 この政変により、ユーゴスラビアは2日前に加盟した日独伊三国同盟から離脱を表明した。 ナチス・ドイツはこれを口実に4月6日にバルカン侵攻を開始し、同国を占領下に置いた。 このクーデターは連合国側にとって短期的な勝利となったが、その後の激しい戦闘と占領を招く結果ともなった。
1941年 第二次世界大戦 ユーゴスラビア 日独伊三国同盟
1941年

第二次世界大戦: マタパン岬沖海戦が始まる。

地中海で英伊両海軍が激突したマタパン岬沖海戦が始まった。
1941年3月27日から29日にかけて、地中海東部でイギリス海軍とイタリア海軍がマタパン岬沖海戦で衝突した。 英国側は暗号解読に基づく情報優位を活かし、イタリア艦隊を包囲する作戦を展開した。 特に夜間のレーダー技術を活用した戦いが注目され、多数のイタリア駆逐艦や重巡が撃沈された。 この海戦により地中海の制海権は連合国側に大きく傾き、補給線確保に寄与した。 一方、イタリア海軍は艦隊の損耗と士気低下を招き、以後の作戦に影響を与えた。
マタパン岬沖海戦
1943年

第二次世界大戦: アッツ島沖海戦。

アリューシャン列島・アッツ島沖で行われた海戦が発生した。
1943年3月27日、第二次世界大戦中のアリューシャン諸島を巡る戦いの一環としてアッツ島沖海戦が発生した。 日本軍はアッツ島守備隊への増援物資輸送を試みたが、米国海軍の迎撃を受けた。 アメリカ側は駆逐艦や巡洋艦を主体とした部隊で夜間戦闘を展開し、日本側護衛艦艇に大きな損害を与えた。 結果的に輸送は中止され、アッツ島守備隊は孤立状態に陥った。 この海戦はアリューシャン攻略戦における米軍の制海作戦の成功例として知られる。
1943年 アッツ島沖海戦
1945年

第二次世界大戦: アメリカ軍が日本周辺の機雷封鎖作戦「飢餓作戦」を開始。

第二次世界大戦中、米軍が日本周辺の機雷封鎖作戦「飢餓作戦」を開始した日。
1945年3月27日、米国第21爆撃集団はB-29爆撃機を用いて日本列島周辺海域への機雷散布を開始しました。 この「飢餓作戦」は日本への物資輸送路を遮断し、戦争遂行能力を削ぐことを目的としていました。 数か月にわたり約1万2千基以上の機雷が敷設され、港湾封鎖と海上輸送の阻止に大きく貢献しました。 作戦は7月まで継続され、戦略的重要性の高さから戦後の海戦戦術にも影響を与えました。 同時に機雷掃海や民間被害の問題も浮上し、その後の国際法議論にも関連しています。
1945年 機雷封鎖作戦 飢餓作戦
2019年

豊臣秀吉が加藤清正へ宛てて書いた朝鮮出兵を命じる朱印状が見つかる。

豊臣秀吉が加藤清正に朝鮮出兵を命じた朱印状が発見され、研究資料として注目されました。
2019年3月27日、京都市内の古文書倉庫で豊臣秀吉が加藤清正に宛てた朱印状が発見されました。文書には1592年の朝鮮出兵に関する具体的な兵站指示が記されていました。従来の一次史料が少なかった年代の外交・軍事研究に新たな知見を提供します。専門家はこの朱印状が朝鮮侵略の意図や計画を裏付ける重要な証拠と評価しています。今後は詳細な分析と翻刻作業が進められる予定です。
2019年 豊臣秀吉 加藤清正
2021年

同年2月にクーデターで実権を握った国軍への抗議が続くミャンマーで、デモに参加した市民十数人が治安部隊に殺害された。死者数は、少なくとも91人以上と見られ、クーデター開始以降で最大。

ミャンマーのクーデターに抗議するデモ参加者が治安部隊に射殺され、多数の犠牲者が出ました。
2021年3月27日、クーデター後のミャンマーで反軍政デモが続く中、ヤンゴンや各地で治安部隊が発砲し、少なくとも91人以上が死亡しました。2月1日のクーデター以降、最も犠牲者の多い一日となりました。市民らは民主化回復を求めて平和的に抗議していましたが、軍は武力弾圧を強化しました。この虐殺的な対応に対し、国際社会からは強い非難の声が上がりました。事件後も制裁や外交圧力が続いています。
2021年 ミャンマー