1566年

イングランドの宗教改革指導者トマス・クランマーが女王メアリー1世の命により火刑。

イングランドの宗教改革指導者トマス・クランマーがメアリー1世の命令で火刑に処された歴史的事件。
トマス・クランマーはヘレフォード大司教としてエドワード6世の下でプロテスタント改革を推進した人物です。メアリー1世即位後、カトリック復興を図る女王は彼を異端として告発し、法廷で厳しい審理を行いました。最終的に異端と認定され、火刑に処されました。彼の殉教はイングランド宗教改革史における象徴的な出来事となり、その後の宗教政策に大きな影響を与えました。その処刑は国内外で大きな議論を呼び、宗教的寛容の重要性を示す出来事として後世に伝えられています。
1566年 宗教改革 トマス・クランマー メアリー1世 火刑
天正19年2月4日

葛西大崎一揆を扇動した嫌疑で、伊達政宗が上洛し喚問を受ける。

葛西大崎一揆の嫌疑で伊達政宗が上洛し、京都で喚問を受けた。
1591年、奥州伊達氏の当主伊達政宗は葛西大崎領の一揆扇動の嫌疑をかけられました。豊臣政権は反乱の鎮圧と領主の責任追及を図り、政宗に上洛を命じます。政宗は京都に赴き、当時の高官から厳しく喚問を受けました。その後、詳細な聴取が行われ、政宗は領国帰還を許可され、以降も領国統治を継続しました。この出来事は戦国大名と中央権力の関係を象徴するエピソードとされています。
1591年 天正 2月4日 葛西大崎一揆 伊達政宗
1804年

フランス民法典(ナポレオン法典)の発布。

ナポレオン法典と呼ばれるフランス民法典が公布された。
1804年3月21日、ナポレオン・ボナパルトがフランス民法典を正式に公布しました。通称ナポレオン法典は市民法の統一的な体系を示し、封建的な身分制を廃止しました。契約や財産権、家族法などの基本原則が明文化され、ヨーロッパ各国に大きな影響を与えました。法典は個人の権利と法の下の平等を強調し、近代法体系の基礎となりました。現在も民法の根幹を成す重要な立法史上のマイルストーンです。
1804年 フランス民法典
1871年

オットー・フォン・ビスマルクがドイツ帝国の初代宰相に就任。

オットー・フォン・ビスマルクがドイツ帝国初代宰相に就任。
1871年3月21日、プロイセンの実力者オットー・フォン・ビスマルクが統一ドイツ帝国の初代帝国宰相に任命されました。彼は普仏戦争に勝利したプロイセン王ヴィルヘルム1世の信頼を得て、政治・軍事両面で強力な指導力を発揮しました。ビスマルクは保守的なバランス外交を展開し、ヨーロッパの勢力均衡を維持しました。国内では福祉政策や社会保険制度の整備を進め、『鉄血政策』と呼ばれる実用主義的統治を推進しました。この就任は近代ドイツ国家形成の出発点とされています。
1871年 オットー・フォン・ビスマルク 宰相
1919年

ハンガリー・ソビエト共和国が樹立される。8月6日に崩壊。

1919年3月21日、世界初期のソビエト政権の一つとしてハンガリー・ソビエト共和国が樹立されました。わずか約4ヵ月後の8月6日に崩壊し、歴史の短い節目となりました。
第一次世界大戦後の混乱期にチェーカーを始めとする赤軍勢力がブダペストで権力を掌握し、共産主義政権を樹立しました。レーニンのウクライナやロシア革命の影響を受けた指導者ベーラ・クンが国家主席に就任。土地の国有化や労働者評議会による統制など急進的な改革を進めました。しかし周辺諸国の反発と国内の抵抗勢力の蜂起により安定せず、連合国の支援を受けたホルティ将軍率いる反革命勢力に敗北。8月6日に政府は崩壊し、多くの指導者が国外へ亡命しました。ハンガリー・ソビエト共和国の経験は中欧の政治史に大きな影響を与えました。
1919年 ハンガリー・ソビエト共和国 8月6日
1933年

衛戍教会でポツダムの日が行われる。式典後、国会に全権委任法が提出される。

1933年3月21日、ベルリンの衛戍教会で“ポツダムの日”式典が行われ、その後ナチス政権が全権委任法を国会に提出しました。
ポツダムの日はプロイセン王国建国200周年を祝う名目の行事で、ヒトラーとヒンデンブルク大統領が共演して権威付けを図りました。式典後、ナチス党は議会での立法権を政府に一任する全権委任法を提出。法案は議会の強圧的な雰囲気の中で採択され、ヒトラー政権は立法権を掌握。これによりワイマール憲法の民主的制度は事実上停止され、独裁体制への道が開かれました。この日を境に、ドイツは一党独裁体制へと転換していきました。全権委任法はナチス政権の急速な権力集中と弾圧政策を可能にした画期的な法的手段となりました。
1933年 衛戍教会 ポツダムの日 全権委任法
1935年

