1603年

イングランド女王エリザベス1世の死去に伴い、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世としても即位。スコットランドとイングランドが同君連合となる。

イングランド女王エリザベス1世の死去に伴い、ジェームズ6世がエリザベスの後継としてイングランド王に即位しました。
1603年3月24日、エリザベス1世の崩御により、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として戴冠しました。 二国は同君連合を形成し、一人の君主が両王国を治める体制となりました。 これにより、後のイギリス統一への道が開かれ、イギリス王朝の基礎が築かれました。 政治的には二国間の協調が進み、文化・経済交流も活発化しました。
1603年 イングランド エリザベス1世 ジェームズ6世 同君連合
慶長8年2月12日

徳川家康が征夷大将軍に就任する。日本史における江戸時代の始まり。

徳川家康が征夷大将軍に就任し、日本で江戸時代が始まりました。
慶長8年2月12日(1603年3月24日)、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれました。 これにより約260年にわたる江戸時代の幕が上がり、江戸が政治の中心に。 幕府は武家諸法度や参勤交代などの統治制度を整備し、全国の大名を統制しました。 平和で安定した社会が維持され、元禄文化などの庶民文化が花開きました。
慶長 2月12日 徳川家康 征夷大将軍 日本史 江戸時代
安政7年3月3日

江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で、水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が、彦根藩の行列を襲撃し、大老井伊直弼を暗殺する桜田門外の変が起きる。

江戸城桜田門外で大老井伊直弼が暗殺される桜田門外の変が起きました。
安政7年3月3日(1860年3月24日)、水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が江戸城桜田門外で彦根藩の行列を襲撃しました。 大老の井伊直弼は暗殺され、幕府の開国政策に強く反発する尊王攘夷派の行動が頂点に達しました。 この事件は幕政に大きな衝撃を与え、公武合体論と攘夷論の対立が一層深まるきっかけとなりました。 幕末の動乱が激化し、明治維新への流れを加速させる重要な契機となりました。
1860年 安政 3月3日 江戸城 水戸藩 薩摩藩 彦根藩 井伊直弼 桜田門外の変
1895年

李鴻章が第3回日清講和会議の帰途狙撃される。

李鴻章が日清講和会議の帰途に狙撃されました。
1895年3月24日、清朝の重臣李鴻章が天津での第3回日清講和会議帰途に襲撃を受け軽傷を負いました。 講和交渉を主導していた李の狙撃は対日強硬派の反発によるものとされました。 この事件はクーデター未遂とみなされ、国内外に大きな衝撃を与えました。 狙撃後も李は交渉を継続し、下関条約締結に向けて尽力しました。
1895年 李鴻章 日清
1914年

シーメンス事件による国政の混乱の責任を負い、第一次山本権兵衛内閣が総辞職。

シーメンス事件の責任を取り、第一次山本権兵衛内閣が総辞職しました。
1914年3月24日、海軍発注をめぐるシーメンス事件の贈収賄疑惑が発覚し、国政が混乱しました。 山本権兵衛首相は事件の責任を取り、同日に内閣総辞職を表明。 この事件は軍需発注制度と政治腐敗の問題を浮き彫りにし、国民の政治不信を招く契機となりました。 後の大隈重信内閣では政党内閣制が採用され、議会政治の発展に影響を与えました。
1914年 シーメンス事件 第一次山本権兵衛内閣 総辞職
1933年

ドイツ議会で全権委任法が可決。

1933年3月24日、ドイツで全権委任法が可決され、ヒトラー政権に立法権が集中しました。
1933年3月24日、ワイマール共和国の国会で全権委任法が可決され、ナチ党に議会の承認なしで法律制定を認める権限が付与されました。 これにより立法府としてのライヒスタークの権限は事実上消滅し、独裁体制が確立しました。 反対派の共産党議員は投獄や追放の対象となり、民主主義は急速に解体されました。 全権委任法は第二次世界大戦とホロコーストへの道を開いた歴史的転換点とされています。 この日付はナチス独裁の始まりとして記憶されています。
1933年 全権委任法
1934年

