文永11年2月14日

日蓮が幕府に赦免され、佐渡国から鎌倉へ帰る。

1274年、鎌倉時代の僧侶日蓮が佐渡国での流罪から赦免され、鎌倉へ帰還しました。
日蓮は法華経を説いた僧侶で、鎌倉幕府から異端とされて佐渡へ流罪となりました。帰還は文永11年2月14日にあたり、多くの信徒が復興を喜んだと伝えられています。赦免を決定した幕府は宗教勢力との調整を図ろうとしたともいわれます。鎌倉への復帰後、日蓮は法華宗の布教活動を再開しました。彼の教えは武士や庶民に広がり、後の日本仏教史に大きな足跡を残しました。
1274年 文永 2月14日 日蓮 幕府 佐渡国 鎌倉
建武3年2月10日

豊島河原合戦開戦。

1336年、建武3年2月10日に南北朝時代の争いの一環として豊島河原合戦が開戦しました。
豊島河原合戦は南北朝時代の初期に起きた戦いで、足利尊氏率いる北朝勢と南朝勢が激突しました。戦場は現在の東京・千葉県境付近とされます。南朝側の指導者は明確ではないものの地域の武士団が参戦したといわれます。北朝勢は京都奪回を目指しつつ鎌倉方面の防衛を図りました。戦闘の詳細は史料が限られ、戦果や犠牲者数は定かではありません。
1336年 建武 2月10日 豊島河原合戦
1400年

ベトナムで、胡季犛が少帝から皇位を簒奪し、陳朝が滅亡。

1400年、ベトナムの将軍胡季犛が少帝を廃して皇位を簒奪し、陳朝を滅亡させました。
胡季犛は陳朝末期の有力将軍で、内部抗争の混乱を背景に政権を掌握しました。少帝は幼少で、実権はすでに胡季犛に握られていました。1400年3月23日、胡季犛は正式に皇帝を称し、陳朝を終焉に追い込みました。これによりホー朝が成立し、ベトナム史上初の胡朝となりました。新朝政権は租税制度や軍制の改革を行い、国内統治の安定化を図りました。しかし急激な改革は旧勢力の反発を招き、その後の混乱につながりました。
1400年 ベトナム 胡季犛 少帝 簒奪 陳朝
天正13年2月22日

天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に公式謁見。

1585年、天正遣欧少年使節がローマ教皇グ레ゴリウス13世に公式謁見しました。
天正遣欧少年使節は日本人として初めて正式にヨーロッパ各国を訪問した代表団です。支倉常長ら4人の少年使節は宣教師フランシスコ会の支援を受けました。ローマ到着後、教皇グレゴリウス13世に謁見し、国内のキリスト教信仰と交流継続を願う書簡を手渡しました。教皇は彼らを暖かく迎え、聖体拝領や授章を行ったと伝えられています。この謁見は日本とローマ教皇庁との公式な外交接触として大きな意義を持ちました。帰国後、伊達政宗らを含む日本国内の対外政策にも影響を与えました。
1585年 天正 2月22日 天正遣欧少年使節 ローマ教皇 グレゴリウス13世
寛永10年2月14日

江戸幕府が奉書船以外で海外渡航した日本人の帰国を禁止する。

1633年、江戸幕府が奉書船以外で海外渡航した日本人の帰国を禁止しました。
寛永10年、江戸幕府は海外渡航に関する法令を強化しました。奉書船以外で渡航した者は帰国を認められず、違反者には罰則が科されました。幕府の狙いはキリスト教の流入抑制や海外情報の統制にありました。これにより日本は実質的な鎖国体制へと傾倒し、以後約200年間続きました。政策は不正渡航の抑止や財政収入確保にも寄与したといわれます。
1633年 寛永 2月14日 江戸幕府 奉書船
1775年

アメリカ独立戦争: パトリック・ヘンリーが「自由を与えよ。然らずんば死を与えよ」の演説を行う。

1775年、アメリカ独立戦争の勃発直前、パトリック・ヘンリーが有名な演説「自由か死か」を行いました。
パトリック・ヘンリーはバージニア植民地の政治家で、独立派の急先鋒でした。1775年3月23日、議会で「自由を与えよ。然らずんば死を与えよ(Give me liberty, or give me death!)」との言葉を発しました。彼の演説は植民地住民に強い感銘を与え、独立運動の士気を高めました。ヘンリーの言葉はアメリカ独立宣言の精神を先取りするものと評されます。演説後、バージニアは民兵動員を決議し、独立戦争への準備を加速させました。
1775年 アメリカ独立戦争 パトリック・ヘンリー 自由を与えよ。然らずんば死を与えよ 英語版
ユリウス暦3月11日

