紀元前45年
ローマ内戦: ムンダの戦い。
ローマ内戦の最終局面、ムンダの戦いが行われ、ユリウス・カエサルが共和派軍を打ち破りました。
紀元前45年3月17日、スペイン南部のムンダ近郊で発生したローマ内戦最後の大規模戦闘です。
この戦いでジュリアス・カエサルはポンペイウス派の将軍ティトゥス・ラビエヌスらを破り、共和派の抵抗を壊滅させました。
カエサルにとっては内戦決着の象徴的勝利となり、独裁政治の基盤を固めました。
戦闘は激戦となり、多くの兵士が戦死しましたが、カエサルの戦術的手腕が光った合戦でもありました。
この勝利によりローマ共和国は事実上終焉を迎え、帝政への道が開かれました。
紀元前45年
ローマ内戦
ムンダの戦い
1040年
クヌート大王の息子ハーデクヌーズがイングランド人の王に就任した。
1040年、コヌート大王の息子ハーデクヌーズがイングランド王に即位しました。
1040年3月17日、ハーデクヌーズはハロルド・ヘアフットの死去を受けてイングランド王に即位しました。
父クヌート大王の跡を継いだハーデクヌーズは、デンマークとイングランドの二重王国を統治。
在位中は重税政策や海賊対策に注力し、北海の支配権を維持しました。
しかし国内では領主層の反発や財政難が続き、わずか2年後の1042年に急死しました。
その後、イングランド王位はエドワード懺悔王に移りました。
1040年
クヌート大王
ハーデクヌーズ
イングランド人の王
1336年
イングランド王エドワード3世が長男エドワード黒太子のためにコーンウォール公を創設。イングランド初の公爵位。
1336年、エドワード3世がイングランド初の公爵位「コーンウォール公」を創設しました。
1336年3月17日、エドワード3世は長男エドワード黒太子のためにコーンウォール公爵位を新設しました。
これがイングランド王室で最初の公爵位の創設とされ、貴族制度の発展に大きな影響を与えました。
黒太子はこの称号を得て王太子としての地位を確固たるものとしつつ、百年戦争での指導的役割を担いました。
コーンウォール公爵位は以後、英王家において伝統的な王族称号として受け継がれています。
王権強化と貴族統制の一環としても位置づけられた出来事です。
称号創設は貴族制度の階層化を促進し、イングランド貴族社会に大きな影響を与えました。
1336年
エドワード3世
エドワード黒太子
コーンウォール公
1766年
イギリス議会がアメリカ植民地の印紙法を廃止。
1766年、イギリス議会が植民地課税の象徴だった印紙法を撤回しました。
1765年に制定された印紙法は、北アメリカ植民地で文書・新聞に課税し、植民地人の反発を招きました。
これに抗議する「代表なくして課税なし」を唱える運動が激化し、暴動やボイコットが発生。
結果として1766年3月17日、イギリス議会は印紙法を正式に廃止し、植民地との対立は一時緩和されました。
ただし同時に可決された「宣言法」により、議会の立法権は依然として主権的であることが示されました。
この一連の動きが後のアメリカ独立革命の遠因となりました。
1766年
イギリス議会
アメリカ植民地
印紙法
1801年
ヘンリー・アディントンがイギリスの第17代首相に就任。
1801年、ヘンリー・アディントンがイギリス第17代首相に任命されました。
1801年3月17日、ウィリアム・ピットに代わりヘンリー・アディントンが首相に就任しました。
在任中はナポレオン戦争下での和平交渉を進め、翌年のアミアンの和約締結に繋げました。
また国内では内政安定と財政再建に取り組み、一部の税制改革を実施しました。
しかし政権運営の限界や保守派との対立から支持を失い、1804年には再び退陣を余儀なくされました。
その後もアディントンは軽快な弁舌と軍事政策への示唆で知られました。
1801年
ヘンリー・アディントン
1805年
フランスの帝政移行に伴い、イタリア共和国で大統領ナポレオン・ボナパルトがイタリア王として即位し、イタリア王国に移行。
1805年、ナポレオンがイタリア共和国からイタリア王国へと君主制に移行しました。
1805年3月17日、ナポレオン・ボナパルトはイタリア共和国大統領の地位からイタリア王に即位しました。
これによりフランスの傀儡国家であったイタリア共和国は王国として再編され、ナポレオン家の支配が強化。
首都ミラノを中心に行政制度が整備され、中央集権的統治が推進されました。
イタリア王国の成立はナポレオン戦争下のヨーロッパ地政学を大きく変え、イタリア統一運動の前史ともなりました。
王国は1814年のナポレオン失脚まで存続しました。
1805年
イタリア共和国
ナポレオン・ボナパルト
イタリア王国
1830年
フレデリック・ショパンがワルシャワの演奏会で『ピアノ協奏曲第2番』を演奏。
1830年、ショパンがワルシャワで『ピアノ協奏曲第2番』を初演しました。
