元暦元年2月7日

一ノ谷の戦い。源義経らが「鵯越(ひよどりごえ)の奇襲」により平氏に圧勝。

1184年に起きた一ノ谷の戦いで、源義経率いる軍勢が奇襲によって平氏を破った戦闘。
一ノ谷の戦いは、1184年に源平合戦の最中に行われた重要な戦闘です。源義経は鵯越の急坂を駆け降りる奇襲戦法を用いて平氏軍を撹乱し、大敗を与えました。この奇襲は機動力と奇策を重視する義経の戦術を象徴しています。戦闘の結果、平氏は一ノ谷の要地を喪失し、勢力は大きく後退しました。また、この勝利は源義経の名声を高め、鎌倉幕府の成立へとつながる転機となりました。
1184年 元暦 2月7日 一ノ谷の戦い 源義経
1602年

オランダが東インド会社を設立。

1602年、オランダが東インド会社(VOC)を設立し、世界初の株式会社モデルを生み出した。
1602年、オランダ共和国は各州の複数の東インド交易会社を統合し、東インド会社(Vereenigde Oost-Indische Compagnie, VOC)を設立しました。この会社は株式を発行して資金を調達する、世界初の株式会社とされています。政府から東アジア・東南アジアにおける独占的交易権を与えられ、香辛料や絹、茶などの貿易を展開しました。VOCは組織的な商業活動と軍事力を併せ持ち、一時は民間企業でありながら国家のような権限を行使しました。その繁栄は17世紀のオランダ黄金時代を支え、国際貿易の先駆けとなりました。
1602年 オランダ 東インド会社
元禄16年2月4日

赤穂浪士が預かりの大名屋敷で切腹する。

1703年、赤穂浪士四十七人が主君の仇討ちを果たした後、幕府の命により切腹した。
1703年(元禄16年)、赤穂浪士四十七人は主君浅野内匠頭の仇討ちを果たした後、幕府の判断により預かり所として使われた大名屋敷で一斉に切腹しました。この事件は忠義を重んじる武士道の象徴とされ、その後『忠臣蔵』などの演劇や文学作品で広く知られるようになりました。切腹当日、浪士たちは凛とした態度で儀礼に臨み、幕府側も武士の礼節を尊重する形で処理したと伝えられます。この一連の出来事は江戸幕府の統治理念と民衆の忠義観に大きな影響を与えました。また、浪士たちの行動は後世にわたり忠誠心の美徳として語り継がれています。
1703年 元禄 2月4日 赤穂浪士 大名屋敷 切腹
宝暦4年2月27日

宝暦治水事件: 薩摩藩による木曽三川の治水事業が始まる。

1754年、薩摩藩が幕府の命を受けて木曽三川の治水事業に着手した。
宝暦治水事件は1754年(宝暦4年)に薩摩藩が木曽三川の堤防建設と河川改修を命じられたことから始まった治水事業です。幕府は度重なる洪水対策のために専門の技術者を派遣し、薩摩藩に工事を負担させました。しかし現地住民との摩擦が生じ、『事件』と称されるほどの論争を呼びました。工事には堤防築造や水路掘削など大規模な土木技術が導入され、後の治水事業にも影響を与えました。このプロジェクトは藩政と幕府の関係、そして技術導入の難しさを象徴する出来事となりました。
1754年 宝暦 2月27日 宝暦治水事件 薩摩藩 木曽三川 治水
1815年

エルバ島を脱出したナポレオンが軍勢を伴ってパリに入城。百日天下が始まる。

1815年、エルバ島を脱出したナポレオンがパリへ帰還し、新たな統治期間『百日天下』が始まった。
1815年3月20日、ナポレオン・ボナパルトはエルバ島の流刑地を脱出し、わずか千数百の兵を率いてフランス本土に上陸しました。彼は民衆と軍の支持を取り付け、パリへ進撃すると国王ルイ18世は退位を余儀なくされました。この一連の復権劇は『百日天下』と呼ばれ、ヨーロッパ列強に再び動揺をもたらしました。ナポレオンの帰還はワーテルローの戦いへとつながる一連の軍事衝突の序幕となります。
1815年 エルバ島 ナポレオン パリ 百日天下
1848年

ドイツにおける1848年革命。バイエルン国王ルートヴィヒ1世が息子のマクシミリアン2世に譲位する。

1848年のドイツ革命に伴い、バイエルン国王ルートヴィヒ1世が息子マクシミリアン2世に譲位した。
1848年のヨーロッパ各地で起きた自由と民主主義を求める革命の中、バイエルン国王ルートヴィヒ1世は3月20日に長年の治世を終え、息子のマクシミリアン2世に譲位しました。この譲位は革命の圧力と国民世論の高まりによって促されたものです。マクシミリアン2世は新たな時代に対応すべく改革を試みましたが、革命後の混乱は続きました。この出来事はドイツ諸邦における君主制と市民社会の関係を象徴しています。またバイエルン王室の世代交代はドイツ統一運動にも影響を及ぼしました。
1848年 ドイツにおける1848年革命 バイエルン ルートヴィヒ1世 マクシミリアン2世 譲位
1852年

ハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』が刊行。

1852年、ハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』が刊行され、反奴隷制度運動に影響を与えた。
1852年、アメリカの作家ハリエット・ビーチャー・ストウは奴隷制度の非人道性を告発する小説『アンクル・トムの小屋』を刊行しました。本作は瞬く間にベストセラーとなり、北部諸州を中心に反奴隷制度運動を大きく後押ししました。ストウの描写は多くの読者の共感を呼び、南北戦争の背景にも影響を与えたとされています。小説は数十カ国語に翻訳され、今日でもアメリカ文学史上重要な位置を占めています。
1852年 ハリエット・ビーチャー・ストウ アンクル・トムの小屋
1882年

日本初の動物園、上野動物園が開園。

1882年、日本初の動物園として東京・上野に上野動物園が開園した。
1882年、東京の上野恩賜公園内に日本初の動物園として上野動物園が開園しました。園内にはライオンやトラをはじめ、シマウマやカバといった海外の動物が展示され、一般市民の憩いの場となりました。教育普及の面からも意義が認められ、博物館や学校との連携が進みました。この開園は日本の文化・レジャー史における新しいステージの始まりとされています。その後の動物園運営にも大きなモデルを提供しました。
1882年 動物園 上野動物園
1883年

工業所有権の保護に関するパリ条約調印。

1883年、工業所有権の保護に関するパリ条約が締結され、特許や商標権の国際保護枠組みが確立した。
1883年、フランスで開催されたパリ会議において『工業所有権の保護に関するパリ条約』が調印されました。本条約は特許権や商標権を含む工業所有権の国際的保護制度の基礎を築きました。加盟国は互いに自国民に対して均等の保護を与えることを約束し、優先権制度を導入しました。この枠組みは後の知的財産権法制の発展に多大な影響を与え、今日の国際特許協力条約(PCT)などにつながっています。
1883年 工業所有権の保護に関するパリ条約
1883年

高田事件。新潟県高田・頸城地方の自由党員20名を、反乱謀議の嫌疑で逮捕。

1883年、新潟県高田・頸城地方で自由党員20名が反乱謀議の嫌疑で逮捕される高田事件が発生した。
1883年、新潟県高田・頸城地方で自由民権運動の自由党員20名が反乱謀議の嫌疑により逮捕される高田事件が発生しました。政府は地方の政治的不満を抑えるために厳しい取り締まりを行い、これにより自由民権運動は一時的に活動を縮小しました。事件は明治政府の統治手法と国民の政治参加への志向との葛藤を象徴しています。後に多くの逮捕者が無罪となるなど、司法の在り方にも議論を呼びました。この事件は日本の近代政治史における重要な事件として記憶されています。
高田事件 新潟県 高田 頸城 自由党員 逮捕
1890年

ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世が首相オットー・フォン・ビスマルクを解任。

ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世が長年宰相を務めたビスマルクを解任し、自身の政治的主導権を確立しました。
ビスマルクは1871年から宰相を務め、ドイツ統一と国内政治の安定に大きく貢献した。ヴィルヘルム2世は1890年に即位し、強い個人統治を志向する若き皇帝であった。両者の間では外交方針と国内政策を巡って対立が深まり、皇帝はビスマルクの影響力を削ごうと決断した。3月20日にビスマルクの解任が正式に発表され、新たな内閣構成が始まった。この出来事は「鉄血政策」の終焉と、帝政期ドイツ政治の転換点とされる。
1890年 ドイツ帝国 ヴィルヘルム2世 オットー・フォン・ビスマルク
1906年

上野公園内に帝国図書館の新館庁舎(現 国際子ども図書館)が竣工し移転。

上野公園内に帝国図書館の新館庁舎が竣工し、業務を開始しました。
帝国図書館の新館庁舎は1906年3月20日に上野公園内で竣工し、従来の丸の内本館から移転した。設計は当時の西洋建築様式を基にしたもので、煉瓦造りの重厚な外観が特徴的である。戦後は国際子ども図書館として再生し、子ども向けの蔵書と展示を行う施設へと転換された。地域の文化発信拠点として多くの来館者に利用されている。現在でも上野公園のランドマークの一つとして親しまれている。
1906年 帝国図書館 国際子ども図書館