978年
ウェセックス家の王族エゼルレッドがイングランド人の王(King of the English )に就任した。のちにエゼルレッド無策王と称される。
978年、ウェセックス家のエゼルレッド2世がイングランド王に即位しました。後に「無策王」と呼ばれる治世が始まります。
978年、ウェセックス家のエゼルレッド2世が9歳でイングランド王に即位しました。
当時の王国は摂政によって治められ、エゼルレッド自身は幼少期から統治の重責を担うことになります。
その後の治世ではデーン人の侵入が相次ぎ、高額な貢納(ダネゲルド)を支払うなど苦しい対策を強いられました。
こうした対応の不備から後世に「エゼルレッド無策王(The Unready)」と呼ばれるようになりました。
彼の異名は古英語の「Unræd(賢明でない)」に由来しています。
978年
ウェセックス家
エゼルレッド
イングランド人の
王
建永2年・承元元年2月18日
承元の法難: 後鳥羽上皇が熊野詣にいった留守の間に、複数の女房が法然上人の弟子住蓮と安楽と共に出家した。これが、後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、法然上人は土佐国番田(実際は讃岐国)へ、親鸞聖人は越後国国府へ配流されることが決定した。
承元の法難では、後鳥羽上皇の命令により法然上人の弟子らが配流処分となり、日本仏教界に大きな影響を与えました。
承元元年(1207年)、後鳥羽上皇が熊野詣のため京を留守にしている間、女房複数が法然上人の弟子である住蓮と安楽と共に出家しました。
これを「承元の法難」と呼び、皇室や貴族の意向に反したとして上皇の逆鱗に触れました。
結果として法然上人は土佐国(讃岐国説もあり)へ、親鸞聖人は越後国へと配流される処分を受けました。
この事件は鎌倉時代の仏教勢力間の対立を象徴し、後の浄土教の発展にも影響を及ぼしました。
当時の法皇と僧侶の権力闘争や信仰の自由を巡る問題が浮き彫りになりました。
1207年
建永
承元
2月18日
承元の法難
後鳥羽上皇
住蓮
安楽
法然
親鸞
1229年
第6回十字軍: エルサレムに入城した神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が聖墳墓教会でエルサレム王として戴冠。
第6回十字軍でフリードリヒ2世が平和裏にエルサレム王に戴冠しました。
第6回十字軍(1228-1229年)において、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は軍事力を用いず和平交渉を進めました。
1229年、イスラム教指導者アル=カーミルとの講和によりエルサレムへの入城を許可されます。
その後、聖墳墓教会内でエルサレム王として正式に戴冠式を行いました。
戦闘を避けた異例の和平によって、十字軍史上でも特異な出来事とされています。
フリードリヒ2世は宗教的権威と政治力を巧みに利用し、交渉に成功しました。
1229年
第6回十字軍
エルサレム
神聖ローマ皇帝
フリードリヒ2世
聖墳墓教会
エルサレム王
1314年
フランス国王フィリップ4世の命で捕えられたテンプル騎士団団長ジャック・ド・モレーが、宗教裁判で異端とされて焚刑に処せられる。
テンプル騎士団団長ジャック・ド・モレーが異端審問で有罪とされ、焚刑に処せられました。
1314年、フランス王フィリップ4世の命によって捕らえられたテンプル騎士団の団長ジャック・ド・モレーは宗教裁判にかけられました。
異端の疑いをかけられた彼は罪状を否認したものの、最終的に有罪判決が下されました。
3月18日、パリのシテ島で焚刑に処せられ、テンプル騎士団は壊滅状態となりました。
この事件は中世ヨーロッパの王権と騎士団の対立を象徴し、後世に多くの伝説を生むことになります。
ド・モレーの最期はフランス王家への呪いを残したとも伝えられています。
1314年
フランス
フィリップ4世
テンプル騎士団
ジャック・ド・モレー
焚刑
1438年
ハプスブルク家のアルブレヒト2世がローマ王に即位。
ハプスブルク家のアルブレヒト2世がローマ王に即位し、中欧の政局に影響を与えました。
1438年、神聖ローマ皇帝ジギスムントの死去に伴い、ハンガリー王をも兼ねるハプスブルク家のアルブレヒト2世がローマ王として選出されました。
彼はハンガリー王国とボヘミア王国の相続権を巡り複雑な政略を展開しました。
即位後、神聖ローマ帝国の拡大と中央ヨーロッパにおけるハプスブルク家の影響力強化を図りました。
しかし即位から1年足らずで1439年に急逝し、その死は帝国内の権力闘争を激化させました。
アルブレヒト2世の統治は短命でしたが、ハプスブルク家の支配を確立する契機となりました。
1438年
ハプスブルク家
アルブレヒト2世
ローマ王
1850年
ヘンリー・ウェルズ、ウィリアム・ファーゴ、ジョン・バターフィールドの3人が経営していた運送会社を統合し、アメリカン・エキスプレス社が設立される。
ヘンリー・ウェルズらによってアメリカン・エキスプレス社が設立されました。
