1306年

ロバート・ブルースがスコットランド王への即位を宣言。

ロバート・ブルースがスコットランド王への即位を宣言。 独立戦争の重要な転換点となった。
1306年3月27日、ロバート・ブルースは自らの正統な王位継承を主張し、スコットランド王への即位を宣言した。 彼は先代国王の暗殺に関与した罪で追放されていたが、反英感情を背景に支持を回復。 この宣言はイングランド王エドワード1世との対立を深め、独立戦争を一層激化させた。 ブルースはゲリラ戦術と同盟の活用により勢力を拡大し、最終的にバノックバーンの戦いで勝利を収めた。 彼の行動は後のスコットランド国家形成に大きな影響を与えた。
1306年 ロバート・ブルース スコットランド
天正9年2月23日

イエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、黒人弥助同道で織田信長に謁見する。

イエズス会巡察使ヴァリニャーノが織田信長に謁見。 黒人侍弥助が同道した珍しいエピソード。
1581年3月27日、イエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが日本を訪れ、弥助を伴って安土城を訪問。 織田信長との謁見はキリスト教布教と日本文化交流の架け橋となった。 弥助はアフリカ出身の黒人で、日本で侍として仕えた史上初の記録とされる。 ヴァリニャーノは信長の寛容な姿勢を評価し、ヨーロッパへの報告で日本の先進性を称賛。 この出会いは後の南蛮貿易と文化伝播に大きな影響を与えた。
1581年 天正 2月23日 イエズス会 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ 弥助 織田信長
1625年

イングランド・スコットランド・アイルランド王ジェームズ1世が死去。チャールズ1世が後継の王に即位。

ジェームズ1世が崩御、チャールズ1世が王位を継承。 ステュアート朝の新時代が始まる。
1625年3月27日、イングランド・スコットランド・アイルランド王ジェームズ1世がロンドン近郊で崩御した。 彼の死去により次男チャールズがチャールズ1世として王位を継承し、ステュアート朝の統治が継続。 チャールズ1世は財政難と議会との対立に直面し、後のイギリス内戦の遠因を作る。 ジェームズ1世は王権神授説を唱え、王権強化を図ったが議会との摩擦も生んだ。 新たに即位したチャールズ1世の統治は権威主義的で、国政への影響は大いに議論を呼んだ。
1625年 イングランド アイルランド ジェームズ1世 チャールズ1世
1782年

ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワースがイギリスの第13代首相に就任。

第13代英国首相にロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワースが就任。
1782年3月27日、チャールズ・ワトソン=ウェントワースがロッキンガム侯として第13代英国首相に任命された。 彼の閣僚内閣はアメリカ独立戦争終結に向けた和平交渉を進め、アメリカ合衆国の独立承認を支持。 ロッキンガム侯はホイッグ党内の分派と協調し、国王ジョージ3世との関係改善を図った。 短期間の在任だったが、課税撤廃や植民地問題解決に貢献し、穏健改革派として評価された。 彼の死後、第2次内閣は不安定な政局に苦しみ、政党政治の課題が浮き彫りになった。
1782年 チャールズ・ワトソン=ウェントワース
1879年

沖縄県設置。

明治政府が琉球藩を廃し、沖縄県を設置して歴史的な統合を進める。
1879年3月27日、明治政府は琉球藩を廃止し、沖縄県を正式に設置。 これにより約450年にわたる琉球王国の統治は終焉を迎え、本土政府の直轄下に。 沖縄県設置は日本の中央集権化政策の一環であり、教育や税制の統一が図られた。 地元住民には戸籍整備や徴兵制度など新たな制度が強制され、社会変革が急速に進行。 現在の沖縄県の基礎が築かれた出来事として重要視されている。
1879年 沖縄県
1933年

日本が国際連盟に対し正式に脱退を通告。

日本が国際連盟に正式に脱退を通告し、脱退が承認された。
1933年3月27日、日本政府は満洲事変を巡る国際連盟の批判を受け、同連盟事務総長に対して正式に脱退を通告した。 前年に発表されたリットン報告書で日本の行動が不当とされたことが背景にある。 この脱退は国際社会での孤立を深め、外交的に日本を西側諸国から遠ざける結果となった。 以降、日本は米英との関係悪化を招き、最終的に枢軸国への接近を加速させる一因となった。 国際連盟史上、主要国の脱退は前例がなく、日本の外交政策転換を象徴する出来事である。
1933年 国際連盟
1941年

