紀元前45年
ローマ内戦: ムンダの戦い。
ローマ内戦の最終局面、ムンダの戦いが行われ、ユリウス・カエサルが共和派軍を打ち破りました。
紀元前45年3月17日、スペイン南部のムンダ近郊で発生したローマ内戦最後の大規模戦闘です。
この戦いでジュリアス・カエサルはポンペイウス派の将軍ティトゥス・ラビエヌスらを破り、共和派の抵抗を壊滅させました。
カエサルにとっては内戦決着の象徴的勝利となり、独裁政治の基盤を固めました。
戦闘は激戦となり、多くの兵士が戦死しましたが、カエサルの戦術的手腕が光った合戦でもありました。
この勝利によりローマ共和国は事実上終焉を迎え、帝政への道が開かれました。
紀元前45年
ローマ内戦
ムンダの戦い
1939年
日中戦争: 南昌作戦が開始される。
1939年、日中戦争において日本軍が南昌攻略を目指し南昌作戦を開始した。
1939年3月17日、日中戦争の転換点を狙い、日本軍は中国江西省の省都南昌攻略を目的とした南昌作戦を開始しました。
日本軍は複数の方面軍を投入し、鉄道網を利用した迅速な進撃を試みました。
しかし中国軍の頑強な抵抗と補給線の延伸に苦戦し、作戦の成否は不透明な状況が続きました。
南昌作戦は日中両軍の戦線を固定化させ、その後の大規模戦略に大きな影響を与えました。
戦争の長期化と消耗戦化を象徴する作戦の一つとして歴史に刻まれています。
1939年
日中戦争
南昌作戦
1945年
第二次世界大戦・日本本土空襲: 神戸大空襲。
1945年、日本本土空襲の一環として連合軍による神戸大空襲が行われた。
1945年3月17日未明、アメリカ軍B-29爆撃機など約250機が神戸市を空襲しました。
市街地中心部を重点的に焼夷弾で攻撃し、市街地の大部分を焦土と化しました。
死者数は推定数千人、住家のほとんどが破壊される大惨禍となりました。
この空襲は戦争末期の本土防空体制の脆弱さを露呈し、民間人犠牲の甚大さを物語っています。
戦後の神戸復興には長い年月を要し、市街地再建と戦災跡の記憶保存が進められました。
1945年
第二次世界大戦
日本本土空襲
神戸大空襲
1945年
第二次世界大戦: 硫黄島の戦いで、米軍が硫黄島最北端まで到達し、全島を占領。
1945年3月17日、第二次世界大戦下の硫黄島の戦いで米軍が島の最北端を制圧し、全島占領を達成しました。
1945年3月17日、硫黄島の戦いは激戦を極める中で進行していました。
米軍は日本軍守備隊の陣地を次々と攻略し、島の最北端への攻撃を強化。
この日、最北端に到達した部隊が残存兵力を包囲・撃破し、硫黄島全域を掌握。
占領後、米軍はこの戦略拠点を本土攻撃の前進基地として整備しました。
この出来事は太平洋戦争における重要な転機とされています。
硫黄島の戦い
硫黄島
1959年
チベット蜂起: ダライラマ14世テンジン・ギャツォがチベットからインドへ逃れる。
1959年3月17日、チベット蜂起の混乱の中、ダライラマ14世テンジン・ギャツォがインドへ脱出し亡命政府を樹立しました。
1959年のチベット蜂起は中国人民解放軍の圧政への抵抗運動でした。
蜂起鎮圧後、若きダライラマ14世は密かにカルナータカ州シッキム経由で国境を越える。
インド政府は亡命民を受け入れ、ダライラマを保護。
デリー郊外にチベット亡命政府が設立され、文化・宗教の継承が図られました。
以降、チベット問題は国際的な注目と人権議論を呼ぶことになります。
1959年
チベット蜂起
ダライラマ14世テンジン・ギャツォ
チベット
インド
1992年
ブエノスアイレスのイスラエル大使館で自爆テロ。29人死亡。
1992年3月17日、ブエノスアイレスのイスラエル大使館で自爆テロが発生し、29人が死亡しました。
この事件はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスにあるイスラエル大使館を標的とした自爆テロです。
爆発により大使館だけでなく近隣のビルにも甚大な被害が及びました。
犠牲者は大使館職員や警備員、市民を含む29名に上り、多数の負傷者が発生しました。
事件後、捜査当局は中東の過激派組織の関与を疑い、国際的な捜査が展開されました。
このテロは南米で発生した大規模なテロ事件の一つとして記憶され、犠牲者追悼と背景解明の取り組みが続いています。
1992年
ブエノスアイレス
イスラエル
大使館
自爆テロ
2003年
アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュによるイラク大統領サッダーム・フセインへの最後通牒演説。
2003年3月17日、ブッシュ大統領がサッダーム・フセインに対し最後通牒演説を行い、即時降伏を求めて武力行使の正当性を訴えました。
2003年3月17日、ホワイトハウスで演説に臨んだジョージ・W・ブッシュ大統領は、イラク大統領サッダーム・フセインに対し48時間以内の降伏を要求する最後通牒を発しました。
演説では大量破壊兵器の保有疑惑や国連決議違反を理由に、フセイン政権の即時無条件降伏を求めました。
この発言はイラク戦争開戦の口実として国際社会の注目を集め、賛否両論の議論を引き起こしました。
イラク政府は要求を拒否し、その後2003年3月20日に米英両国がイラク侵攻を開始しました。
演説の映像は世界中で報道され、アメリカの外交政策と軍事介入の是非を巡る論争を活性化させました。
2003年
アメリカ大統領
ジョージ・W・ブッシュ
イラク
サッダーム・フセイン
最後通牒
2004年
コソボ暴動。
2004年3月17日、セルビア自治州コソボで民族間の暴動が発生し、多数の死傷者と住民の避難を招く深刻な事態となりました。
2004年3月17日、コソボのセルビア系住民とアルバニア系住民の間で大規模な暴動が勃発しました。
プリシュティナを中心に衝突が広がり、相互的な襲撃や略奪行為により数十人が死亡、数百人が負傷しました。
国連平和維持部隊(UNMIK)とNATO軍(KFOR)は治安維持のため部隊を緊急増派しました。
この暴動は1999年のコソボ紛争終結後も根強い民族間対立が残存していることを浮き彫りにしました。
事件を受けて国連や各国は和平構築と対話強化への取り組みを改めて求められました。
2004年
コソボ暴動
2011年
リビア情勢に関して国際連合安全保障理事会決議1973が採択される。
2011年3月17日、リビア内戦を受けて国連安全保障理事会が決議1973を採択し、市民保護の名目で強制措置を承認しました。
2011年3月17日、国連安全保障理事会はリビア内戦の激化を受け、決議1973を全会一致で採択しました。
この決議では市民保護を理由に、空爆や資産凍結などの強制措置が許可されました。
フランスや英国を中心とするNATO軍によるリビア空爆は、この法的根拠を得て実施され、カダフィ政権への圧力が強化されました。
決議1973は人道的介入の是非を巡る国際的論争を再燃させ、人道的理由による武力行使の枠組みについて議論を呼びました。
同年8月末にはカダフィ政権が崩壊し、リビアは大きな転換期を迎えました。
2011年
国際連合安全保障理事会決議1973