1850年3月18日、ヘンリー・ウェルズ、ウィリアム・ファーゴ、ジョン・バターフィールドの3氏が既存の運送会社を統合し、アメリカン・エキスプレス社を創設しました。
当初は馬車による急送サービスを提供し、後に金融サービスや旅行業務へと事業を拡大しました。
同社の創業は米国における物流と金融の結びつきを象徴する出来事とされています。
現在では世界的なクレジットカード会社として知られ、グローバルブランドに成長しました。
創業当初のロゴには天使が持つ盾と剣が描かれ、信頼性を表現しています。
1850年
アメリカン・エキスプレス
1871年
パリの民衆がアドルフ・ティエールの臨時政府に対し武器をとり蜂起。(パリ・コミューン)
パリ市民が臨時政府に対抗し、パリ・コミューンの蜂起が始まりました。
1871年3月18日、普仏戦争後のフランス臨時政府による治安部隊がパリ市民を弾圧し、市民は武装蜂起してパリ・コミューンを樹立しました。
コミューンは労働者主体の自治政府として社会改革を掲げ、労働条件の改善や教育改革に取り組みました。
政府軍との対立は激化し、最終的に「血の週」と呼ばれる激しい鎮圧へとつながりました。
この事件は近代史における最初の市民社会による自治運動の一つとして評価されています。
パリ・コミューンの理念は後の社会主義運動にも大きな影響を与えました。
1871年
アドルフ・ティエール
パリ・コミューン
1874年
ハワイ王国が、アメリカ合衆国に対して独占的な通商権を与える条約を結ぶ。
ハワイ王国がアメリカ合衆国に対して独占的通商権を認める条約を締結しました。
1874年3月18日、ハワイ王国はアメリカ合衆国との間で独占的な通商権を与える条約を調印しました。
この条約によりアメリカ商船は関税免除や港湾使用権を得て、ハワイ経済への影響力を強めました。
当時のハワイは砂糖産業が重要であり、アメリカ資本の参入が拡大する契機となりました。
本条約は後のハワイ併合へ向けた政治的布石とも評価されています。
ハワイ王国の独立維持を巡る国際政治の複雑さが浮き彫りとなりました。
1874年
ハワイ王国
アメリカ合衆国
1881年
『東洋自由新聞』創刊。
自由民権運動を支えた『東洋自由新聞』が創刊されました。
1881年3月18日、政治評論や社会改革を掲げる『東洋自由新聞』が東京で創刊されました。
同紙は自由民権運動の機関紙として、政府批判や言論の自由を訴える姿勢で注目を集めました。
編集には当時の知識人や自由主義者が携わり、多くの論説が掲載されました。
政府から度々弾圧の対象となり、言論統制との闘いを象徴する存在となりました。
この新聞の活動は日本の近代民主主義の形成に一定の影響を与えました。
1881年
東洋自由新聞
1913年
ギリシャ国王ゲオルギオス1世が暗殺される。
ギリシャ国王ゲオルギオス1世が暗殺されました。
1913年3月18日、ギリシャ北部テッサロニキで国王ゲオルギオス1世が暗殺されました。
長命で在位50年近くにわたる安定した治世を送っていた王の突然の死は国民に大きな衝撃を与えました。
暗殺者はセルビア系の青年とされ、バルカン半島情勢との関連が取り沙汰されました。
彼の死後、息子コンスタンティノス1世が即位し、第一次世界大戦期のギリシャ政治を担うことになります。
ゲオルギオス1世は欧州列強との良好な関係構築を図り、ギリシャ近代化の基礎を築きました。
1913年
ギリシャ
ゲオルギオス1世
1915年
第一次世界大戦・ガリポリの戦い: 連合国によるダーダネルス海峡進攻作戦が失敗。
第一次世界大戦中、連合国がダーダネルス海峡の要衝ガリポリへ侵攻したものの、作戦に失敗した日。
1915年3月18日、イギリスやフランスなど連合国軍はオスマン帝国支配下のダーダネルス海峡を通じて黒海へ進出し、ロシア支援を目的にガリポリ半島への上陸作戦を開始しました。陸軍と海軍の連携不足や地形の厳しさ、オスマン軍の徹底抗戦により作戦は頓挫します。特にオーストラリア・ニュージーランド軍団(ANZAC)など各国部隊が激戦を繰り広げ、多大な犠牲を出しました。艦隊による海峡突破も阻まれ、多数の艦船が損傷しました。この失敗は連合国の戦略転換を迫り、後の戦線に大きな影響を与えました。
1915年
第一次世界大戦
ガリポリの戦い
ダーダネルス海峡
1921年
ポーランドとソビエト連邦の間でリガ条約が結ばれる。
ポーランドとソビエト連邦がリガ条約を締結し、ポーランド・ソビエト戦争を終結させた日。
1921年3月18日、ポーランド共和国とロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を代表する政府間でリガ条約が調印されました。これにより1919年から続いたポーランド・ソビエト戦争は正式に終結し、両国は国境線を画定します。条約では東部領土の割譲や戦時賠償が定められました。ポーランドは西ウクライナおよび西ベラルーシの一部を併合し、ソビエト側は国際的承認を受けました。この合意は東ヨーロッパ情勢に大きな影響を与え、その後の国際関係を左右しました。
1921年
ポーランド
ソビエト連邦
リガ条約