祥興2年2月6日

崖山の戦い。モンゴルにより南宋が滅亡。

崖山の戦いでモンゴル軍が南宋を滅ぼし、中国統一を完成させた最終決戦。
1279年、現在の広東省沿岸で行われた崖山の戦いは南宋最後の抵抗でした。 モンゴル帝国の軍勢が水軍を中心に攻撃を仕掛け、宋軍は大敗を喫しました。 指導者の潘美や張世傑らは船ごと沈み、数多くの将兵が戦死しました。 この戦いによって南宋は滅亡し、元朝による中国統一が実現しました。 中国の長い宋代は終わりを迎え、元朝支配下で新たな時代が始まりました。
1279年 祥興 2月6日 崖山の戦い モンゴル 南宋
1853年

太平天国の乱: 太平天国軍が江寧(南京)を陥落。「天京」と改称して首都とし、太平天国の王朝を樹立。

太平天国軍が南京を攻略し、「天京」を首都に王朝を樹立。
1853年、太平天国の指導者洪秀全率いる軍が江寧城(現在の南京)を陥落させました。 陥落後の南京は「天京」と改称され、太平天国政権の中心地となりました。 太平天国は清朝に対抗する宗教色を帯びた反乱で、独自の政治体制と宗教規律を導入しました。 この出来事は太平天国の勢力拡大の象徴であり、乱はその後数年にわたり清朝政府を苦しめました。 最終的には清朝の反撃で鎮圧されましたが、中国近代史に大きな影響を残しました。
1853年 太平天国の乱 南京
1865年

南北戦争: ベントンビルの戦いが始まる。

南北戦争末期の大規模戦闘、ベントンビルの戦いがノースカロライナ州で開始。
1865年3月、ジョンストン将軍率いる南軍とシャーマン将軍率いる北軍がノースカロライナ州ベントンビルで衝突しました。 この戦いは南北戦争最後の大規模戦闘の一つとされ、激しい攻防が繰り広げられました。 南軍は数で劣勢ながら持久戦を試みましたが、多くの損害を受けました。 シャーマンの北軍は補給線を断つ戦略を採用し、南軍の退却を促しました。 この戦い後、ジョンストン将軍は間もなく降伏し、南北戦争は事実上終結しました。
1865年 南北戦争 ベントンビルの戦い
1885年

カナダ・サスカチュワン州でルイ・リエルが再び連邦政府に対する反乱を開始。

ルイ・リエル率いるメティス人がサスカチュワン州で連邦政府に対する反乱を再開。
1885年3月19日、メティス(混血先住民)指導者ルイ・リエルがサスカチュワン州で再度武装蜂起しました。 これは1885年のノースウェスト反乱と呼ばれ、カナダ連邦政府の土地政策に対する抵抗が背景にあります。 リエルの軍勢は速やかにいくつかの町を占拠しましたが、政府軍の組織的な反撃で次第に劣勢となりました。 反乱は数週間で鎮圧され、リエルは逮捕後に処刑されました。 この事件はカナダ先住民と政府の関係に長期的な影響を残しました。
1885年 カナダ サスカチュワン州 ルイ・リエル
1945年

第二次世界大戦: アドルフ・ヒトラーがドイツ国内のインフラ破壊を指令。(ネロ指令)

1945年3月19日、ヒトラーがドイツ本土のインフラ破壊を命じる「ネロ指令」を発令し、敗戦後の復興をさらに困難にしました。
第二次世界大戦末期の敗北が濃厚となった1945年3月19日、アドルフ・ヒトラーは「ネロ指令」を発令。 この命令はドイツ国内の重要な産業施設や輸送インフラを破壊し、敵の占領時に役立てないよう徹底的な焦土作戦を指示するものです。 鉄道、橋梁、発電所、工場などが壊滅的なダメージを受け、民間人や復興計画にも多大な影響を及ぼしました。 一部の高官や将校が実行を拒否し、破壊を未然に防いだケースもありました。 この指令はヒトラーの絶望的な戦争観を象徴するものとして知られています。
1945年 第二次世界大戦 アドルフ・ヒトラー ドイツ インフラ ネロ指令
1945年

