天武天皇10年2月25日

天武天皇が飛鳥浄御原令の制定を命ずる。

天武天皇が飛鳥浄御原令の制定を命じ、日本の律令国家形成の基礎を築いた。
飛鳥浄御原令は日本最古の本格的な律令制度の初期形であり、中央集権的な国家運営を目指した法令です。 天武天皇は681年にこれを命じ、官制や土地制度などを整備することで国内の統制を強化しました。 この令をもとに後の大宝律令や養老律令へと発展し、日本の古代国家の基盤が形成されました。 律令制定には中国の隋唐制度が参考にされ、朝廷の権威を高める目的もありました。 制定当時は実施が難航したものの、長期的には律令国家としての仕組みを確立しました。
681年 2月25日 天武天皇 飛鳥浄御原令
祥興2年2月6日

崖山の戦い。モンゴルにより南宋が滅亡。

崖山の戦いでモンゴル軍が南宋を滅ぼし、中国統一を完成させた最終決戦。
1279年、現在の広東省沿岸で行われた崖山の戦いは南宋最後の抵抗でした。 モンゴル帝国の軍勢が水軍を中心に攻撃を仕掛け、宋軍は大敗を喫しました。 指導者の潘美や張世傑らは船ごと沈み、数多くの将兵が戦死しました。 この戦いによって南宋は滅亡し、元朝による中国統一が実現しました。 中国の長い宋代は終わりを迎え、元朝支配下で新たな時代が始まりました。
1279年 祥興 2月6日 崖山の戦い モンゴル 南宋
1853年

太平天国の乱: 太平天国軍が江寧(南京)を陥落。「天京」と改称して首都とし、太平天国の王朝を樹立。

太平天国軍が南京を攻略し、「天京」を首都に王朝を樹立。
1853年、太平天国の指導者洪秀全率いる軍が江寧城(現在の南京)を陥落させました。 陥落後の南京は「天京」と改称され、太平天国政権の中心地となりました。 太平天国は清朝に対抗する宗教色を帯びた反乱で、独自の政治体制と宗教規律を導入しました。 この出来事は太平天国の勢力拡大の象徴であり、乱はその後数年にわたり清朝政府を苦しめました。 最終的には清朝の反撃で鎮圧されましたが、中国近代史に大きな影響を残しました。
1853年 太平天国の乱 南京
1865年

南北戦争: ベントンビルの戦いが始まる。

南北戦争末期の大規模戦闘、ベントンビルの戦いがノースカロライナ州で開始。
1865年3月、ジョンストン将軍率いる南軍とシャーマン将軍率いる北軍がノースカロライナ州ベントンビルで衝突しました。 この戦いは南北戦争最後の大規模戦闘の一つとされ、激しい攻防が繰り広げられました。 南軍は数で劣勢ながら持久戦を試みましたが、多くの損害を受けました。 シャーマンの北軍は補給線を断つ戦略を採用し、南軍の退却を促しました。 この戦い後、ジョンストン将軍は間もなく降伏し、南北戦争は事実上終結しました。
1865年 南北戦争 ベントンビルの戦い
1882年

サグラダ・ファミリアの建設が開始される。

アントニ・ガウディ設計のサグラダ・ファミリア建設がバルセロナで開始。
1882年3月19日、スペイン・バルセロナでサグラダ・ファミリアの建設が正式に始まりました。 当初はフランシスコ・デ・パウラ・デル・ビリャールが設計を担当していましたが、1883年からはアントニ・ガウディが指揮を引き継ぎました。 ガウディは自然や宗教的モチーフを融合させた独創的なデザインを採用し、現在も建設が続く世界遺産です。 完成まで100年以上を要し、現在もガウディの遺志を継ぎながら多くの職人が携わっています。 壮大な塔群と繊細な装飾は訪れる人々を魅了し続けています。
1882年 サグラダ・ファミリア
1885年

カナダ・サスカチュワン州でルイ・リエルが再び連邦政府に対する反乱を開始。

ルイ・リエル率いるメティス人がサスカチュワン州で連邦政府に対する反乱を再開。
1885年3月19日、メティス(混血先住民)指導者ルイ・リエルがサスカチュワン州で再度武装蜂起しました。 これは1885年のノースウェスト反乱と呼ばれ、カナダ連邦政府の土地政策に対する抵抗が背景にあります。 リエルの軍勢は速やかにいくつかの町を占拠しましたが、政府軍の組織的な反撃で次第に劣勢となりました。 反乱は数週間で鎮圧され、リエルは逮捕後に処刑されました。 この事件はカナダ先住民と政府の関係に長期的な影響を残しました。
1885年 カナダ サスカチュワン州 ルイ・リエル
1896年