1830年3月17日、当時20歳のフレデリック・ショパンはワルシャワのサロンで自作のピアノ協奏曲第2番を演奏。
この曲は彼の故郷ポーランドへの郷愁を込めた旋律と華麗な技巧が特徴で、高い評価を受けました。
正式な公開演奏会ではなかったものの、彼の演奏才能と作曲家としての地位を確固たるものにした出来事です。
ショパンはこの後すぐにポーランドを離れ、パリへと旅立ちますが、本作は後に広く演奏され続けています。
若き日の傑作として、今日でも人気の高いレパートリーです。
1830年
フレデリック・ショパン
ピアノ協奏曲第2番
安政6年2月13日
壱岐の漁師53人が「春一番」で遭難する。
1859年、壱岐島沖で春一番の暴風雨により漁師53人が遭難しました。
安政6年(1859年)2月13日、春一番と称される強風を伴う季節風が九州西岸を襲いました。
この暴風雨の中、壱岐島の漁師たち53人が出漁し、帰港できずに遭難しました。
幕府による救援は難航し、多くの遺体や漂流物が翌月以降に発見されました。
この惨事は当時の海難対策や気象観測の未熟さを浮き彫りにし、後の航海安全策強化の契機となりました。
漁村の悲嘆と復興の物語として、地域史に深く刻まれています。
1859年
安政
2月13日
万延元年2月26日
福澤諭吉、勝海舟らが乗船する咸臨丸が、サンフランシスコに入港。
1860年、幕府の遣米使節を乗せた咸臨丸がサンフランシスコに初入港しました。
万延元年(1860年)2月26日、幕府遣米使節団を乗せた軍艦咸臨丸がサンフランシスコ湾に到着しました。
船長勝海舟、通訳福澤諭吉らが同行し、条約批准のための使節団として派遣されました。
蒸気船による太平洋横断は世界的にも珍しい試みで、日本初の実績となりました。
欧米列強の技術力を目の当たりにした一行は、その後の日本の近代化や留学、海外視察に大きな影響を受けました。
帰国後、福澤は『米欧回覧実記』で航海記を紹介し、多くの日本人の海外志向を促しました。
1860年
万延
2月26日
福澤諭吉
勝海舟
咸臨丸
サンフランシスコ
1861年
サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王国成立を宣言。
1861年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア統一を宣言し、王国が成立しました。
1861年3月17日、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はトリノでイタリア王国成立を正式に宣言しました。
これによりリソルジメント(イタリア統一運動)の成果が結実し、複数の小国や公国が統合されました。
首相カヴールの外交戦略とガリバルディの軍事行動が統一の原動力となりました。
新王国は首都をトリノに置き、近代的な行政・法体系を整備し、欧州列強の均衡に新たな影響を与えました。
この統一は19世紀ヨーロッパにおけるナショナリズムの象徴的出来事です。
1861年
サルデーニャ王
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
イタリア王国
元治2年2月12日
長崎の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪れ、信者であると告げる。
江戸時代の禁教令下で潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪れ、自らの信仰を告白した歴史的瞬間。
長崎の大浦天主堂は、1859年に完成した日本初の西洋式カトリック教会です。
長年禁教政策により地下に潜伏していたキリシタンが、1865年3月17日に一斉に訪れ信者であることを告白しました。
この出来事は幕府や明治政府に対してキリスト教存在証明となり、後の宗教弾圧の緩和に繋がりました。
潜伏キリシタンの存在が公に認識されたことは、日本の宗教史における大きな転換点です。
また、閉ざされていた異文化交流が再び注目される契機ともなりました。
1865年
元治
2月12日
潜伏キリシタン
大浦天主堂
明治2年2月5日
大阪に造幣局が設置される。
明治政府の近代貨幣制度整備の一環として、1869年に大阪に造幣局が設置された。
大阪造幣局は明治2年(1869年)3月17日に設立され、日本の近代的な貨幣鋳造の中心拠点となりました。
それまで各藩が独自に貨幣を発行していた制度を統一し、国家統一通貨を導入する重要な役割を担いました。
当初は欧米の技術を取り入れた鋳造機械や製造技術を導入し、品質の高い硬貨を生産しました。
造幣局の設立は、日本の産業近代化や国際信用向上にも大きく貢献しました。
現在も「桜の通り抜け」で知られる大阪造幣局は歴史的遺産として保存されています。
1869年
明治
2月5日
大阪
造幣局