978年
ウェセックス家の王族エゼルレッドがイングランド人の王(King of the English )に就任した。のちにエゼルレッド無策王と称される。
978年、ウェセックス家のエゼルレッド2世がイングランド王に即位しました。後に「無策王」と呼ばれる治世が始まります。
978年、ウェセックス家のエゼルレッド2世が9歳でイングランド王に即位しました。
当時の王国は摂政によって治められ、エゼルレッド自身は幼少期から統治の重責を担うことになります。
その後の治世ではデーン人の侵入が相次ぎ、高額な貢納(ダネゲルド)を支払うなど苦しい対策を強いられました。
こうした対応の不備から後世に「エゼルレッド無策王(The Unready)」と呼ばれるようになりました。
彼の異名は古英語の「Unræd(賢明でない)」に由来しています。
978年
ウェセックス家
エゼルレッド
イングランド人の
王
1314年
フランス国王フィリップ4世の命で捕えられたテンプル騎士団団長ジャック・ド・モレーが、宗教裁判で異端とされて焚刑に処せられる。
テンプル騎士団団長ジャック・ド・モレーが異端審問で有罪とされ、焚刑に処せられました。
1314年、フランス王フィリップ4世の命によって捕らえられたテンプル騎士団の団長ジャック・ド・モレーは宗教裁判にかけられました。
異端の疑いをかけられた彼は罪状を否認したものの、最終的に有罪判決が下されました。
3月18日、パリのシテ島で焚刑に処せられ、テンプル騎士団は壊滅状態となりました。
この事件は中世ヨーロッパの王権と騎士団の対立を象徴し、後世に多くの伝説を生むことになります。
ド・モレーの最期はフランス王家への呪いを残したとも伝えられています。
1314年
フランス
フィリップ4世
テンプル騎士団
ジャック・ド・モレー
焚刑
1438年
ハプスブルク家のアルブレヒト2世がローマ王に即位。
ハプスブルク家のアルブレヒト2世がローマ王に即位し、中欧の政局に影響を与えました。
1438年、神聖ローマ皇帝ジギスムントの死去に伴い、ハンガリー王をも兼ねるハプスブルク家のアルブレヒト2世がローマ王として選出されました。
彼はハンガリー王国とボヘミア王国の相続権を巡り複雑な政略を展開しました。
即位後、神聖ローマ帝国の拡大と中央ヨーロッパにおけるハプスブルク家の影響力強化を図りました。
しかし即位から1年足らずで1439年に急逝し、その死は帝国内の権力闘争を激化させました。
アルブレヒト2世の統治は短命でしたが、ハプスブルク家の支配を確立する契機となりました。
1438年
ハプスブルク家
アルブレヒト2世
ローマ王
1874年
ハワイ王国が、アメリカ合衆国に対して独占的な通商権を与える条約を結ぶ。
ハワイ王国がアメリカ合衆国に対して独占的通商権を認める条約を締結しました。
1874年3月18日、ハワイ王国はアメリカ合衆国との間で独占的な通商権を与える条約を調印しました。
この条約によりアメリカ商船は関税免除や港湾使用権を得て、ハワイ経済への影響力を強めました。
当時のハワイは砂糖産業が重要であり、アメリカ資本の参入が拡大する契機となりました。
本条約は後のハワイ併合へ向けた政治的布石とも評価されています。
ハワイ王国の独立維持を巡る国際政治の複雑さが浮き彫りとなりました。
1874年
ハワイ王国
アメリカ合衆国
1913年
ギリシャ国王ゲオルギオス1世が暗殺される。
ギリシャ国王ゲオルギオス1世が暗殺されました。
1913年3月18日、ギリシャ北部テッサロニキで国王ゲオルギオス1世が暗殺されました。
長命で在位50年近くにわたる安定した治世を送っていた王の突然の死は国民に大きな衝撃を与えました。
暗殺者はセルビア系の青年とされ、バルカン半島情勢との関連が取り沙汰されました。
彼の死後、息子コンスタンティノス1世が即位し、第一次世界大戦期のギリシャ政治を担うことになります。
ゲオルギオス1世は欧州列強との良好な関係構築を図り、ギリシャ近代化の基礎を築きました。
1913年
ギリシャ
ゲオルギオス1世
1921年
ポーランドとソビエト連邦の間でリガ条約が結ばれる。
ポーランドとソビエト連邦がリガ条約を締結し、ポーランド・ソビエト戦争を終結させた日。
1921年3月18日、ポーランド共和国とロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を代表する政府間でリガ条約が調印されました。これにより1919年から続いたポーランド・ソビエト戦争は正式に終結し、両国は国境線を画定します。条約では東部領土の割譲や戦時賠償が定められました。ポーランドは西ウクライナおよび西ベラルーシの一部を併合し、ソビエト側は国際的承認を受けました。この合意は東ヨーロッパ情勢に大きな影響を与え、その後の国際関係を左右しました。
