紀元前44年

ガイウス・ユリウス・カエサルがマルクス・ユニウス・ブルートゥスらに暗殺される。

古代ローマの独裁官ユリウス・カエサルが元老院で共和派の刺客に襲われ、命を落とした歴史的事件です。
紀元前44年(ユリウス暦)3月15日、ローマ元老院の会議場でガイウス・ユリウス・カエサルがマルクス・ユニウス・ブルートゥスら共和派の暗殺者たちに襲撃されました。 彼は胸部など少なくとも23箇所を刺され、その場で絶命しました。 この事件はローマ帝政成立への過程として語られ、共和政崩壊の象徴となりました。 「イドゥスの15日」として後世に名言を残し、西洋政治思想にも大きな影響を与えました。 暗殺者たちは自由の回復を掲げたが、実際には内戦を招く結果となりました。
紀元前44年 ガイウス・ユリウス・カエサル マルクス・ユニウス・ブルートゥス 暗殺 英語版
1564年

ムガル帝国皇帝アクバルが非ヒンドゥー教徒に対するジズヤ(人頭税)の徴収を廃止。

ムガル帝国アクバル帝が宗教寛容を掲げ、非ヒンドゥー教徒への人頭税を廃止した政策です。
1564年3月15日、ムガル帝国のアクバル帝は非ヒンドゥー教徒に科される人頭税ジズヤを廃止しました。 この改革は異宗教間の寛容を掲げ、帝国内のヒンドゥー教徒やジャイナ教徒との融和を図る狙いがありました。 アクバルは宗教顧問会議を設置し、多宗教共存政策を進めました。 ジズヤ廃止後、ムガル帝国は政治的統合を強め、繁栄期を迎えました。 この政策は後のインド統治における寛容政策の先例となりました。
1564年 ムガル帝国 アクバル ジズヤ 人頭税
享保2年2月3日

徳川吉宗が大岡忠相を江戸南町奉行に登用する。

江戸幕府8代将軍徳川吉宗が名裁判官大岡忠相を南町奉行に抜擢した人事です。
享保2年(1717年)3月15日、江戸幕府8代将軍徳川吉宗は大岡忠相を南町奉行に任命しました。 大岡忠相こと大岡忠政は、公正な裁判と行政改革で評判を博した人物です。 彼の裁判記録『三方一両損』などは庶民の信頼を集め、後世に伝説となりました。 吉宗の登用は幕政改革の一環で、幕府の統治能力向上を目的としていました。 大岡忠相は後に老中格に昇進し、享保の改革を支える重臣となりました。
1717年 享保 2月3日 徳川吉宗 大岡忠相 江戸南町奉行
文化3年1月26日

江戸幕府が文化の薪水給与令(撫恤令)を出す。

江戸幕府が旗本・御家人への薪水給与令を発布し、下級武士の扶助制度を整備しました。
文化3年(1806年)3月15日、江戸幕府は薪水給与令を発布しました。 この撫恤令は旗本や御家人の家禄不足を補うため、薪や水の代金を支給する制度です。 財政難の中でも下級武士層の生活安定を図り、幕政改革の一環として実施されました。 運用後は生活支援策として一定の成果を上げましたが、財政負担も増大しました。 この制度は幕末まで継続され、武士階級の維持に寄与しました。
1806年 文化 1月26日 江戸幕府 薪水給与令
1820年

ミズーリ妥協: マサチューセッツ州メイン地区が独立してアメリカ合衆国23番目の州・メイン州となる。

ミズーリ妥協の一環でメイン地区が独立し、合衆国第23州メイン州として承認されました。
1820年3月15日、マサチューセッツ州のメイン地区が独立して合衆国第23州メイン州として認められました。 この措置はミズーリ妥協の一環であり、奴隷制を容認するミズーリ州とのバランスを取る狙いがありました。 メイン州の州昇格により自由州と奴隷州の均衡が維持されました。 ミズーリ妥協は南北戦争前夜の奴隷制論争に大きな影響を与えました。 この妥協はその後の領土拡大と奴隷制問題の深刻化を予兆しました。
1820年 ミズーリ妥協 マサチューセッツ州 メイン地区 アメリカ合衆国 メイン州
1916年

ウッドロウ・ウィルソン米大統領がパンチョ・ビリャ討伐のためジョン・パーシング将軍指揮下遠征部隊12,000人をメキシコに派遣。

ウィルソン大統領がメキシコへの遠征部隊を派遣し、パンチョ・ビリャ討伐を開始した日。
1916年3月15日、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは、騎兵隊を含む約12,000人の遠征部隊をメキシコへ派遣しました。 これはパンチョ・ビリャ一味によるニューメキシコ州コロンバス襲撃への報復措置であり、「ビリャ討伐遠征」と呼ばれます。 遠征軍はジョン・パーシング将軍の指揮下、約9か月にわたりメキシコ北部を捜索しましたが、ビリャの捕縛には至りませんでした。 この介入は米墨関係に緊張をもたらし、米国のラテンアメリカ政策への批判を招きました。 最終的に1917年初頭に撤退し、アメリカ軍の海外展開の転機ともなりました。
1916年 ウッドロウ・ウィルソン パンチョ・ビリャ ジョン・パーシング
ユリウス暦3月2日

