1027年
神聖ローマ皇帝コンラート2世が即位。
コンラート2世が1027年3月26日に神聖ローマ皇帝に即位し、サリッシュ王朝の礎を築いた。
コンラート2世(サリッシュ朝初代皇帝)は、1024年にドイツ王として即位し、翌年にローマへ赴いた。
1027年3月26日、ローマで教皇ヨハネス19世から帝冠を授けられ、正式に神聖ローマ皇帝となった。
彼は帝国の中央集権化を図り、イタリア北部やブルグント地域での支配権を確立した。
在位中は諸侯との調停に尽力し、帝国の法制度整備にも関与した。
これによりサリッシュ王朝が確立し、以後約200年間にわたって続く基盤が築かれた。
1027年
神聖ローマ皇帝
コンラート2世
天明4年2月6日
福岡藩の藩校修猷館(東学問稽古所)開館。
1784年3月26日、福岡藩が藩士教育のため藩校修猷館(東学問稽古所)を開設した。
修猷館は福岡藩主黒田重朝の命により創立され、藩士の学問や礼法・武芸の教育を担当した。
当初は東学問稽古所と称し、朱子学を中心とした儒学教育が行われた。
幕末期には西洋学問や科学技術の講義も取り入れられ、藩の人材育成に寄与した。
廃藩置県後も明治期に継承され、現在の福岡県立修猷館高等学校へと発展した。
その教育理念は近代日本の学制構築にも影響を与えた。
1784年
天明
2月6日
福岡藩
藩校
修猷館
1862年
南北戦争: グロリエタの戦いが始まる。
1862年3月26日、ニューメキシコ準州でアメリカ南北戦争のグロリエタの戦いが始まった。
この戦いは北軍(ユニオン)と南軍(コンフェデレート)との間で行われ、西部戦線における重要な転機となった。
北軍はエドワード・キャンビー少将、南軍はヘンリー・S・シブリー准将が指揮を執った。
両軍は狭い渓谷地帯で激しく衝突し、戦闘は翌27日まで続いた。
最終的に北軍が勝利し、南軍は兵站路を断たれて退却を余儀なくされた。
この結果、南西部での南軍勢力は大きく弱体化した。
1862年
南北戦争
グロリエタの戦い
1871年
国民衛兵による選挙が実施され、パリ・コミューン政府が誕生。
1871年3月26日、パリ・コミューン政府が国民衛兵の選挙により発足した。
普仏戦争終結後のパリ市民は政府への抗議運動を展開し、国民衛兵の選挙が実施された。
同日、選出された委員会がパリ・コミューン政府の樹立を宣言した。
コミューンは労働者や小市民層を支持基盤とし、社会改革や自治の実現を目指した。
しかしパリ・コミューンの統治は短命で、わずか数ヶ月後の「血の日曜日」と呼ばれる鎮圧で崩壊した。
この運動は後の社会主義運動に大きな影響を与えた。
1871年
パリ・コミューン
1914年
島村抱月と松井須磨子が起こした劇団芸術座が、トルストイの『復活』を帝国劇場で初演。
1914年3月26日、劇団芸術座がトルストイの『復活』を帝国劇場で初演した。
劇団芸術座は島村抱月と松井須磨子の主導で結成され、日本に新しい演劇文化を導入することを目指した。
同年3月26日、東京・帝国劇場でロシアの文豪トルストイ原作『復活』が上演された。
この作品はリアリズム演劇として注目を集め、従来の歌舞伎や新派劇とは異なる手法を示した。
須磨子の繊細な演技と抱月の演出は高い評価を受け、近代劇発展の契機となった。
以後、芸術座は西洋戯曲の翻訳上演を重ね、劇作の多様化に寄与した。
1914年
島村抱月
松井須磨子
トルストイ
帝国劇場
1922年
東京で日本初の本格的下水処理施設である三河島汚水処分工場(現 三河島水再生センター)が運転を開始。
1922年3月26日、東京で日本初の本格的下水処理施設、三河島汚水処分工場が稼働を開始した。
三河島汚水処分工場は荒川区に設置され、都市化が進む東京の汚水処理課題に対応するために建設された。
当初は沈殿槽と浄化施設を備え、生活排水や工業排水を処理して隅田川への負荷を軽減した。
稼働開始により、下水処理の標準モデルが確立され、公衆衛生の向上に寄与した。
その後の技術革新で処理能力は増強され、現在は三河島水再生センターとして運用中である。
都市インフラ整備の端緒となった歴史的施設である。
