永嘉7年2月1日

永嘉の乱: 漢の捕虜となった西晋の皇帝・懐帝が漢の皇帝・劉聡により処刑される。

西晋最後の皇帝・懐帝が漢(後趙)の劉聡に捕らえられ、処刑された歴史的事件です。
永嘉の乱は、西晋末期の混乱の中で起こった華北民族の叛乱です。 この乱により都・洛陽が陥落し、懐帝は捕虜となって後趙に連行されました。 313年3月14日、懐帝は後趙の皇帝劉聡によって処刑され、西晋の実質的な終焉を迎えます。 この事件は「八王の乱」後の権力空白を埋める形となり、十六国時代の幕開けともいわれます。 結果として華北地域では諸民族の割拠が進み、南北朝時代への序章となりました。
313年 永嘉 2月1日 永嘉の乱 西晋 懐帝 劉聡
1915年

第一次世界大戦: ドイツ海軍の巡洋艦「ドレスデン」がチリ沖でイギリス海軍の攻撃を受け沈没する。

第一次世界大戦中、ドイツ巡洋艦ドレスデンがチリ沖でイギリス艦隊により撃沈されました。
1915年3月14日、第一次世界大戦の海戦で、ドイツ海軍の軽巡洋艦SMSドレスデンがチリ沖にてイギリス海軍艦隊からの攻撃を受けました。 ドレスデンは補給のため中立国チリの港を離れた直後で、防御態勢が整わないまま砲撃を受けたといわれます。 艦は大破し沈没、乗組員は近隣船舶に救助され一部が捕虜となりました。 この戦闘は南米沖海域での戦力削減を狙う連合国側の作戦の一環でした。 ドイツ海軍にとっては大きな戦果損失とみなされました。
1915年 第一次世界大戦 ドイツ海軍 巡洋艦 ドレスデン イギリス海軍
1939年

チェコスロバキア併合: ナチス・ドイツによってチェコスロバキアが解体され、スロバキアが独立宣言。

ナチス・ドイツがチェコスロバキアを併合し、スロバキアが独立を宣言して国家が解体された。
1939年3月14日、ナチス・ドイツはチェコスロバキアを完全に併合し、保護国から直接支配へと移行させました。 同時にスロバキアは独立を宣言し、ドイツ傀儡政権として承認されています。 この一連の動きは1938年のミュンヘン協定以降の段階的占領の最終段階と位置づけられます。 チェコ側の領土は「ボヘミア・モラヴィア保護領」として組み込まれ、多くの国民がナチス支配下に置かれました。 中欧情勢の緊張が一層高まり、第二次世界大戦開戦への布石ともなりました。
1939年 チェコスロバキア併合 チェコスロバキア スロバキア
1943年

第二次世界大戦: クラクフ・ゲットーの全住民が強制収容所へ移送もしくは殺害され、ゲットーが解体。

クラクフ・ゲットーの全住民が強制収容所へ移送または殺害され、ゲットーが解体された。
1943年3月14日、ポーランドのクラクフ・ゲットーに残された全住民が強制収容所への移送または殺害の対象となり、ゲットーは解体されました。 このジェノサイドはホロコーストの一環であり、多くのユダヤ人が命を奪われる悲劇的な出来事です。 ゲットーは1941年に設立され、最盛期には数万人が強制的に収容されていました。 解体後、生存者の多くはプワシュワ強制収容所などへ送られ、過酷な労働を強いられました。 歴史家はこの事件をナチス占領政策の極限的な残虐性を示す例として挙げています。
1943年 第二次世界大戦 クラクフ・ゲットー
1945年

第二次世界大戦: イギリス空軍の第617中隊がグランドスラム爆弾を初めて使用し、ドイツのビーレフェルト鉄橋の2箇所の目標を破壊。

英国空軍第617中隊が史上最大級爆弾グランドスラムを初使用し、ドイツのビーレフェルト鉄橋を破壊した。
1945年3月14日、イギリス空軍第617中隊(いわゆる『ドゥームズデー中隊』)は、世界最大の爆撃用爆弾『グランドスラム』を初投入しました。 重量約10トンに及ぶこの爆弾は、爆弾学者バーナード・ウォリスが設計し、トンネルや鉄橋など硬質目標の破壊を目的としていました。 目標となったドイツのビーレフェルト鉄橋は2箇所で決定的な損壊を受け、輸送路を一時断絶しました。 この作戦は戦術爆撃の新たな可能性を示し、爆撃技術の進歩を象徴する出来事となりました。 同中隊はこの成功により、その後も高精度の特殊爆撃任務を数多く遂行しました。
1945年 イギリス空軍 第617中隊 グランドスラム爆弾 ビーレフェルト
1951年

朝鮮戦争: 国連軍がソウルを再奪回。

朝鮮戦争で国連軍が激戦の末ソウルを再奪回した重要な局面です。
1951年3月14日、朝鮮戦争において国連軍(主にアメリカ軍と韓国軍)が激しい市街戦を経てソウルを奪還しました。占領以来、約9か月ぶりの奪還でした。これにより戦局は膠着状態となり、38度線付近での戦線維持へと移行しました。ソウル奪回は韓国国民の士気を大いに高め、国際社会の支援意志を強固にしました。戦争の帰趨を左右する転機として歴史に刻まれています。
1951年 朝鮮戦争 国連軍 ソウル
1975年

中核派書記長内ゲバ殺人事件。

1975年3月14日、日本の極左組織「中核派」の書記長が内部抗争により殺害された事件。
1975年3月14日、過激派組織「中核派」の内部対立が激化し、書記長が何者かによって殺害される事件が発生しました。事件は極左学生運動内の権力闘争による「内ゲバ」と呼ばれる暴力行為の一例として社会に衝撃を与えました。犠牲となった書記長の詳細な身元や動機は明らかにされておらず、組織内の秘密主義が捜査を難航させました。警察は事件後、関係者らを逮捕・取り調べしましたが、完全な真相解明には至っていません。事件は日本の過激派運動の危険性とその内部崩壊を象徴するものとして記憶されています。
1975年 中核派書記長内ゲバ殺人事件
1988年

スプラトリー諸島海戦。ベトナムが統治していた南沙諸島・ジョンソン南礁を中華人民共和国が攻撃し、統治下とする。

1988年3月14日、中国とベトナムが南沙諸島・ジョンソン南礁を巡って武力衝突(スプラトリー諸島海戦)を行った。
1988年3月14日、南シナ海のスプラトリー諸島(南沙諸島)に位置するジョンソン南礁周辺で中華人民共和国とベトナム社会主義共和国の海軍部隊が衝突しました。中国側は当該礁を自国領土として占拠するために攻撃を行い、これに対してベトナム側も砲撃で応戦しました。海戦では両国の海軍が艦砲射撃を交え、多数の死傷者と艦艇損傷を伴う激しい戦闘となりました。この紛争により中国は実効支配を強化し、以降ジョンソン南礁を含む南沙諸島の領有権問題が一層深刻化しました。海戦は現在でも南シナ海における領有権争いの起点として歴史に刻まれています。
1988年 スプラトリー諸島海戦 ベトナム 南沙諸島 ジョンソン南礁 中華人民共和国