238年
ゴルディアヌス1世と彼の息子ゴルディアヌス2世が共同皇帝としてローマ皇帝への即位を宣言。
ローマ帝国の危機的状況下でゴルディアヌス1世と息子の2世が共同皇帝に即位を宣言しました。わずか数週間で終わる短命の政権でした。
238年は「六皇帝の年」と呼ばれる混乱期でした。アフリカ属州で反乱を起こした有力者たちがゴルディアヌス1世を擁立し皇帝宣言しました。ゴルディアヌス1世は息子ゴルディアヌス2世を共同皇帝として迎えました。両者はローマ帝国の東西支配を試みましたが、権力基盤が弱く挫折しました。数週間後に反乱軍が内部の対立で崩壊し、ゴルディアヌス親子は命を落としました。
238年
ゴルディアヌス1世
ゴルディアヌス2世
ローマ
大化6年2月15日
日本の元号が大化から白雉に改元。
日本で元号が大化から白雉に改元され、新たな時代が始まりました。
白雉(はくち)への改元は孝徳天皇の治世中の650年2月に行われました。元号は国家の節目を示す制度で、大化の改新後の安定期を記念して改められました。「白雉」の名称は吉兆として白い雉が献上された故事に由来します。改元は中央集権化の象徴であり、律令制確立へ向けた一歩とされています。白雉の時代には遣唐使の派遣など外交・文化交流が活発化しました。
650年
大化
2月15日
元号
白雉
1765年
13植民地を対象とする印紙法がイギリス議会を通過。
イギリス議会が北米13植民地を対象とした印紙法を可決しました。
印紙法は1765年にイギリス議会で制定された法案で、印紙購入を義務づけました。植民地で発行される新聞や公文書、契約書などに課税し、財政再建を図りました。植民地側は「代表なくして課税なし」を掲げて強く抵抗しました。ボイコット運動や暴動が各地で発生し、アメリカ独立への機運を高めました。印紙法は翌1766年に撤廃されましたが、対立の火種を残しました。
1765年
13植民地
印紙法
イギリス
享和4年2月11日
日本の元号が享和から文化に改元。
享和から文化に改元され、新たな文化開花の時代が始まりました。
文化元年は享和4年(1804年)にあたり、江戸時代中期に位置します。享和から文化への改元は老中松平定信による改革の一環でした。「文化」の名には学術や芸術の振興を願う意味が込められています。文化時代には浮世絵や俳諧、国学が大きく発展しました。江戸の町人文化が花開いた時代として知られています。
1804年
享和
2月11日
文化
1809年
カール13世がスウェーデン王に即位。
カール13世がスウェーデン王に即位し、新たな王朝が幕を開けました。
1809年3月22日、カール13世(カール・ポンメルンザンバーク公)がスウェーデン王に即位しました。彼はクーデターで退位したグスタフ4世アドルフの後継者となりました。在位中、ナポレオン戦争後の国政改革を進めました。後継者問題からフランス皇帝ナポレオンの養子案が浮上するなど波乱もありました。1818年にはベルナドット家のカール・ヨハンに王位を譲りました。
1809年
カール13世
スウェーデン
1907年
南アフリカのインド移民を制限する法律に反対して弁護士ガンジーが不服従運動を開始。
ガンジーが南アフリカでインド移民制限法に抗議し、不服従運動を始めた社会運動の幕開けとなる日。
1907年3月22日、弁護士のモハンダス・ガンジーは南アフリカのインド移民を制限する新法への抗議として、不服従(サティヤーグラハ)運動を開始しました。これによりインド移民への抑圧的政策に対し、非暴力で抗議を行う手法が具体化されました。ガンジーはこの運動を通じて政治的権利拡張を訴え、後のインド独立運動へとつながる重要な基盤を築きました。当初は小規模な市民的不服従でしたが、新聞や国際的な注目を集めることとなりました。
1907年
南アフリカ
ガンジー
不服従運動
1916年
袁世凱が中華帝国皇帝を退位。
中華帝国皇帝に即位していた袁世凱がわずか数ヶ月で退位し、中華帝国が崩壊した歴史的決断。
1916年3月22日、袁世凱は中華帝国の皇帝位を退き、わずか83日間の帝政は終焉を迎えました。彼は辛亥革命後に中華民国初代大総統に就任後、自ら皇帝に即位しましたが、国内外からの強い反発を受けていたため退位せざるを得ませんでした。帝政復活の試みは中国統一の難しさを浮き彫りにし、袁世凱の死後は各地軍閥の割拠時代へ突入していきました。この決断は近代中国史における大きな転換点とされています。
