紀元前597年

新バビロニア王国がエルサレムを征服、エホヤキンに代えてゼデキヤを王に。(バビロン捕囚)

新バビロニア王国がエルサレムを征服し、ユダ王国の王位を交代させた事件。
紀元前597年、新バビロニア王国のネブカドネザル2世がエルサレムを攻略し、 ユダ王国の王エホヤキンを捕らえ、甥ゼデキヤを王位に据えた。 この征服によりバビロン捕囚が始まり、多数のユダヤ人がバビロンへ連行された。 バビロン捕囚はユダヤ人の歴史と文化に大きな影響を与え、 以後の宗教的・社会的構造に変化をもたらした。 この事件は中東の勢力図を塗り替える重要な転機とされる。
紀元前597年 新バビロニア王国 エルサレム エホヤキン ゼデキヤ バビロン捕囚
37年

カリグラがローマ皇帝に即位。

37年、カリグラがローマ帝国第3代皇帝に即位した。
カリグラ(ガイウス・カエサル・ゲルマニクス)はティベリウス帝の後を継いで即位した。 その正式即位は公元37年3月16日に行われたとされる。 当初は人気を博したものの、独裁的な言動と浪費が目立ち、 わずか4年間の在位で暗殺されるという波乱の皇帝像を残した。 彼の治世はローマ帝国内部の緊張と陰謀劇を象徴している。
37年 カリグラ ローマ皇帝
神亜元年2月12日

長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害。

729年、謀反の疑いをかけられた長屋王が自害した。
奈良時代の皇族である長屋王(ながやおう)は聖武天皇の弟にあたる有力者であった。 神亜元年(729年)2月12日、藤原四兄弟の陰謀により謀反の疑いをかけられ、 自邸を包囲された末に自害を余儀なくされた。 この事件は藤原氏の勢力拡大を決定づけ、以後の朝廷政治に大きな影響を与えた。 長屋王の死後、彼に関連する多くの貴族が罰せられ、藤原氏による摂関政治が加速した。
729年 神亜 2月12日 長屋王
1660年

イングランドで長期議会が解散。4月25日に仮議会が開会。

1660年、イングランド長期議会が解散され、仮議会が開かれた。
長期議会(Long Parliament)は清教徒革命の中心的立法機関として機能していた。 チャールズ1世処刑後の共和制時代を経て、1660年3月16日にこの議会が正式に解散された。 その後、同年4月25日にチャールズ2世復位に向けた仮議会(Convention Parliament)が招集された。 この動きはイングランド王政復古の実現に向けた政治的転換点とされる。 王政復古後、議会と王権の関係は再編成され、近代イギリス議会政治の基礎が形成された。
1660年 イングランド 長期議会 4月25日 仮議会
1754年

ニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズがイギリスの第4代首相に就任。

1754年、トマス・ペラム=ホールズがイギリス第4代首相に就任した。
トマス・ペラム=ホールズ(ニューカッスル公爵)はホイッグ党の有力政治家であった。 1754年3月16日、彼はイギリスの第4代首相に就任し、その任期は1756年まで続いた。 在任中は七年戦争への対応や財政政策の調整に取り組み、 王権と議会のバランスを巡る問題に直面した。 彼のリーダーシップは後のイギリス政党政治の発展にも影響を与えた。
1754年 トマス・ペラム=ホールズ イギリス 首相
1792年

グスタフ3世暗殺事件: スウェーデン王グスタフ3世が銃撃される。3月29日に死亡。

1792年、スウェーデン王グスタフ3世が暗殺される事件が発生。
グスタフ3世は啓蒙専制君主として知られ、国内外で功績を残した一方で貴族との対立を深めた。 1792年3月16日、マスカレード舞踏会で貴族アンクァーストレーム伯爵らの陰謀により背後から銃撃された。 重傷を負った彼は約2週間後の3月29日にこの世を去った。 この暗殺はスウェーデン国内に大きな衝撃を与え、政局に混乱をもたらした。 以後、スウェーデンの政治構造にも影響を与えた重要な事件として語り継がれている。
1792年 グスタフ3世暗殺事件 英語版 スウェーデン グスタフ3世 3月29日
1815年

ウィレム1世がネーデルラント連合王国(オランダ)の初代国王に即位。

1815年、ウィレム1世がネーデルラント連合王国(現オランダ)の初代国王に即位。 ナポレオン戦争後の欧州再編を象徴する歴史的瞬間です。
1815年3月16日、ナポレオン戦争後の欧州再編に伴いウィレム1世が新国家の王位を宣誓。 オラニエ=ナッサウ家出身の彼は同年10月にベルギーを併合し、ネーデルラント連合王国を拡大。 国内では行政・法制度の整備に着手し、近代国家の基盤を築いた。 しかし1830年のベルギー独立運動により領土の一部を喪失。 ウィレム1世は1840年に退位し、息子ウィレム2世に王位を譲った。 この即位は現代オランダ王国の起源ともいえる重要な出来事です。
1815年 ウィレム1世 ネーデルラント連合王国 オランダ
1921年

