天武天皇10年2月25日

天武天皇が飛鳥浄御原令の制定を命ずる。

天武天皇が飛鳥浄御原令の制定を命じ、日本の律令国家形成の基礎を築いた。
飛鳥浄御原令は日本最古の本格的な律令制度の初期形であり、中央集権的な国家運営を目指した法令です。 天武天皇は681年にこれを命じ、官制や土地制度などを整備することで国内の統制を強化しました。 この令をもとに後の大宝律令や養老律令へと発展し、日本の古代国家の基盤が形成されました。 律令制定には中国の隋唐制度が参考にされ、朝廷の権威を高める目的もありました。 制定当時は実施が難航したものの、長期的には律令国家としての仕組みを確立しました。
681年 2月25日 天武天皇 飛鳥浄御原令
1906年

イギリスが満州の門戸開放を要求。

イギリスが満州における門戸開放を要求し、列強の中国政策に影響を与える。
1906年3月19日、イギリス政府は中国東北部(満州)に対する門戸開放と最恵国待遇の適用を求める要求を提出しました。 これはアメリカの門戸開放政策の延長として列国の対中国権益競争を調整する目的がありました。 特にロシアや日本の影響力拡大を牽制し、中国市場への自由なアクセスを確保しようとしたものです。 イギリスの要求は国際会議でも議題となり、その後の列強の中国政策に一定の影響を与えました。 この動きは後の義和団事件や清朝末期の外交にも影響を残しました。
1906年 イギリス
1920年

アメリカ合衆国上院がヴェルサイユ条約の批准を否決する。

第一次世界大戦後、連合国間で合意されたヴェルサイユ条約が米上院で批准されず、アメリカが条約に参加しない結果となった出来事。
第一次世界大戦終結後の1919年にパリ講和会議で成立したヴェルサイユ条約は、敗戦国ドイツに厳しい賠償と領土割譲を課す内容でした。 しかし、1920年3月19日、共和党重視派を中心とした米国上院は大統領ウィルソンの推進にもかかわらず条約の批准を否決。 これによりアメリカは国際連盟に参加せず、講和体制から一線を画すことになります。 アメリカ孤立主義の象徴ともいえる判断で、後の国際紛争構図に影響を与えました。 当時、国内では欧州への干渉を避ける孤立主義が根強く、条約批准反対派が多数を占めていました。
1920年 ヴェルサイユ条約 批准
1931年

アメリカ合衆国ネバダ州がギャンブルを合法化する。

1931年3月19日、アメリカ・ネバダ州議会がギャンブルを合法化し、後のラスベガス繁栄の土台を築いた歴史的決定です。
大恐慌下の経済活性化策として、ネバダ州は1931年3月19日にギャンブルの合法化法案を可決。 これによりカジノが正式に営業許可を得て、観光産業や娯楽産業が急速に発展しました。 特にラスベガスはギャンブルを中心とした街づくりを進め、世界的なリゾート都市へと成長します。 州政府は税収増加を狙い、ギャンブル依存や治安悪化などの課題にも取り組みました。 この決定はアメリカ国内でギャンブル許容政策の先駆けとなりました。
1931年 ネバダ州 ギャンブル
1950年

世界平和擁護大会常任委員会第3回総会で原爆禁止のストックホルム・アピールを採択。

1950年3月19日、世界平和擁護大会で原爆禁止を訴えるストックホルム・アピールが採択されました。
世界平和擁護大会常任委員会の第3回総会がスウェーデン・ストックホルムで開催。 1950年3月19日、「ストックホルム・アピール」と呼ばれる原爆禁止を求める宣言が採択されました。 このアピールは核兵器の廃絶を強く訴え、国際社会に衝撃を与えます。 作家アルベール・シュバイツァーや科学者らが署名し、市民運動として広く支持を集めました。 冷戦下の核軍拡競争に一石を投じた歴史的な平和運動です。
1950年 原爆 ストックホルム・アピール
1951年

イランで、国内のイギリス資本の石油会社を国有化する法律が成立。

1951年3月19日、イランでイギリス資本の石油会社国有化法が成立し、英伊間の緊張が高まりました。
1951年3月19日、イラン国会はモサデグ首相の主導で、国内にあるイギリス資本のアングロ・イラニアン石油会社を国有化する法律を可決。 これにより英国政府と石油資本は巨額の損失を被り、英伊間の外交危機が深刻化します。 国有化はイランの経済的独立を象徴する一方、国際的な石油市場にも大きな影響を及ぼしました。 最終的に英米の介入とクーデターを招き、モサデグ政権崩壊へとつながります。 中東地域の政治地図を塗り替える出来事として知られています。
1951年 イラン
1955年