第二次世界大戦: ユーゴスラビアでクーデター。反独軍事政権が樹立し、2日前に加盟した日独伊三国同盟から離脱。

ユーゴスラビアで反独クーデターが発生し、親独政権を倒して三国同盟から離脱した。
1941年3月27日、ユーゴスラビア首都ベオグラードで親独的なペータル・パーヴロヴィッチ摂政を倒すクーデターが発生した。 反独派将校らは王制復活を宣言し、17歳のペータル2世を国家元首に擁立した。 この政変により、ユーゴスラビアは2日前に加盟した日独伊三国同盟から離脱を表明した。 ナチス・ドイツはこれを口実に4月6日にバルカン侵攻を開始し、同国を占領下に置いた。 このクーデターは連合国側にとって短期的な勝利となったが、その後の激しい戦闘と占領を招く結果ともなった。
1941年 第二次世界大戦 ユーゴスラビア 日独伊三国同盟
1963年

ビーチング・アックス: リチャード・ビーチングが報告書「イギリス国鉄の再建」を政府に提出。

イギリス国鉄の再建計画をまとめたビーチング報告書が提出された日。
1963年3月27日、リチャード・ビーチングが率いる調査委員会は報告書『イギリス国鉄の再建』を英政府に提出しました。 この報告書は赤字路線と駅の大規模削減を提言し、約2,300駅と約5,000マイルの路線閉鎖を推奨しました。 通称「ビーチング・アックス」と呼ばれ、1970年代にかけて国鉄改革の根幹となりました。 報告は地方経済への影響や代替交通手段の整備不足を批判されつつも、効率化と財政健全化のモデルとなりました。 その後の英国鉄道ネットワークは大幅に縮小され、公共交通政策の議論に長く影響を与えました。
1963年 ビーチング・アックス リチャード・ビーチング 英語版 イギリス国鉄
1968年

インドネシアで大統領代行スハルトが第2代大統領に就任。

スハルトがインドネシアの第2代大統領に正式に就任した日。
1968年3月27日、人民協議会(MPRS)はスハルトをインドネシアの第2代大統領に選出し、正式に就任させました。 彼は1967年から大統領代行を務め、新秩序(ニューオーダー)体制の樹立を進めてきました。 就任後は強権的な統治と経済安定化政策を実施し、スハルト政権は約3世代にわたって続きました。 反共主義を掲げ、国内の共産党勢力を排除しながら、西側諸国との関係強化を図った点が大きな特徴です。 彼の長期政権は国内開発を促進した一方で、人権抑圧や汚職問題も問題視されました。
1968年 インドネシア スハルト
1985年

サラリーマン税金訴訟で、最高裁が「必要経費実額控除を認めない現行税制は合憲」と初の判断。

最高裁がサラリーマン税金訴訟で現行税制を合憲と判断した日。
1985年3月27日、最高裁判所はサラリーマンの必要経費実額控除を認めない現行所得税法の規定を合憲と判断しました。 この訴訟では、通勤費や業務上の出張費などが控除対象とならない点が争点となりました。 判決は税制の公平性と立法裁量の範囲を重視し、実費控除の拡大は立法府の判断に委ねられると述べました。 判決後も労働者側から控除拡大の要望は続き、税制改革の議論材料となりました。 政府はその後、給与所得控除の見直しを通じて一部実質的な負担軽減策を講じています。
1985年 サラリーマン税金訴訟 最高裁
1993年

江沢民が中華人民共和国国家主席に就任。

江沢民が中華人民共和国の国家主席に選出された日。
1993年3月27日、江沢民が中華人民共和国第4代国家主席に就任した。 江沢民は鄧小平の後を受け、改革開放路線を継承しながら経済発展を推進した。 国家主席としての正式就任は、中国政治における世代交代を象徴する出来事となった。 就任後は市場経済改革を加速させ、軍事や外交分野でも積極的なリーダーシップを発揮した。 国際社会では中国の復興を印象づけた。
1993年 江沢民 中華人民共和国 国家主席
2018年

森友学園問題: 佐川宣寿の証人喚問が行われた。

森友学園問題で佐川宣寿元理財局長が国会で証人喚問され、土地取引の経緯について答弁しました。
2018年3月27日、森友学園問題に関して財務省前理財局長の佐川宣寿氏が衆参両院合同会議で証人喚問を受けました。国有地売却における異例の価格引き下げや文書改ざん疑惑について厳しい質問が飛び交いました。佐川氏は「指示を受けた記憶はない」と繰り返し答弁しましたが、野党側は責任追及を続けました。この喚問は国政の私物化問題として国内外の注目を集めました。終了後も文書公開のあり方や省庁の情報開示の問題点が議論されました。
2018年 森友学園問題 佐川宣寿