708年

コンスタンティヌス (ローマ教皇)が教皇に就任

ローマ教皇コンスタンティヌスが教皇に選出され、教会の指導体制が新たに構築されました。
コンスタンティヌスは708年3月25日にローマ教皇に就任しました。 当時の教皇庁は政教分離が曖昧な時代で、東ローマ帝国との調整が重要でした。 彼は教義統一と教会法の整備に尽力し、教皇権の強化を図りました。 在位期間は短かったものの、その改革的な姿勢は後続の教皇に影響を与えました。 この就任はキリスト教世界における指導者選出の重要性を示す出来事となりました。
708年 コンスタンティヌス (ローマ教皇)
1306年

ロバート1世がスコットランド王に即位。

独立戦争の英雄ロバート・ザ・ブルースがスコットランド王に即位し、国家再興の旗振り役となりました。
1306年3月25日、ロバート1世(ロバート・ザ・ブルース)がスコットランド王に即位しました。 彼はイングランドの支配に反抗して独立戦争を主導し、民衆の支持を得てきました。 即位後は国内の統一を進め、貴族階級との連携を強化しました。 彼の統治はスコットランドの国家意識を高め、独立達成の礎となりました。 後世では「ブルース王」としてスコットランドの英雄とされています。
1306年 ロバート1世 スコットランド
1409年

教会大分裂の事態収拾のためピサ教会会議が開会。

ローマとアヴィニョン双方の教皇が存在した大分裂を解消すべく、ピサ教会会議が開催されました。
1409年3月25日、宗教改革前の重要会議であるピサ教会会議が開かれました。 教会大分裂(シスマ)によりローマ教皇庁とアヴィニョン教皇庁が対立していました。 各地の司教や聖職者が集い、相互の教皇を無効とする決議を試みました。 会議では新たな教皇の選出などを議題とし、教会の統一を目指しました。 最終的には部分的な解決にとどまり、真の和解にはさらに時間を要する結果となりました。
1409年 教会大分裂 ピサ教会会議
1802年

アミアンの和約(英仏の講和条約)が結ばれる。

ナポレオン戦争の一時的休戦をもたらしたアミアンの和約が締結され、両国に平和が訪れました。
1802年3月25日、イギリスとフランスはアミアンの和約を締結しました。 この条約により、両国は互いに領土の一部を返還し、一時的に戦闘を停止しました。 ナポレオン政権下のフランスとウィリアム3世治世下のイギリス間の緊張緩和策でした。 しかし根本的な対立は解消されず、1年後に再び戦火が交えられました。 この平和条約はナポレオン戦争の転換点ともいえる出来事です。
1802年 アミアンの和約
1848年

バイエルン王国でマクシミリアン2世即位

1848年3月25日、バイエルン王国でマクシミリアン2世が王位を継承し、近代化路線を推進した。
マクシミリアン2世はルートヴィヒ1世の息子として生まれ、1848年に王位を継承した。王は学問と芸術を好み「学者の王」と称された。教育振興や文化支援に力を注ぎ、宮廷音楽や文学を庇護した。政治面では議会や司法制度の近代化を試み、リベラル改革に取り組んだ。経済基盤の整備や鉄道建設を推進し、バイエルンの発展に寄与した。1848年革命後の混乱や保守勢力との板挟みという課題と格闘しつつ、在位中の1864年まで国の近代化を牽引した。
1848年 バイエルン王国 マクシミリアン2世
1915年

第12回衆議院議員総選挙。

1915年、大正時代12回目の衆議院議員総選挙が実施された。
衆議院議員総選挙は3年ごとに行われる近代日本の選挙制度である。第12回は1915年3月25日に実施され、政友会と憲政会が主要な勢力だった。政友会が大勝し、桂太郎内閣の支持基盤を強固にした。選挙権は25歳以上の男子に限定されており、女性の参政権はまだ認められていなかった。新聞や演説による情報戦が激化し、大正デモクラシー期の政治文化を象徴する選挙ともされる。国民政治の発展と課題を浮き彫りにした重要な政治イベントである。
1915年 第12回衆議院議員総選挙
1918年

ベラルーシ人民共和国が独立を宣言。

1918年、ベラルーシ人民共和国がロシアからの独立を宣言した。
第一次世界大戦とロシア革命の混乱に乗じ、1918年3月25日にベラルーシ暫定政府が独立を表明した。ドイツ帝国の後方支援を受け、一時的に主権国家を樹立した。独自の通貨や国旗、憲法の制定に着手し国家基盤づくりを急いだ。だが同年後半からの内乱や赤軍の進攻により独立は短命に終わった。最終的にベラルーシ・ソビエト社会主義共和国として編入された。独立運動は後のベラルーシ国家再建に向けた歴史的土台となった。
1918年 ベラルーシ人民共和国
1926年