アントニン・ドヴォルザークのチェロ協奏曲がロンドンで初演。 第1楽章を聴く

ドヴォルザークのチェロ協奏曲がロンドンで初演され、音楽史に名高い名曲が誕生。
1896年3月19日、ロンドンのクイーンズホールでアントニン・ドヴォルザークのチェロ協奏曲ロ短調作品104が初演されました。 ソリストはチェリストのレオ・シュタインで、指揮はハンス・リヒターが務めました。 この作品は深い感情表現と大規模な編成を特徴とし、ドヴォルザークの代表作の一つとなりました。 初演以来、その豊かな旋律とドラマティックな構成は多くの演奏家や聴衆に愛され続けています。 現在でもチェロ協奏曲のレパートリーの中で最も人気のある一つです。
1896年 アントニン・ドヴォルザーク チェロ協奏曲 ロンドン 第1楽章を聴く
1906年

イギリスが満州の門戸開放を要求。

イギリスが満州における門戸開放を要求し、列強の中国政策に影響を与える。
1906年3月19日、イギリス政府は中国東北部(満州)に対する門戸開放と最恵国待遇の適用を求める要求を提出しました。 これはアメリカの門戸開放政策の延長として列国の対中国権益競争を調整する目的がありました。 特にロシアや日本の影響力拡大を牽制し、中国市場への自由なアクセスを確保しようとしたものです。 イギリスの要求は国際会議でも議題となり、その後の列強の中国政策に一定の影響を与えました。 この動きは後の義和団事件や清朝末期の外交にも影響を残しました。
1906年 イギリス
1915年

冥王星が初めて写真に捉えられるが、当時は惑星だと認識されず。

冥王星が初めて撮影されたものの、当時は新惑星と認識されなかった記録写真。
1915年3月19日、ロウエル天文台で撮影された星図の中に後に冥王星と特定される点が写っていました。 当時はドワーフプラネットや新惑星の存在が予測されておらず、これが冥王星と認識されるのは1930年の発見後のことです。 この写真は冥王星の発見に至る重要な証拠となり、プラネットX探索の一環でした。 撮影には反復撮影が用いられ、動きのある小天体を検出する技術が試されました。 現在、この歴史的な写真は冥王星研究の出発点とされています。
1915年 冥王星 写真 惑星
1917年

長崎県の松島炭鉱で火災。死者50人。

松島炭鉱で発生した火災事故により50名が犠牲となった悲劇。
1917年3月19日、長崎県にあった松島炭鉱で坑内火災が発生しました。 火災は炭鉱内部の照明用火炎から引火したとされ、多くの作業員が逃げ遅れました。 この事故で50名の労働者が犠牲となり、近隣地域に大きな衝撃を与えました。 当時の労働安全基準は未整備であり、この事故を契機に炭鉱の安全規制強化が議論されるようになりました。 記念碑が建てられ、犠牲者の慰霊と炭鉱労働者の労働環境改善が呼びかけられました。
1917年 長崎県 松島炭鉱
1920年

アメリカ合衆国上院がヴェルサイユ条約の批准を否決する。

第一次世界大戦後、連合国間で合意されたヴェルサイユ条約が米上院で批准されず、アメリカが条約に参加しない結果となった出来事。
第一次世界大戦終結後の1919年にパリ講和会議で成立したヴェルサイユ条約は、敗戦国ドイツに厳しい賠償と領土割譲を課す内容でした。 しかし、1920年3月19日、共和党重視派を中心とした米国上院は大統領ウィルソンの推進にもかかわらず条約の批准を否決。 これによりアメリカは国際連盟に参加せず、講和体制から一線を画すことになります。 アメリカ孤立主義の象徴ともいえる判断で、後の国際紛争構図に影響を与えました。 当時、国内では欧州への干渉を避ける孤立主義が根強く、条約批准反対派が多数を占めていました。
1920年 ヴェルサイユ条約 批准
1926年

東京市巣鴨から出火。折からの烈風で延焼、597戸が焼失。

1926年3月19日、東京・巣鴨町で発生した大規模な火災で、烈風に煽られ約597戸が焼失した悲惨な災害です。
東京市巣鴨付近で住宅密集地を巻き込む火災が発生。 強風にあおられ延焼が急速に拡大し、火元の特定が困難になるほどでした。 最終的に約597戸の住宅が全焼し、多数の住民が家を失い避難生活を余儀なくされました。 当時の木造家屋密集地の脆弱性が露呈し、都市防災の在り方が問われる契機となりました。 この災害後、東京市は防火対策強化や防風林の整備などの施策を進めました。
1926年 巣鴨