1040年
クヌート大王の息子ハーデクヌーズがイングランド人の王に就任した。
1040年、コヌート大王の息子ハーデクヌーズがイングランド王に即位しました。
1040年3月17日、ハーデクヌーズはハロルド・ヘアフットの死去を受けてイングランド王に即位しました。
父クヌート大王の跡を継いだハーデクヌーズは、デンマークとイングランドの二重王国を統治。
在位中は重税政策や海賊対策に注力し、北海の支配権を維持しました。
しかし国内では領主層の反発や財政難が続き、わずか2年後の1042年に急死しました。
その後、イングランド王位はエドワード懺悔王に移りました。
1040年
クヌート大王
ハーデクヌーズ
イングランド人の王
1336年
イングランド王エドワード3世が長男エドワード黒太子のためにコーンウォール公を創設。イングランド初の公爵位。
1336年、エドワード3世がイングランド初の公爵位「コーンウォール公」を創設しました。
1336年3月17日、エドワード3世は長男エドワード黒太子のためにコーンウォール公爵位を新設しました。
これがイングランド王室で最初の公爵位の創設とされ、貴族制度の発展に大きな影響を与えました。
黒太子はこの称号を得て王太子としての地位を確固たるものとしつつ、百年戦争での指導的役割を担いました。
コーンウォール公爵位は以後、英王家において伝統的な王族称号として受け継がれています。
王権強化と貴族統制の一環としても位置づけられた出来事です。
称号創設は貴族制度の階層化を促進し、イングランド貴族社会に大きな影響を与えました。
1336年
エドワード3世
エドワード黒太子
コーンウォール公
1766年
イギリス議会がアメリカ植民地の印紙法を廃止。
1766年、イギリス議会が植民地課税の象徴だった印紙法を撤回しました。
1765年に制定された印紙法は、北アメリカ植民地で文書・新聞に課税し、植民地人の反発を招きました。
これに抗議する「代表なくして課税なし」を唱える運動が激化し、暴動やボイコットが発生。
結果として1766年3月17日、イギリス議会は印紙法を正式に廃止し、植民地との対立は一時緩和されました。
ただし同時に可決された「宣言法」により、議会の立法権は依然として主権的であることが示されました。
この一連の動きが後のアメリカ独立革命の遠因となりました。
1766年
イギリス議会
アメリカ植民地
印紙法
1801年
ヘンリー・アディントンがイギリスの第17代首相に就任。
1801年、ヘンリー・アディントンがイギリス第17代首相に任命されました。
1801年3月17日、ウィリアム・ピットに代わりヘンリー・アディントンが首相に就任しました。
在任中はナポレオン戦争下での和平交渉を進め、翌年のアミアンの和約締結に繋げました。
また国内では内政安定と財政再建に取り組み、一部の税制改革を実施しました。
しかし政権運営の限界や保守派との対立から支持を失い、1804年には再び退陣を余儀なくされました。
その後もアディントンは軽快な弁舌と軍事政策への示唆で知られました。
1801年
ヘンリー・アディントン
1805年
フランスの帝政移行に伴い、イタリア共和国で大統領ナポレオン・ボナパルトがイタリア王として即位し、イタリア王国に移行。
1805年、ナポレオンがイタリア共和国からイタリア王国へと君主制に移行しました。
1805年3月17日、ナポレオン・ボナパルトはイタリア共和国大統領の地位からイタリア王に即位しました。
これによりフランスの傀儡国家であったイタリア共和国は王国として再編され、ナポレオン家の支配が強化。
首都ミラノを中心に行政制度が整備され、中央集権的統治が推進されました。
イタリア王国の成立はナポレオン戦争下のヨーロッパ地政学を大きく変え、イタリア統一運動の前史ともなりました。
王国は1814年のナポレオン失脚まで存続しました。
1805年
イタリア共和国
ナポレオン・ボナパルト
イタリア王国
万延元年2月26日
福澤諭吉、勝海舟らが乗船する咸臨丸が、サンフランシスコに入港。
1860年、幕府の遣米使節を乗せた咸臨丸がサンフランシスコに初入港しました。
万延元年(1860年)2月26日、幕府遣米使節団を乗せた軍艦咸臨丸がサンフランシスコ湾に到着しました。
船長勝海舟、通訳福澤諭吉らが同行し、条約批准のための使節団として派遣されました。
蒸気船による太平洋横断は世界的にも珍しい試みで、日本初の実績となりました。
欧米列強の技術力を目の当たりにした一行は、その後の日本の近代化や留学、海外視察に大きな影響を受けました。
帰国後、福澤は『米欧回覧実記』で航海記を紹介し、多くの日本人の海外志向を促しました。
1860年
万延
2月26日
福澤諭吉
勝海舟
咸臨丸
サンフランシスコ
1861年
サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王国成立を宣言。
1861年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア統一を宣言し、王国が成立しました。
1861年3月17日、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はトリノでイタリア王国成立を正式に宣言しました。
これによりリソルジメント(イタリア統一運動)の成果が結実し、複数の小国や公国が統合されました。
首相カヴールの外交戦略とガリバルディの軍事行動が統一の原動力となりました。
新王国は首都をトリノに置き、近代的な行政・法体系を整備し、欧州列強の均衡に新たな影響を与えました。
この統一は19世紀ヨーロッパにおけるナショナリズムの象徴的出来事です。
1861年
サルデーニャ王
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
イタリア王国
1876年
太政官指令により、「婦女は結婚してもなお所生の氏(婚姻前の氏)を用いること」、すなわち夫婦別姓が原則とされた。(日本の制度が夫婦同姓に転換するのは1898年の民法制定による。)
1876年の太政官指令で、結婚後も婚姻前の氏を名乗る「夫婦別姓」が原則とされた。
明治9年(1876年)3月17日、太政官指令により婚姻後も妻が出生時の氏を使用することが原則とされました。
当時は家制度の刷新やジェンダー平等の理念のもと、夫婦同氏強制を見直す動きがありました。
しかし、1898年(明治31年)の民法制定で再び夫婦同氏が原則とされ、夫婦別姓の規定は廃止されました。
近代日本の家族制度や女性の法的地位をめぐる議論の先駆けとして意義深い法的措置でした。
今日でも夫婦別姓問題は議論の的となっています。
1876年
夫婦別姓
1898年
1880年
愛国社第四大会で、愛国社を改称して国会期成同盟が成立。
愛国社第四大会で組織名を改め、国会期成同盟が結成され、憲政開拓運動が本格化した。
1880年(明治13年)3月17日、自由民権運動の国民的組織であった愛国社が国会期成同盟に改称されました。
この同盟は国会開設を政府に要請するために結成され、全国に支部を拡大していきました。
国会開設運動は地方有力者や知識人を巻き込み、政治参加意識を高める大きな契機となりました。
国会期成同盟の活動は明治政府に強い圧力をかけ、1881年の国会開設勅諭につながりました。
近代日本の民主主義成立過程において重要な一歩とされています。
1880年
愛国社
国会期成同盟
1931年
ネバダ州で賭博が合法化。
1931年、アメリカ・ネバダ州で賭博が合法化され、後のラスベガス発展の礎を築いた。
1931年3月17日、ネバダ州政府は州内での賭博行為を合法化する法律を成立させました。
大恐慌下で財政難にあえぐ同州は、新たな産業育成と税収確保を目的として賭博解禁に踏み切りました。
これによりカジノ産業が急速に発展し、ラスベガスは世界有数のギャンブル都市へと成長しました。
今日の観光産業の基盤を築いた歴史的決断であり、地域経済の活性化に大きく貢献しました。
賭博合法化は現代のカジノ文化の起源としても知られています。
1931年
ネバダ州
1948年
ベネルクス3国とイギリス・フランスの間にNATOの前身となるブリュッセル条約が調印される。
1948年3月17日、ベルギー・オランダ・ルクセンブルクとイギリス・フランスがブリュッセル条約を調印し、西欧の安全保障協力の基盤を築きました。
第二次世界大戦後、東西冷戦の緊張が高まる中で結ばれた条約です。
ブリュッセル条約は5か国による相互防衛を規定し、集団安全保障の枠組みを確立。
加盟国はいずれかが攻撃された際に共同行動を取ることを誓約しました。
この協定は後にNATO創設の礎となり、欧米同盟の発展に大きく寄与。
冷戦期の西側陣営強化に向けた重要な一歩となりました。
1948年
ベネルクス3国
イギリス
フランス
NATO
ブリュッセル条約
1950年
インドのジャワハルラール・ネルー首相が、米ソどちらの陣営に属さない非同盟外交を声明。
1950年3月17日、インドの初代首相ネルーが、米ソ両大国どちらにも加わらない非同盟外交の方針を宣言しました。
インド独立後の冷戦構造の中で、ネルーは強大国に依存しない独立した外交を志向。
同日、国際連合演説で米ソどちらにも与しない立場を表明しました。
この方針は後の「非同盟運動(NAM)」の原型となります。
多くの新興独立国家が続いて同様の立場を採り、第三世界の連帯を強化。
独立国の自主性を追求する運動として国際舞台で影響力を持つに至りました。
1950年
ジャワハルラール・ネルー