英ソ通商協定締結。ソ連が英国との通商関係を開く。

1921年、英ソ通商協定が締結され、ソビエト連邦とイギリスが正式に通商関係を確立しました。
第一次世界大戦とロシア革命後、ソ連は国際的孤立からの脱却を模索。 1921年3月16日、ロンドンで英ソ通商協定に調印し、英国はソ連を貿易相手として公式承認。 これによりソ連は資源や工業製品の輸出入を活性化させた。 協定は両国間の政治的緊張緩和にも寄与。 国際共産主義勢力との関係改善を図る足がかりとなった。 両国関係の新時代を開いた歴史的合意です。
1921年
1935年

アドルフ・ヒトラーが、ドイツがヴェルサイユ条約を破棄し、再軍備すると宣言。(ドイツ再軍備宣言)

ヒトラーがヴェルサイユ条約の破棄とドイツ再軍備を宣言しました。
1935年3月16日、ドイツ首相アドルフ・ヒトラーはヴェルサイユ条約による軍備制限を一方的に破棄し、再軍備を行うと宣言しました。 第一次世界大戦後のドイツは軍備を国際的に制限されていたものの、ヒトラー政権はこれを否定し、徴兵制を復活させました。 この宣言は国際連盟や主要国を驚かせ、欧州の軍事バランスを大きく揺るがしました。 ドイツ国内では軍需産業の再興と雇用創出に寄与した一方、周辺国との緊張を高め、後の第二次世界大戦開戦への伏線となりました。 歴史的に見ても国際秩序の崩壊と独裁政治の拡大を象徴する出来事です。
1935年 アドルフ・ヒトラー ドイツ ヴェルサイユ条約 再軍備 ドイツ再軍備宣言
1938年

衆議院本会議の国家総動員法案賛成演説で社会大衆党議員の西尾末広が「スターリンの如く大胆に」と発言。他党から問題視され、議員除名が決議される。

国家総動員法案賛成演説で「スターリンの如く大胆に」と発言し、議員除名処分となりました。
1938年3月16日、衆議院本会議にて国家総動員法案審議中、社会大衆党の西尾末広議員が演説で「スターリンの如く大胆に国家総動員を進めるべきだ」と発言しました。 他党からは独裁的な発言として問題視され、議院運営委員会で除名決議が可決されました。 国家総動員法は軍需や労働力の総動員を定める法律であり、当時の統制経済体制を強化する重要法案でした。 西尾議員の発言は議会での自由な言論と統制主義の対立を象徴し、治安維持と政治風土の変化を示す事件として記憶されています。 この除名処分は戦時下の言論統制の一端を示す出来事でもありました。
1938年 国家総動員法 社会大衆党 西尾末広 スターリン 議員除名
1950年

徳田要請問題で、日本共産党書記長である徳田球一が衆議院の証人喚問を受ける。

日本共産党書記長の徳田球一が証人喚問を受け、政治的論争が激化しました。
1950年3月16日、いわゆる徳田要請問題を巡り、日本共産党書記長・徳田球一が衆議院で証人喚問を受けました。 この問題は党幹部が中国共産党とのつながりを要請した疑惑であり、保守勢力から激しい非難を浴びました。 証人喚問で徳田は自らの行動を正当化しつつ、共産党の立場を訴えました。 占領下の日本政治における共産党の扱いや冷戦構造の影響を示す象徴的な出来事となりました。 この後、共産党への弾圧強化を背景に日本政治の分断が深まっていきました。
1950年 徳田要請問題 日本共産党書記長 徳田球一 衆議院 証人喚問
1976年

イギリスの首相ハロルド・ウィルソンが病気により辞任。

1976年3月16日、イギリスのハロルド・ウィルソン首相が病気を理由に辞任。
ハロルド・ウィルソンは1964年から1970年、1974年から1976年の2期にわたりイギリス首相を務めた。 1976年3月16日、慢性的な疲労と健康不安を理由に突如辞意を表明した。 その理由には潰瘍性大腸炎や心理的ストレスが指摘されている。 辞任後は貴族院に移り、政治的影響力を維持した。 彼の退陣は労働党内の世代交代と指導力の再構築を促す契機となった。
1976年 ハロルド・ウィルソン