ペルシアが国号をイランに改称。

1935年3月21日、国際社会において国号が“ペルシア”から“イラン”に正式変更されました。
ペルシアの歴史は古代文明にまで遡りますが、1935年にレザー・シャーは欧文表記をイランに統一するよう各国に要請。イランは民族称号としての意味を持ち、国内の民族意識を反映するとされました。この改称は国家の近代化と自立性を示す象徴的な変革と位置づけられました。以後、国際舞台ではイランとして知られるようになり、外交文書や地図も順次修正されました。国号変更は国民のアイデンティティにも影響を与え、現代イランの形成に寄与しました。
1935年 ペルシア イラン
1940年

ポール・レイノーがフランスの首相に就任。

1940年3月21日、第二次世界大戦下のフランスでポール・レイノーが首相に就任し、危機打開に挑みました。
ポール・レイノーは自由主義派の政治家として知られ、ダラディエ首相の後を継ぎました。彼の就任はドイツ軍の侵攻が迫る中でのリーダーシップが求められる重要局面でした。レイノー政権は英国との協力強化を図り、ド・ゴール将軍とも連携しましたが、戦況は悪化。6月にはフランス降伏協定が締結され、レイノーは辞任を余儀なくされました。彼の短期間の政権は、フランスの運命を左右する重大な決断を迫られる中での出来事として記憶されています。
1940年 ポール・レイノー フランスの首相
1961年

アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが平和部隊を創設。

ケネディ大統領が国際協力を目的に平和部隊(Peace Corps)を創設した。
1961年3月21日、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは平和部隊(Peace Corps)の設立を命じた。 若者を海外に派遣し教育・保健・農業支援などを通じて発展途上国との友好関係を築くことを目的とした。 ボランティア活動を通じた人材育成とソフトパワーの活用を結びつける新たな外交戦略として注目された。 設立後は多くの志願者が世界各地で活動し、現地の発展に寄与するとともに文化交流を促進した。 今日に至るまで継続的に活動を展開し、国際協力のモデルケースとして高い評価を受けている。
1961年 アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ 平和部隊
1963年

アメリカのサンフランシスコ湾にあるアルカトラズ島の連邦刑務所が閉鎖される。

サンフランシスコ湾にあるアルカトラズ島の連邦刑務所が閉鎖された。
1963年3月21日、アメリカ司法省はサンフランシスコ湾のアルカトラズ島連邦刑務所を正式に閉鎖した。 開所以来、重罪犯を収容する過酷な環境で知られ、運営コストや施設老朽化が閉鎖の主な理由とされた。 収容者は他の刑務所へ移送され、島は無人となった。 閉鎖後は観光地として整備され、元刑務所施設は見学スポットや博物館として公開されている。 訪問者はかつての囚人の生活や脱獄伝説に触れながら歴史を学ぶことができる。
1963年 アメリカ サンフランシスコ湾 アルカトラズ島 刑務所
1977年

インド総選挙で与党の国民会議が惨敗し、インディラ・ガンディー首相も落選。

1977年のインド総選挙で与党の国民会議党が大敗し、インディラ・ガンディー首相も議席を失いました。
1977年3月21日に実施されたインド総選挙では、緊急事態宣言明けで国民会議党が大敗を喫しました。 前首相インディラ・ガンディーは1975年からの非常事態宣言を批判され、ついに自身も議席を失う結果となりました。 これにより、インドで初めて国民会議党以外の政党連合が政権を獲得し、ジャナタ党政権が発足しました。 民衆の自由回復への期待が高まり、インディラ・ガンディー政権の自律的統治や人権抑圧への反発が投票行動に反映されました。 この選挙はインド政治における民主主義の成熟と政権交代の可能性を示した歴史的転換点となりました。
1977年 インド総選挙 英語版 国民会議 インディラ・ガンディー
1980年

アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターが、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、同年夏のモスクワオリンピックのボイコットを表明。

カーター米大統領がソ連のアフガニスタン侵攻抗議として、1980年モスクワオリンピックへのボイコットを宣言しました。
1980年3月21日、ジミー・カーター大統領はソ連のアフガニスタン侵攻を非難し、米国選手団にモスクワ五輪への参加自粛を命じるボイコットを表明しました。 これにより約60か国が五輪をボイコットし、国際スポーツの舞台は冷戦の影響を色濃く受けることとなりました。 カーター政権は人権問題や国際法の尊重を訴えつつスポーツを外交の手段とする新たなアプローチを示しました。 一方で多くのアスリートが開催都市モスクワでの出場機会を失い、五輪史上に残る政治介入の一例となりました。 この決断はスポーツと政治の境界線を問う論争を呼び、国際オリンピック委員会にも大きな影響を与えました。
1980年 アメリカ合衆国大統領 ジミー・カーター ソ連のアフガニスタン侵攻 モスクワオリンピック ボイコット