1922年
下水処理施設
三河島水再生センター
1925年
普通選挙法が成立。5月5日に公布。
1925年3月26日、普通選挙法が衆議院を通過し成立した(5月5日公布)。
普通選挙法は従来の財産・納税要件を撤廃し、満25歳以上の全ての男子に選挙権を与える法律である。
加藤高明内閣下で立案され、政党政治の基盤を拡大する目的で可決された。
これにより約350万人だった有権者数は650万人以上に倍増した。
女性参政権は含まれなかったが、戦後の選挙制度改革への道を開いた。
公布後の第1回普通選挙は1928年に実施された。
1925年
普通選挙法
5月5日
公布
1935年
長崎県の端島(軍艦島)第一坑(炭鉱)でガス爆発事故が発生。死者17人、重軽傷者17人。
1935年3月26日、軍艦島(端島)の第一坑でガス爆発が発生し、17名が死亡、17名が負傷した。
端島炭鉱は三菱合資会社によって運営され、海上の人工島として知られていた。
1935年3月26日、第一坑内部でガス爆発が発生し、作業員17名が即死、17名が重軽傷を負った。
当時の作業環境は換気設備が不十分で、安全対策が課題となっていた。
事故は世間に衝撃を与え、炭鉱の労働安全基準見直しの契機となった。
現在でもこの事件は過酷な鉱山労働の象徴として語り継がれている。
1935年
長崎県
端島
炭鉱
ガス爆発
1940年
東海道本線塚本駅構内で貨物列車、旅客列車、電車の三重衝突事故が発生。死傷者113人。
1940年3月26日、東海道本線の塚本駅で貨物・旅客列車・電車が三重衝突し、113人が死傷した。
事故は大阪市の塚本駅構内で、貨物列車、旅客列車、そして電車が相次いで衝突したことで起きた。
衝突の原因には信号誤表示や運転指令の混乱が指摘されている。
激しい衝撃で車両は大破し、多くの乗客と乗員が負傷し、死者も多数に上った。
この惨事を契機に鉄道信号設備や運行管理体制の強化が進められた。
戦時下の混乱期に発生した悲劇としても知られている。
1940年
東海道本線
塚本駅
1945年
第二次世界大戦: 硫黄島の戦い: 最後まで米軍に抗戦していた栗林忠道配下の部隊が全滅。
1945年3月26日、硫黄島の戦いで栗林忠道麾下の部隊が最後まで抗戦し、全滅した。
硫黄島の戦いは太平洋戦争末期における重要な海陸戦である。
栗林忠道中将は厳重な防御陣地を構築して米軍の上陸を食い止めようとした。
1945年3月26日、最後の組織的抵抗が崩壊し、生存者は洞窟に潜んで散発的に抵抗した。
この戦闘で日米両軍合わせて約5万人の死傷者が出たとされる。
栗林の指揮と戦闘は日本軍の戦略的抵抗の象徴として語り継がれている。
1945年
第二次世界大戦
硫黄島の戦い
米軍
栗林忠道
1945年
第二次世界大戦・沖縄戦: 米軍が座間味島に上陸。
沖縄戦の一環として米軍が座間味島に上陸し、戦略的拠点攻略に乗り出した重要な作戦です。
1945年3月26日、沖縄戦において米軍は戦略的要衝である座間味島への上陸作戦を開始しました。座間味島は沖縄本島西方の離島で、日本軍の守備隊を分断し本島への補給路を断つ狙いがありました。上陸部隊は日本軍の激しい抵抗に遭遇したものの、段階的に島内各地を制圧しました。この作戦により、沖縄本島での主要作戦に先立つ橋頭堡が確保されました。座間味島の攻略は、沖縄戦全体の局面を大きく変える転機となりました。
沖縄戦
座間味島
1946年
ソ連軍が満州からの撤退を開始。
第二次世界大戦後、ソ連軍が満州地域からの大規模撤退を開始した国際情勢の転換点です。
1946年3月26日、ソ連軍は約1年におよぶ満州占領を終え、満州地域からの撤退を開始しました。ヤルタ会談の合意に基づき、ソ連は満州からの撤退時期を定めていたため、この日付で実際の行動に移ったものです。撤退は数週間かけて行われ、中国東北部に残された権力の空白をめぐり国共内戦に影響を与えました。撤退作業は数か月にわたり実施され、その後の中国情勢に大きな変動をもたらしました。この動きは戦後の国際政治における大国関係の変化を象徴するものともなりました。
1946年
ソ連軍
満州