1862年
南北戦争: グロリエタの戦いが始まる。
1862年3月26日、ニューメキシコ準州でアメリカ南北戦争のグロリエタの戦いが始まった。
この戦いは北軍(ユニオン)と南軍(コンフェデレート)との間で行われ、西部戦線における重要な転機となった。
北軍はエドワード・キャンビー少将、南軍はヘンリー・S・シブリー准将が指揮を執った。
両軍は狭い渓谷地帯で激しく衝突し、戦闘は翌27日まで続いた。
最終的に北軍が勝利し、南軍は兵站路を断たれて退却を余儀なくされた。
この結果、南西部での南軍勢力は大きく弱体化した。
1862年
南北戦争
グロリエタの戦い
1945年
第二次世界大戦: 硫黄島の戦い: 最後まで米軍に抗戦していた栗林忠道配下の部隊が全滅。
1945年3月26日、硫黄島の戦いで栗林忠道麾下の部隊が最後まで抗戦し、全滅した。
硫黄島の戦いは太平洋戦争末期における重要な海陸戦である。
栗林忠道中将は厳重な防御陣地を構築して米軍の上陸を食い止めようとした。
1945年3月26日、最後の組織的抵抗が崩壊し、生存者は洞窟に潜んで散発的に抵抗した。
この戦闘で日米両軍合わせて約5万人の死傷者が出たとされる。
栗林の指揮と戦闘は日本軍の戦略的抵抗の象徴として語り継がれている。
1945年
第二次世界大戦
硫黄島の戦い
米軍
栗林忠道
1945年
第二次世界大戦・沖縄戦: 米軍が座間味島に上陸。
沖縄戦の一環として米軍が座間味島に上陸し、戦略的拠点攻略に乗り出した重要な作戦です。
1945年3月26日、沖縄戦において米軍は戦略的要衝である座間味島への上陸作戦を開始しました。座間味島は沖縄本島西方の離島で、日本軍の守備隊を分断し本島への補給路を断つ狙いがありました。上陸部隊は日本軍の激しい抵抗に遭遇したものの、段階的に島内各地を制圧しました。この作戦により、沖縄本島での主要作戦に先立つ橋頭堡が確保されました。座間味島の攻略は、沖縄戦全体の局面を大きく変える転機となりました。
沖縄戦
座間味島
1946年
ソ連軍が満州からの撤退を開始。
第二次世界大戦後、ソ連軍が満州地域からの大規模撤退を開始した国際情勢の転換点です。
1946年3月26日、ソ連軍は約1年におよぶ満州占領を終え、満州地域からの撤退を開始しました。ヤルタ会談の合意に基づき、ソ連は満州からの撤退時期を定めていたため、この日付で実際の行動に移ったものです。撤退は数週間かけて行われ、中国東北部に残された権力の空白をめぐり国共内戦に影響を与えました。撤退作業は数か月にわたり実施され、その後の中国情勢に大きな変動をもたらしました。この動きは戦後の国際政治における大国関係の変化を象徴するものともなりました。
1946年
ソ連軍
満州
1979年
キャンプ・デービッド合意に基づきエジプト・イスラエル平和条約が締結。
1979年3月26日、エジプトとイスラエルが平和条約を調印し、長年の対立に終止符を打った。
エジプト・イスラエル平和条約は、1978年のキャンプ・デービッド合意に基づき調印されました。
1979年3月26日にワシントンD.C.で署名が行われ、正式に国交回復が実現しました。
この条約でイスラエルはシナイ半島の返還を受け、エジプトは中東初のイスラエル承認国となりました。
米国のカーター大統領、サダト大統領、ベギン首相らが仲介し、国際的な評価を得ました。
中東和平プロセスの転換点とされ、後の和平交渉に大きな影響を与えました。
1979年
キャンプ・デービッド合意
エジプト・イスラエル平和条約
2010年
天安沈没事件。
韓国海軍の哨戒艦「天安」が黄海沖で原因不明の爆発により沈没した事件です。
2010年3月26日、韓国海軍の哨戒艦「天安」は黄海で爆発音とともに沈没し、104名の乗員のうち多数が行方不明・死亡しました。韓国政府は独自の特別調査委員会を設置し、後に北朝鮮の魚雷攻撃によるものと断定しました。国際的にも合同調査が行われ、北朝鮮の関与が強く疑われたため、南北関係に深刻な緊張が走りました。この事件は安全保障や海洋警備の在り方を問う重大事件として記憶されています。
2010年
天安沈没事件