第二次世界大戦・九州沖航空戦: アメリカ海軍の航空母艦「フランクリン」が日本海軍の爆撃機「銀河」1機の攻撃を受け大破、724名の死者を出す。

1945年3月19日、九州沖航空戦で米空母「フランクリン」が日本海軍の爆撃機「銀河」に攻撃され大破し、多数の犠牲者を出しました。
九州沖航空戦の最中、アメリカ海軍航空母艦USS Franklin(CV-13)は日本海軍の一式陸上攻撃機「銀河」の特攻攻撃を受けます。 命中した爆弾により艦体は大破し、大規模な火災と爆発が発生。 乗組員約4,500名のうち724名が戦死し、フランクリンは自力航行不可能となりました。 救助作業は過酷な状況下で行われ、多くの負傷者と犠牲者を積極的に援護しました。 この事件は終戦直前の空母への攻撃として劇的なエピソードの一つとなっています。
九州沖航空戦 アメリカ海軍 航空母艦 フランクリン 日本海軍 爆撃機 銀河
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 名古屋大空襲。

1945年3月19日、名古屋大空襲が行われ、市街地への爆撃と焼夷弾投下で甚大な被害が出ました。
第二次世界大戦末期、連合国軍は日本本土への空襲を激化させ、3月19日に名古屋大空襲を実施。 B-29爆撃機による絨毯爆撃と焼夷弾投入で市街地の住宅や工場が大規模に破壊されました。 多数の民間人が犠牲となり、住宅地は火の海と化し、数万戸の焼失が報告されました。 空襲は名古屋の重要な工業地帯を標的にしたもので、戦後復興にも深刻な影響を与えました。 市民の避難や消火活動は困難を極め、多くの教訓を残しました。
日本本土空襲 名古屋大空襲
1962年

アルジェリア独立戦争が停戦。

1962年3月19日、アルジェリア独立戦争の休戦が発効し、独立への道が開かれました。
1962年3月19日、フランスとアルジェリア民族解放戦線の間で停戦が実施されました。 アルジェリア独立戦争(1954~1962)は多大な犠牲を生み、国際的にも注目された紛争でした。 エヴィアン協定に基づく休戦には双方の調印が必要で、協定署名は前日の3月18日に行われました。 停戦後、アルジェリアは同年7月に独立の是非を問う国民投票を実施し、独立が正式に承認されました。 この出来事はフランス植民地支配の終焉を象徴し、アフリカにおける脱植民地化の流れに大きな影響を与えました。
1962年 アルジェリア独立戦争
1982年

アルゼンチン軍が南ジョージア島に上陸し、フォークランド紛争が始まる。

1982年3月19日、アルゼンチン軍が南ジョージア島に上陸し、フォークランド紛争が本格化しました。
英国領フォークランド諸島の一部である南ジョージア島において、アルゼンチン軍が上陸作戦を開始しました。これにより両国間の軍事衝突が激化し、フォークランド紛争が勃発しました。イギリスは艦隊を派遣し、数ヶ月にわたり海上・陸上での戦闘が展開されました。最終的にイギリス軍が優勢を保ち、同地域の支配権を維持しました。この紛争は冷戦時代の西側同士の武力衝突としても国際的な注目を集めました。
1982年 アルゼンチン 南ジョージア島 フォークランド紛争
2002年

アメリカのアフガニスタン侵攻:ターリバーンやアルカーイダを多数殺害し、アナコンダ作戦が終了。

2002年3月19日にアフガニスタンでのアナコンダ作戦が終了しました。
2001年9月11日の同時多発テロを受けてアメリカはアフガニスタン侵攻を開始しました。同作戦はターリバーンやアルカーイダの拠点排除を目的とした主要な地上戦闘作戦です。激しい山岳戦が展開され、多数の敵戦闘員が制圧されました。2002年3月19日に作戦は終了と宣言され、残存勢力の掃討フェーズへ移行しました。この作戦は対テロ戦争における転換点の一つとされています。
2002年 アメリカのアフガニスタン侵攻 ターリバーン アルカーイダ
2003年

アメリカ・イギリスによるイラクの自由作戦の開始。イラク戦争開戦。

2003年3月19日、アメリカとイギリスがイラク侵攻を開始し、イラク戦争が勃発しました。
アメリカはイギリスなどの連合軍と共に『イラクの自由作戦』を開始しました。侵攻は『ショック・アンド・オーブ作戦』と呼ばれる圧倒的火力による空爆で幕を開けました。地上部隊がバグダッドを目指して進撃を開始し、数週間で制圧を進めました。サダム・フセイン政権の崩壊をもたらし、その後の復興と治安維持は長期化しました。開戦は国際的に大きな議論と抗議を呼び起こしました。
2003年 アメリカ イギリス イラクの自由作戦 イラク戦争