ロシア革命:ロシア皇帝ニコライ2世が退位。

ロシア皇帝ニコライ2世が退位し、ロマノフ朝の統治が終焉を迎えた日。
1917年3月15日(ユリウス暦3月2日)、第二次ロシア革命(2月革命)によりニコライ2世が退位を余儀なくされました。 これは第一次世界大戦中の食糧不足や戦線の失敗に対する民衆の不満が爆発した結果です。 退位後、ロマノフ王朝は318年にわたる継続を終え、臨時政府が樹立されました。 臨時政府は立憲君主制の継続を図りましたが、社会主義勢力の台頭により同年秋の十月革命へとつながっていきます。 この出来事はロシア帝政の終焉とソビエト国家の成立への序章となりました。
1917年 ユリウス暦 3月2日 ロシア革命 ニコライ2世
1922年

エジプト王国のファード1世が、イギリスから条件付きで独立したエジプトの国王に即位。

ファード1世が条件付き独立を果たしたエジプト王国の初代国王に即位した日。
1922年3月15日、エジプト王国のファード1世がイギリスからの条件付き独立を経て即位しました。 1914年以降、イギリスの保護領であったエジプトは、第一次世界大戦後の民族運動の高まりを受けて独立を要求しました。 イギリスは内政干渉を残す形で独立を承認し、ファード1世が王位に就くことで短期的な政治的安定を図りました。 しかし軍事基地の維持や外交権の制限など英権は依然として強く、完全独立への道のりは続きました。 この即位はエジプトの近代国家形成とアラブ世界の民族主義運動に大きな影響を与えました。
1922年 エジプト王国 ファード1世 イギリス 独立
1928年

三・一五事件。

日本政府が左翼活動家を一斉摘発した「三・一五事件」が発生した日。
1928年3月15日、日本の政党や政府は共産党員や労働運動家に対する大規模な弾圧を実施しました。 この摘発は「三・一五事件」と呼ばれ、検挙者数は約1,600人に上ります。 背景には治安維持法の強化と共産主義への警戒感があり、社会主義運動の抑圧が狙いでした。 多くの活動家が検挙・送検され、左翼運動は一時的に壊滅的な打撃を受けました。 この事件は日本の政治体制と市民運動の関係を象徴し、戦前の統制政治を象徴する出来事となりました。
1928年 三・一五事件
1939年

チェコスロバキア併合: ナチス・ドイツがベーメン・メーレン保護領を設置。チェコスロバキアが消滅。

ナチス・ドイツがベーメン・メーレン保護領を設立し、チェコスロバキアが消滅した重大な歴史的転換点です。
1939年3月15日、ヒトラー率いるナチス・ドイツはチェコスロバキアを完全に併合し、ボヘミアとモラヴィアを保護領として編入しました。 この行動によって第一次世界大戦後に成立したチェコスロバキア共和国は解体され、独立国家としての地位を失いました。 保護領政府には親ドイツ派の政治家が据えられ、ドイツの軍事的・経済的支配が強化されました。 この併合は国際連盟や英仏の抑止力の脆弱さを露呈し、第二次世界大戦開戦の引き金の一つとなりました。 住民の抵抗や迫害が激化し、多くのユダヤ人や反ナチス派が弾圧の対象となりました。
1939年 チェコスロバキア併合 ナチス・ドイツ ベーメン・メーレン保護領 チェコスロバキア
1939年

全国の招魂社を護国神社に改称。

全国の招魂社が護国神社に改称され、戦没者追悼の象徴としての役割が強化されました。
招魂社は明治期に設立された戦没者を祀る神社で、戦争遂行の精神的支柱とされてきました。 1939年3月15日、政府は全国の招魂社を一斉に護国神社と改称し、その名称と権威を統一しました。 護国神社の名称は国を護るという意味を明確に打ち出し、国家神道を背景に軍国主義的な色彩を強める狙いがありました。 改称後は戦没者追悼の儀式や行事が各地で盛んに行われ、国民の忠誠心や戦意を高める役割を果たしました。
招魂社 護国神社
1947年

東京都35区制から22区制に変更(同年8月1日に練馬区追加で23区制)。

東京都の区制が35区から23区へ再編され、大都市東京の行政区画が確立しました。
戦後の都市再編の一環として、1947年3月15日に東京都は35区制を廃止し22区制に再編する法令を施行しました。 同年8月1日には練馬区が追加され、現在の23区制の基礎が築かれました。 区割りの見直しは人口分布や都市計画を踏まえ、行政効率の向上を目的として行われました。 新たな区制により、住民サービスの均等化や地域自治の発展が期待されました。 この再編は戦後東京の急速な成長に対応するための重要な一歩とされています。
1947年 練馬区