1916年
袁世凱
中華帝国
1933年
ナチス・ドイツ初の強制収容所であるダッハウ強制収容所の運用を開始。
ナチ党政権下で初の強制収容所ダッハウが稼働を開始し、政治犯の大量収容が始まった。
1933年3月22日、ナチス・ドイツはミュンヘン近郊のダッハウに最初の強制収容所を開設し、共産主義者や社会主義者ら政治犯の収容を開始しました。収容所は後に人種差別政策の中心地となり、多くのユダヤ人やロマ、障害者らが送られる拠点となりました。囚人たちは過酷な労働や虐待にさらされ、収容所制度はホロコーストの先駆けとも位置付けられています。ダッハウは戦後も証言や遺構を通じてナチスの残虐行為を伝える場として保存されています。
1933年
ナチス・ドイツ
強制収容所
ダッハウ強制収容所
1945年
アラブ連盟創設。
第二次世界大戦末期に、アラブ諸国の政治的・経済的連携を図るためアラブ連盟が創設されました。
1945年3月22日、エジプトのカイロでアラブ連盟の設立条約(カイロ条約)が調印されました。創設当初はエジプト、イラク、レバノン、サウジアラビア、シリア、トランスヨルダン(現ヨルダン)、イエメンの7カ国が加盟しました。目的は中東地域における政治的・経済的協力と相互援助を進めることで、植民地主義からの解放や地域安定に寄与することでした。冷戦期には加盟国間の立場の違いから課題も生じましたが、今日まで条約改定や加盟国拡大を重ねています。現在は22以上の国・地域が参加し、アラブ世界の声を国際社会に届ける重要な枠組みとなっています。
1945年
アラブ連盟
1946年
伊豆諸島に対する日本の施政権停止が解除され、伊豆諸島がアメリカから日本に復帰した。
終戦後の米国施政を経て、伊豆諸島の日本への復帰が実現しました。
1946年3月22日、日本の伊豆諸島に対する連合国(主にアメリカ)による施政権停止が解除されました。太平洋戦争終結後、伊豆諸島は一時的に米国占領下に置かれていましたが、この日をもって日本政府の行政権が回復されました。住民は日本への復帰を歓迎し、生活インフラや教育機関の運営が再開されました。この復帰により、各島で戦後復興が加速し、漁業や観光業の再興にもつながりました。日本本土復帰の一環として法的・行政的整備が進められ、現在の伊豆諸島の発展基盤となりました。
1946年
伊豆諸島
復帰
1962年
政治活動浄化法に抗議して尹潽善が韓国大統領を辞任。朴正煕が大統領代行に。
政治活動浄化法への抗議として尹潽善大統領が辞任し、朴正煕が大統領代行に就任しました。
1962年3月22日、韓国の尹潽善(ユン・ボソン)大統領が政治活動浄化法の施行に反対して辞任を表明しました。この法律は反共勢力の取り締まりを強化するもので、野党や市民からは政治的自由への侵害と批判を浴びました。尹大統領辞任後、当時の実権を握っていた朴正煕(パク・チョンヒ)が大統領代行に任命され、以後の韓国政治に大きな変化をもたらしました。朴正煕政権は経済開発5カ年計画などを推進し、その後の韓国の高度成長期の基礎を築いた一方、軍事政権としての側面も強めました。この出来事は韓国における民主化運動と軍事政権化の転換点として重要視されています。
1962年
尹潽善
韓国大統領
朴正煕
1965年
ニコラエ・チャウシェスクがルーマニア共産党総書記に就任。
ニコラエ・チャウシェスクがルーマニア共産党の総書記に就任しました。
1965年3月22日、ニコラエ・チャウシェスクがルーマニア共産党の第1書記(後の総書記)に就任し、国家の最高権力を掌握しました。前任のゲオルギウ=デジ政権下で政治的キャリアを積んだチャウシェスクは、就任当初は改革派として期待されました。しかし次第に個人崇拝的体制を強化し、独裁的統治を敷くことで知られるようになりました。彼の指導下でルーマニアは独自の社会主義路線を進めつつも西側諸国との関係改善を図りました。1989年の革命で失脚・処刑されるまで、長期にわたり冷戦期東欧政治に大きな影響を与えました。
1965年
ニコラエ・チャウシェスク
ルーマニア共産党
総書記