第2次鳩山一郎内閣が成立。

1955年3月19日、第2次鳩山一郎内閣が成立し、鳩山一郎が再び首相に就任しました。
1955年3月19日、第2次鳩山一郎内閣が成立し、鳩山一郎が再び内閣総理大臣に就任しました。 この内閣は第一次鳩山内閣の後を受け、自由党を基盤として構成された政権でした。 経済復興や社会保障制度の整備を重要政策に掲げ、戦後日本の安定と発展を目指しました。 国会では与党内の調整や野党への対応が求められ、政権運営には厳しい目が向けられました。 第二次鳩山内閣はその後の自民党結党に向けた動きを支える役割も果たしました。
1955年 第2次鳩山一郎内閣
1961年

エドウィン・O・ライシャワーが駐日アメリカ特命全権大使として着任。

1961年3月19日、エドウィン・O・ライシャワーが駐日アメリカ大使に着任し、日米関係の架け橋となりました。
1961年3月19日、歴史学者として知られるエドウィン・O・ライシャワーが駐日アメリカ特命全権大使に着任しました。 ライシャワーはハーバード大学で日本研究をリードした学者であり、日米関係の深化を期待されて赴任しました。 冷戦期におけるアジア情勢の中で、両国間の政治・経済・文化交流の促進に尽力しました。 在任中、包括的な防衛協力の強化や教育・文化交流プログラムの拡充を推進しました。 彼の活動は日米同盟の基盤を強固にし、日本国内でのアメリカ文化への理解を深める契機となりました。
1961年 エドウィン・O・ライシャワー
1970年

ヴィリー・ブラント西独首相とヴィリー・シュトフ東独首相がエアフルトで初の東西ドイツ首脳会談。

1970年3月19日、西独首相ブラントと東独首相シュトフがエアフルトで初会談を行い、ドイツ分断緩和への一歩を踏み出しました。
1970年3月19日、エアフルトで西ドイツのヴィリー・ブラント首相と東ドイツのヴィリー・シュトフ首相が初の首脳会談を行いました。 冷戦下で分断されていたドイツの東西両政府が直接対話を行った歴史的な瞬間でした。 会談では家族訪問の自由化や鉄道・通信の相互利用など実務的な協力事項が議題に上がりました。 これはブラントの「東方政策(Ostpolitik)」の一環であり、両国間の緊張緩和を目指すものでした。 この会談は後のモスクワ条約や基本条約締結への道を開き、ドイツ分断の緩和に寄与しました。
1970年 ヴィリー・ブラント 西独 ヴィリー・シュトフ 東独 エアフルト 首脳会談
1972年

インドとバングラデシュが友好条約に調印。

1972年3月19日、インドとバングラデシュが友好条約を締結し、両国の協力関係が本格的に始まりました。
1972年3月19日、インドとバングラデシュが友好条約に調印し、相互協力関係を公式に開始しました。 バングラデシュは1971年の独立戦争後、インドの支援を受けて誕生した新国家でした。 条約では防衛協力や経済援助、文化交流など多岐にわたる協力項目が盛り込まれました。 インドはバングラデシュの再建支援を約束し、地域の安定維持に寄与しました。 この友好条約は両国間の関係を強固にし、南アジアの協調と発展の基盤となりました。
1972年 インド バングラデシュ
2004年

2004年中華民国総統選挙: 現職の陳水扁候補が台南を遊説中に狙撃され負傷。

2004年3月19日、中華民国総統選挙の遊説中に陳水扁総統が狙撃され負傷しました。
総統選挙直前、台南で行われた遊説中に陳水扁総統が何者かに狙撃されました。複数の銃弾を受けたものの軽傷で済み、選挙への影響は最小限にとどまりました。事件を受けて候補者や有権者の関心が一層高まり、投票率の上昇につながったとされます。台湾全土で大規模な警備体制が敷かれ、選挙後の安全対策強化が進められました。最終的に陳水扁氏は再選を果たし、事件は台湾政治史の重要なエピソードとなりました。
2004年 2004年中華民国総統選挙 陳水扁 台南
2022年

トルクメニスタン大統領選挙に勝利したセルダル・ベルディムハメドフが第3代となるトルクメニスタンの大統領に就任。

2022年3月19日、セルダル・ベルディムハメドフがトルクメニスタンの第3代大統領に就任しました。
2022年3月19日、トルクメニスタン大統領選挙で勝利したセルダル・ベルディムハメドフが正式に第3代大統領に就任しました。 彼は前大統領の息子であり、一族による権力継承として国際的にも注目されました。 就任式では国家指導体制の継続と経済改革の推進が表明され、国内外から様々な反応がありました。 トルクメニスタン政権は長年の一党支配体制を維持し、今後の民主化や人権状況が焦点となります。 地域の安定や天然ガス輸出政策など、周辺諸国との関係強化も課題となっています。
2022年 トルクメニスタン大統領選挙 セルダル・ベルディムハメドフ トルクメニスタンの大統領