朴烈事件: 朴烈と金子文子に対し死刑判決。

1926年、朴烈と金子文子に大逆罪で死刑判決が言い渡された。
朴烈は朝鮮出身の社会主義者、金子文子は日本人の無政府主義者として活動していた。二人は皇室暗殺計画に関与したとして検挙され、大逆罪で起訴された。1926年3月25日、東京控訴院で死刑判決が確定し社会に大きな衝撃を与えた。事件は当時の司法制度や検察権力の行使に対する批判を呼び起こした。無政府主義運動や植民地支配下の韓国人の権利問題と重なる側面もあり、国際的にも注目を浴びた。今日でも文学や映画などで題材として扱われるなど、歴史的関心を集める事件である。
1926年 朴烈事件 朴烈 金子文子
1941年

第二次世界大戦: ユーゴスラビア王国が日独伊三国軍事同盟に加盟。2日後にクーデターによる政権崩壊で離脱。

第二次世界大戦中、ユーゴスラビア王国が日独伊三国軍事同盟(枢軸国側)に加盟しましたが、わずか2日後に政変で離脱した出来事です。
1941年3月25日、レジエント枢機卿パウル大公の名のもと、ユーゴスラビア王国はウィーンで日独伊三国軍事同盟に正式に加盟しました。枢軸国入りはドイツ軍のバルカン侵攻を回避する狙いとされましたが、国民や軍部の反発が強まりました。3月27日、親英派の将校らがクーデターを起こして新政府を樹立し、同盟から離脱を宣言しました。この政変を口実にドイツは1941年4月6日からユーゴスラビアに侵攻し、わずか11日間で占領を完了しました。短期間の同盟参加が引き金となった激動の一連の流れは、バルカン戦線全体に大きな影響を与えました。
1941年 第二次世界大戦 ユーゴスラビア王国 日独伊三国軍事同盟 クーデター 政権
1957年

ローマ条約調印。

欧州経済共同体(EEC)創設を定めたローマ条約が調印された日です。
1957年3月25日、ベルギー・フランス・イタリア・ルクセンブルク・オランダ・西ドイツの6か国がローマ条約に調印しました。これにより欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EURATOM)が設立され、域内の関税撤廃や共通政策の策定が進められることとなりました。条約は翌1958年1月1日に発効し、ヨーロッパ統合の礎を築きました。共同市場の形成は域内貿易の拡大と経済成長を促進し、後の欧州連合(EU)発展の基盤となりました。調印式はローマ市内で盛大に行われ、政治的・経済的な歴史的転換点とされています。
1957年 ローマ条約
1975年

サウジアラビア国王ファイサルが甥のファイサル・ビン・ムサーイド王子により暗殺。

サウジアラビア国王ファイサルが甥ファイサル・ビン・ムサーイド王子に暗殺された日です。
1975年3月25日、サウジアラビアのリヤドにて国王ファイサル・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール=サウードが甥のファイサル・ビン・ムサーイド王子により狙撃され暗殺されました。現場は公の謁見の場であり、国王は礼拝後に歓迎式典へ向かう途中でした。王子の動機は不明瞭ともされますが、精神的問題や個人的怨恨説などが挙げられています。暗殺事件は国内外に大きな衝撃を与え、即座にムサーイド王子は逮捕され裁判の後に処刑されました。ファイサル国王は石油収入を活用した近代化を推進し、中東の重要な政治的指導者として知られていました。
1975年 サウジアラビア ファイサル ファイサル・ビン・ムサーイド 暗殺
1981年

大韓民国(第五共和国時代)で、第11代総選挙が行なわれる。

韓国で実施された第11代国会議員総選挙。 軍事政権下の政治プロセスに注目が集まりました。
1981年3月25日、大韓民国において第11代国会議員総選挙が実施されました。 第5共和制時代のもと、全議席をめぐって与党・民主正義党と野党各派が争いました。 選挙は統制下の政党政治とも言われ、自由度や公平性には批判もありました。 民主正義党は多数派を維持し、政権の安定化を図りましたが、国民の政治意識の高まりも見られました。 本選挙は後の民主化運動を背景に変革の契機の一つとされています。 選挙後の国会では政治改革や経済政策の議論が活発化しました。
1981年 第11代総選挙