1921年
ポーランド
ソビエト連邦
リガ条約
1926年
三・一八事件。北京の段祺瑞政府打倒を叫ぶ民衆のデモに対し政府軍が発砲。
北京で政府打倒を訴えるデモが武力弾圧された「三・一八事件」が起きた日。
1926年3月18日、北洋政府を掌握していた段祺瑞首相に抗議する学生や市民によるデモが北京市内で行われました。群衆は政府の腐敗追及や政治改革を求めて行進を続けましたが、政府軍が発砲し多くの死傷者が発生します。当局はデモを封じ込めるため厳戒態勢を敷き、多数の市民が拘束されました。事件後、中国共産党や国民党内部でも政治的対立が激化し、その後の中国統一運動へ波及しました。報道規制や情報統制により正確な犠牲者数は不明ですが、後の国民意識の高揚や政治運動に影響を与えました。
1926年
三・一八事件
段祺瑞
1938年
メキシコが国内にある外国所有下の石油資源をすべて国有化。
メキシコ政府が外国資本の石油資源を完全に国有化した日。
1938年3月18日、メキシコのラサロ・カルデナス大統領は外国石油会社の事業を国有化し、国内の石油資源をすべて政府管理下に置く大統領令を公布しました。これによりエクソンやシェブロンなど米英系企業は操業を停止し、後にメキシコ石油公社(PEMEX)が設立されます。国有化は民族主義の高揚と経済的自立を象徴する出来事となり、国際的な石油市場にも大きな影響を与えました。アメリカやイギリスとの外交摩擦を招いた一方、メキシコ国民の支持を集めました。
1938年
メキシコ
1946年
スイスとソビエト連邦が国交を樹立。
スイスとソビエト連邦が正式に国交を樹立し、戦後の国際関係再編に一石を投じました。
第二次世界大戦終結後の1946年3月18日、スイスとソ連は相互に大使級外交関係を樹立した。
スイスは従来からの中立政策を維持しつつ、東欧圏との対話を図る姿勢を示した。
ソ連側も西側諸国との正式な外交チャンネルを拡大する狙いがあった。
これにより両国間の貿易や文化交流が促進され、冷戦構造下での外交動向に影響を与えた。
小国と超大国の関係構築の好例となった。
1946年
スイス
1953年
自由党を離党した鳩山一郎・三木武吉・河野一郎らが分党派自由党を結成。
鳩山一郎らが自由党を離党し、分党派自由党を結成する政治分裂が起きました。
1953年3月18日、鳩山一郎、三木武吉、河野一郎らが自由党を離党し、新党「分党派自由党」を設立した。
主導権をめぐる党内対立や政策の違いが背景にあり、戦後日本政治の不安定化を象徴した。
新党結成は衆議院解散・総選挙への影響を与え、与野党の勢力図を塗り替えた。
その後の政界再編の一因となり、自民党成立への過程にも大きな役割を果たした。
日本の政党政治史における重要なエピソードとされている。
1953年
自由党
鳩山一郎
三木武吉
河野一郎
分党派自由党
1970年
カンボジアでロン・ノル首相のクーデタによりノロドム・シアヌーク皇太子が亡命。
カンボジアでロン・ノル首相がクーデターを起こし、前国王シアヌークが亡命しました。
1970年3月18日、カンボジアのロン・ノル首相(当時は国家元首代行)がノロドム・シアヌーク皇太子に対してクーデターを実行した。
これによりシアヌークは自国を追われ、中国や北ベトナムの支援を受けて亡命生活を送ることとなった。
ロン・ノル政権は共和制を宣言し、ベトナム戦争の影響下で国内は混乱に陥った。
シアヌークの失脚は後の赤色クメール(クメール・ルージュ)台頭の一因となり、国内情勢を一変させた。
この政変は東南アジア冷戦史における重要な転機とされる。
1970年
カンボジア
ロン・ノル
ノロドム・シアヌーク
1990年
1990年ドイツ民主共和国人民議会選挙の投票が行われる。
1990年3月18日、東ドイツ(ドイツ民主共和国)で最後の人民議会選挙の投票が行われました。
ベルリンの壁崩壊後、東ドイツ国民にとって初の自由選挙として注目を集めました。
市民は共産党一党支配から脱し、民主的プロセスによる政治参加の機会を得ました。
投票結果では統一を支持する勢力が圧倒的優位となりました。
選挙後の協議で西ドイツとの再統一プロセスが本格的に動き出しました。
1990年10月には正式にドイツ再統一が実現し、冷戦時代の象徴的な結末となりました。
この選挙は東欧革命の一翼を担う歴史的出来事として評価されています。
1990年
1990年ドイツ民主共和国人民議会選挙