ロシア皇帝パーヴェル1世が暗殺される。

1801年、ロシア皇帝パーヴェル1世がクーデターの一環として暗殺されました。
パーヴェル1世はロシア帝国皇帝として過酷な軍事改革を行い、貴族や軍部の反発を招いていました。3月23日(ユリウス暦3月11日)、宮殿内で貴族と高官らが共謀して暗殺を実行しました。彼の死後、長男アレクサンドル1世が即位し、政策が大きく転換しました。アレクサンドル1世はフランス革命の影響を受けた改革を進め、ロシアの国内外情勢に変化をもたらしました。この事件はロマノフ朝の歴史における転機とされています。
1801年 3月11日 パーヴェル1世
1806年

ルイス・クラーク探検隊が、セント・ルイスへ帰還するため、フォート・クラットソップを出発。

1806年、ルイス・クラーク探検隊が帰還のためフォート・クラットソップを出発しました。
ルイス・クラーク探検隊は1804年にミズーリ川を下り太平洋岸を目指したアメリカ最初の大陸横断探検です。フォート・クラットソップは太平洋沿岸で越冬用の拠点として築かれました。1806年3月23日、雪解けを待ちつつ装備を整え、隊員たちは帰路につきました。帰還ルートでは交易路の開拓や先住民との交流が行われました。彼らの報告は西部開拓の基盤となり、合衆国の西方拡大を後押ししました。
1806年 ルイス・クラーク探検隊 セント・ルイス
1887年

所得税法が公布。

1887年、日本で初の所得税法が公布され、近代的な税制の基盤が築かれました。
明治政府は財政基盤強化のため、1887年(明治20年)に所得税法を制定しました。従来の地租中心の税制に加え、所得に応じた課税が導入されました。税率や控除額などが細かく規定され、納税制度の近代化が進みました。所得税の導入は財政収入の安定化に寄与し、産業振興やインフラ整備の原資となりました。その後も税制は改正を重ね、現在の所得税制度へと発展していきました。
1887年 所得税法
1914年

アメリカ海軍の戦艦オクラホマが進水。

1914年、アメリカ海軍の戦艦オクラホマが進水し、太平洋艦隊の新戦力となりました。
オクラホマ(BB-37)はノースカロライナ級戦艦の2番艦として建造されました。進水式は1914年3月23日にサウスカロライナ州チェールストンで行われました。船体は最新鋭の装甲と大口径砲を備え、海上戦力強化の象徴とされました。進水後は太平洋艦隊に配属され、第一次世界大戦中は訓練や演習に参加しました。その後も長年にわたり艦隊の中核を担いました。
1914年 オクラホマ
1919年

イタリアでベニート・ムッソリーニが「戦士のファッショ(後のファシスト党)」を結成。

イタリアでムッソリーニがファシズム運動の原型となる組織を結成した日です。
第一次世界大戦後のイタリアで政治的混乱が続く中、ムッソリーニは1919年3月23日にミラノで「戦士のファッショ」を結成しました。 この組織は後に国民ファシスト党へと発展し、イタリア全土にファシズムを広める原動力となります。 ムッソリーニのカリスマ性と排外主義的思想が結びつき、大衆の支持を集めました。 ファシスト党の成立は欧州各国の政治にも大きな衝撃を与え、第二次世界大戦への要因の一つとなりました。 今日では、近代史を学ぶ上で重要なターニングポイントとされています。
1919年 イタリア ベニート・ムッソリーニ ファシスト党
1935年

ソビエト連邦が満州国に東清鉄道を有償譲渡する協定の調印がおこなわれる。

ソビエト連邦が満州国に東清鉄道を有償譲渡し、満州における鉄道支配権が変動した日です。
1935年3月23日、ソビエト連邦と満州国の間で東清鉄道譲渡協定が締結されました。 東清鉄道はロシア帝政時代から重要な物流路線として機能していました。 譲渡により満州国が鉄道運営権を掌握したことで、日本の満州統治政策がさらに強化されました。 この協定は日ソ間の外交交渉の一環であり、地域の軍事的・経済的バランスに影響を与えました。 その後の東アジア情勢にも波紋を広げ、戦前期の国際関係を象徴する出来事となりました。
1935年 ソビエト連邦 満州国 東清鉄道