元暦2年/寿永4年2月21日

治承・寿永の乱: 屋島から敗走する平氏軍を源氏方が追撃。(志度合戦)

1185年、源氏が屋島から敗走する平氏を追撃し、志度合戦が行われました。
平安時代末期の源平合戦における重要な戦いの一つです。 1185年3月24日(元暦2年2月21日)、源義経率いる源氏軍が屋島を脱出した平氏軍を追い、讃岐国志度(現在の香川県さぬき市)で激突しました。 この合戦で平氏は大敗し、西国に退却を余儀なくされ、壇ノ浦の戦いへの流れが決定づけられました。 源氏の連勝はこの後の平家滅亡へとつながり、鎌倉幕府成立への道を開きました。
1185年 元暦 寿永 2月21日 治承・寿永の乱 屋島 平氏 源氏 志度合戦
建武3年2月11日

足利尊氏が豊島河原合戦に敗れ、九州に落ち延びる。

1336年、足利尊氏が豊島河原合戦で敗北し、九州へ逃亡しました。
南北朝時代初期の戦いの一幕です。 建武3年2月11日(1336年3月24日)、尊氏は豊島河原(現在の兵庫県神戸市)で宮方勢力と衝突しました。 戦況が不利と判断した尊氏は軍を解散し、九州へ落ち延びました。 この敗北は尊氏の戦略転換を促し、九州での拠点確立と再起の契機となりました。
1336年 建武 2月11日 足利尊氏 豊島河原合戦
1927年

北伐: 蔣介石率いる国民革命軍が南京に入城するも軍の一部が暴徒化し外国人を襲撃、これに対し列強の駐留軍が城内に砲撃し多数の死傷者を出す。(南京事件)

1927年3月24日、国民革命軍が南京に入城した際に外国人居留地で衝突が発生した南京事件が起きました。
1927年3月24日、北伐を進める蔣介石率いる国民革命軍が南京に入城しました。 しかし一部部隊が暴徒化し、外国人居留地を襲撃し外国人や中国人キリスト教徒が攻撃されました。 これを受けてイギリスやアメリカなど列強の駐留軍が城内に砲撃を行い、多数の死傷者が出ました。 この事件は国際社会に大きな衝撃を与え、中華民国政府と列強の緊張関係を一層深める結果となりました。 歴史上「南京事件」として知られ、北伐の複雑さと列強の影響力を象徴する出来事です。
1927年 北伐 蔣介石 国民革命軍 南京 南京事件
1959年

イラクが中東の反共軍事同盟バグダッド条約機構を脱退。

1959年3月24日、イラクが反共軍事同盟バグダッド条約機構から脱退し、中東の冷戦構造に影響を与えました。
1959年3月24日、イラク政府はバグダッド条約機構(CENTO)からの脱退を表明しました。 同年のカシム将軍の政変を受け、イラクは西側陣営から距離を置く姿勢を明確にしました。 条約機構の中心的存在だったイギリスやトルコなどは衝撃を受け、組織の結束力は低下しました。 イラクの脱退は中東地域における勢力図の変化やソ連の影響力拡大を招く一因となりました。 この出来事は冷戦時代の中東外交を考える上で重要な転換点とされています。
1959年 イラク バグダッド条約機構
1999年

コソボ交渉が決裂し、NATO軍がユーゴスラビア空爆を開始。

コソボ紛争の和平交渉決裂を受け、NATOがユーゴスラビア連邦への空爆を開始しました。
1999年3月24日、コソボ州をめぐるセルビア政府軍とアルバニア系住民の間で行われた和平交渉が決裂しました。 これを受けNATOはユーゴスラビア連邦共和国(当時)への空爆を開始し、人道危機の回避を目的に軍事行動に踏み切りました。 空爆は約2か月間続き、旧ユーゴ政府とNATOとの緊張が高まりました。 民間人被害や難民流出が深刻化し、国際社会の関与強化へとつながる重要な契機となりました。 1999年6月、最終的に停戦合意が成立し、紛争終結への道が開かれました。
1999年 コソボ NATO ユーゴスラビア空爆