1945年

青森県赤石村で雪泥流(土石流)が発生。87名死亡。

青森県赤石村で激しい雪泥流が発生し、多くの住民が犠牲となった日です。
1945年3月23日、青森県赤石村(現・平川市)で大規模な雪泥流(土石流)が発生しました。 春の融雪と豪雨が重なったことで山腹の雪土が一気に流れ下り、村内の住宅や農地を壊滅させました。 この災害により87名が死亡し、住民の暮らしは一夜にして一変しました。 戦時中であったため救援体制が十分でなかったことも犠牲を拡大させました。 事故後、河川や山地の水害対策強化が求められる契機となりました。
青森県 赤石村 土石流
1946年

宮城県女川町の女川港で定期船が沈没。死者117人。

宮城県女川港で定期船が沈没し、多数の死者を出した海難事故の日です。
1946年3月23日、宮城県女川町の女川港を出港した定期船が荒天の海域で沈没しました。 乗客・乗員を合わせ117人が犠牲となり、戦後の混乱期に起こった悲劇的な事故となりました。 事故原因には船体の老朽化や過積載、悪天候の影響などが指摘されています。 この海難事故を経て、船舶の安全基準や港湾設備の整備が急務とされるようになりました。 地方都市の港を拠点とする定期船運航の脆弱性が浮き彫りとなった出来事です。
1946年 宮城県 女川町 女川港
1956年

中日新聞社機が長野県乗鞍岳の乗鞍コロナ観測所付近で墜落。乗員4人が死亡。

1956年3月23日、中日新聞社の小型飛行機が長野県乗鞍岳付近で墜落し、乗員4人が犠牲になりました。
1956年3月23日、中日新聞社が取材用に運用していた小型飛行機が長野県乗鞍岳の乗鞍コロナ観測所付近で悪天候の中墜落した。現場は標高約2700メートルの高山地帯で吹雪など厳しい気象条件だった。乗員4名は全員即死し、捜索および回収作業には気象庁や地元警察が動員された。観測所への物資輸送や取材活動を支えていた機体の喪失は地域メディアの活動にも影響を及ぼした。事故原因は悪天候による視界不良とエンジントラブルの可能性が指摘されたが、詳細な調査報告書は公表されていない。
中日新聞 乗鞍岳 乗鞍コロナ観測所
1963年

愛知大学山岳部薬師岳遭難事故: 富山県薬師岳にて、名古屋大学登山部のメンバーが同年1月より行方不明となっていた愛知大学学生の遺体を発見。

1963年3月23日、名古屋大学登山部が富山県薬師岳で行方不明の愛知大学生の遺体を発見しました。
1963年3月23日、富山県の薬師岳で長期間行方不明となっていた愛知大学山岳部の学生の捜索が続けられた。名古屋大学登山部のメンバーが現地で調査を行い、氷雪に埋もれた登山道付近で遺体を発見した。遭難は同年1月の大雪による低体温症や滑落が原因と考えられている。捜索隊の活動は気象条件の厳しさと山岳地帯の難所によって困難を極めた。以降、大学山岳部の安全管理体制や装備の見直しが進められるきっかけとなった。
1963年 愛知大学山岳部薬師岳遭難事故 富山県 薬師岳 名古屋大学 愛知大学
1986年

西武鉄道新宿線田無駅追突事故が発生し、200名以上が負傷。原因はブレーキパッドと車輪の間に詰まった雪が凍り、制動力を得られなかったことで、事故後、西武鉄道は全車両に「耐雪ブレーキ」を装備した。

1986年3月23日、西武新宿線田無駅付近で雪詰まりによる制動不良が原因の追突事故が発生し、200名以上が負傷しました。
1986年3月23日、雪が凍結して硬化したことで西武新宿線田無駅付近で列車同士の追突事故が発生した。事故では200名以上が負傷し、列車の先頭車両が大破した。原因はブレーキパッドと車輪の間に詰まった雪が凍結し、制動力が著しく低下したことだった。事故後、西武鉄道は全車両に雪害対策として耐雪ブレーキを導入し、安全対策を強化した。鉄道事故の教訓として現場の保線体制や運行基準の見直しも行われた。
1986年 西武鉄道新宿線田無駅追突事故 西武鉄道
1994年

アエロフロート航空593便墜落事故。

1994年3月23日、アエロフロート航空593便が墜落し、搭乗者75名全員が亡くなりました。
1994年3月23日、ロシア(当時ソ連)のシベリア上空を飛行中だったアエロフロート航空593便(エアバスA310型)が墜落した。操縦席に居合わせた副操縦士の子どもが誤ってオートパイロットを解除し、機体が制御不能となって急降下した。乗員乗客75名は全員死亡し、航空史上に残る悲劇となった。事故調査委員会はパイロットの監督不足と訓練体制の不備を指摘し、cockpit securityの強化を勧告した。以降、ロシアをはじめ各国の航空会社でパイロット教育や客室立ち入り規定が見直された。
1994年 アエロフロート航空593便墜落事故
2009年

フェデックス80便着陸失敗事故: 成田国際空港にて中国・広州発成田行きのフェデックス80便「MD 11型」機が着陸に失敗して炎上、操縦士と副操縦士の2名が犠牲になる。

成田空港でフェデックス機の着陸失敗事故が発生し、機体が炎上した痛ましい事故です。
2009年3月23日、成田国際空港に着陸しようとしていたフェデックス80便(MD-11型機)が着陸に失敗し炎上しました。 中国・広州発成田行きの同便には操縦士1名と副操縦士1名が搭乗していました。 事故により操縦士と副操縦士の2名が犠牲となり、機体は大破しました。 着陸時の揚力制御や滑走路状態など、複数の要因が事故調査で検討されました。 この事故はMD-11型機の操縦特性に関する安全対策強化の契機となりました。
フェデックス80便着陸失敗事故 成田国際空港 フェデックス