アメリカ議会でフィリピン独立法が可決。

1934年3月24日、アメリカ議会でフィリピン独立法が可決され、将来の独立への道筋が示されました。
1934年3月24日、アメリカ議会はフィリピン独立法(タイディングス・マクダフィー法)を可決しました。 この法律はフィリピンを10年間の統治移行期間を経て独立国とする計画を定めたものです。 フィリピンはコモンウェルス政府を樹立し、自治権を拡大する一方、アメリカの軍事拠点は維持されました。 1946年7月4日に完全独立を達成するまで、この法は両国関係の基本となりました。 法の可決は植民地時代の終焉と新たな国際秩序の一端を示す重要な出来事です。
1934年 フィリピン独立法
1959年

イラクが中東の反共軍事同盟バグダッド条約機構を脱退。

1959年3月24日、イラクが反共軍事同盟バグダッド条約機構から脱退し、中東の冷戦構造に影響を与えました。
1959年3月24日、イラク政府はバグダッド条約機構(CENTO)からの脱退を表明しました。 同年のカシム将軍の政変を受け、イラクは西側陣営から距離を置く姿勢を明確にしました。 条約機構の中心的存在だったイギリスやトルコなどは衝撃を受け、組織の結束力は低下しました。 イラクの脱退は中東地域における勢力図の変化やソ連の影響力拡大を招く一因となりました。 この出来事は冷戦時代の中東外交を考える上で重要な転換点とされています。
1959年 イラク バグダッド条約機構
1972年

北アイルランド問題: イギリス政府が北アイルランドの直轄統治を宣言。

イギリス政府が北アイルランドの直轄統治を宣言しました。
1972年3月24日、イギリス政府は北アイルランド問題への対応として直轄統治(ダイレクト・ルール)を宣言しました。これにより、北アイルランド議会は停止され、行政権がロンドン政府に移管されました。直轄統治は1960年代後半からのカトリック教徒とプロテスタント教徒間の紛争を背景に決定されました。北アイルランドは長年にわたる暴力衝突「トラブルズ」と呼ばれる状況にさらされており、自治政府の機能不全が深刻化していました。ダイレクト・ルールは政治的安定を図る試みでしたが、現地の反発や暴動の激化も招きました。最終的には1998年のベルファスト合意まで継続されました。
1972年 北アイルランド問題 イギリス 北アイルランド
1976年

アルゼンチンで軍部による無血クーデター。イザベル・ペロン大統領が失脚。

アルゼンチンで軍部が無血クーデターを起こし、イザベル・ペロン大統領が失脚しました。
1976年3月24日、アルゼンチンの軍事政権がジョアン・ペロン派政府に対して無血クーデターを実行しました。これにより、初の女性大統領イザベル・ペロンは権力を奪われ、軍による統治が開始されました。新政権は治安維持を名目に戒厳令を敷き、反体制派の弾圧を強化しました。いわゆる「汚い戦争」と呼ばれる期間が始まり、多数の失踪者や犠牲者が生まれました。軍事政権は1983年まで続き、民主化への移行は長い時間を要しました。
1976年 アルゼンチン イザベル・ペロン
1980年

エルサルバドルのカトリック司祭・オスカル・ロメロがミサの司式の最中に狙撃を受けて暗殺される。

エルサルバドルの司祭オスカル・ロメロ大司教がミサ奉仕中に暗殺されました。
1980年3月24日、エルサルバドルのサンサルバドル大司教オスカル・ロメロがミサの最中に狙撃されて暗殺されました。ロメロは貧困層の人権擁護を訴え、軍事政権の暴力を批判していました。聖職者として被虐待者の声を代弁し、社会的弱者への支援を続けてきました。彼の死は国内外に衝撃を与え、エルサルバドル内戦の激化を象徴する事件となりました。ロメロは後にカトリック教会で殉教者として列聖され、世界的な人権擁護の象徴となりました。
1980年 エルサルバドル オスカル・ロメロ
1992年

大韓民国(第六共和国時代)で、第14代総選挙が行なわれる。

大韓民国で第6共和制期の第14代総選挙が行われ、与野党の激しい争いが繰り広げられました。
1992年3月24日、大韓民国で第14代国会議員総選挙が実施されました。 この選挙は民主化後の初の本格的な国政選挙として、与党・民主自由党と野党勢力の間で激しい選挙戦が繰り広げられました。 結果、与党が議席数を伸ばし、金泳三大統領誕生への道筋を確立しました。 投票率は上昇し、公正・公明選挙への期待が高まりました。 韓国政治の民主主義確立に向けた重要な転換点と評価されています。
1992年 第14代総選挙