1758年
フレンチ・インディアン戦争: かんじきの戦いでフランスが勝利。
北米を舞台としたフレンチ・インディアン戦争中、1758年のかんじきの戦いでフランス軍がイギリス軍に対し勝利を収めた戦闘。
1754年から続いたフレンチ・インディアン戦争は、フランスとイギリスが北アメリカ大陸の領有権を巡って争った。
1758年3月13日、スノーシュー(かんじきの戦い)でフランス軍と先住民同盟軍がイギリス軍を奇襲し、混乱に乗じて勝利を収めた。
深雪の中での戦闘は極めて過酷で、多くの死傷者を出した。
この勝利はフランス側の士気を高め、一時的に戦況を有利に進めた。
しかし最終的にはイギリスが優勢となり、戦争の帰趨を決することになる。
1758年
フレンチ・インディアン戦争
かんじきの戦い
1809年
第二次ロシア・スウェーデン戦争敗戦の責任を問われていたスウェーデン王グスタフ4世アドルフがグリプスホルム城に幽閉され、王位を剥奪される。
ロシア・スウェーデン戦争の敗北責任を問われたスウェーデン王グスタフ4世アドルフが幽閉され、王位を剥奪された歴史的事件。
1808年から続いた第二次ロシア・スウェーデン戦争はスウェーデン王太子グスタフ4世アドルフの指導下で敗北を重ねた。
国民や貴族は彼の責任を追及し、1809年3月13日にグリプスホルム城へ幽閉された。
同時に摂政議会が王位剥奪を決議し、アドルフは退位を余儀なくされた。
その後、彼はドイツへ追放され余生を送った。
この出来事は絶対王政の終焉とスウェーデン近代化の転機となった。
1809年
第二次ロシア・スウェーデン戦争
スウェーデン王グスタフ4世アドルフ
グリプスホルム城
1912年
ギリシア・ブルガリア・セルビア・モンテネグロがロシア主導による反オーストリア同盟「バルカン同盟」を結成。
バルカン半島のギリシア・ブルガリア・セルビア・モンテネグロの4カ国が、ロシア後押しのもとオーストリアに対抗するバルカン同盟を結成。
1912年3月13日、バルカン半島のギリシア、ブルガリア、セルビア、モンテネグロがロシアの支援を受けバルカン同盟を結成した。
同盟の目的はオーストリア=ハンガリー帝国の影響力を排除し、領土拡大を図ることにあった。
同盟結成後すぐに第一次バルカン戦争が勃発し、同盟国側がオスマン帝国領土の大部分を占領した。
この動きは第一次世界大戦への複雑な同盟構造の一端を示し、ヨーロッパ情勢を不安定化させた。
バルカン同盟は短期間で崩壊したものの、地域の民族問題に長期的な影響を残した。
1912年
ギリシア
ブルガリア
セルビア
モンテネグロ
バルカン同盟
1940年
第二次世界大戦: ソビエト連邦とフィンランドがモスクワ講和条約を締結し冬戦争が終結、フィンランドは国土の1割の割譲を余儀なくされる。
冬戦争がモスクワ講和条約の締結で終結し、フィンランドは領土の一割をソ連に割譲しました。
1940年3月13日、ソビエト連邦とフィンランドはモスクワ講和条約に調印し、約3ヶ月に及ぶ冬戦争が終結しました。講和条約によりフィンランドはカレリア地方など国土の約10%をソ連に割譲することを余儀なくされました。戦闘では両国合わせて数万人の死傷者が出ており、フィンランド側は善戦したものの物量差に敗れた形となりました。この講和はフィンランドの主権を部分的に維持しつつも安全保障上の大きな打撃となり、後の第二次世界大戦における北欧情勢にも影響を与えました。条約の成立は冷戦期の勢力均衡の序章とも評されています。
1940年
第二次世界大戦
ソビエト連邦
フィンランド
モスクワ講和条約
冬戦争
1945年
第二次世界大戦・大阪大空襲: 大阪市が初めて空襲され、一晩でおよそ4千人が亡くなった。
第二次世界大戦末期、大阪市に初の大規模空襲が行われ、約4千人が犠牲となった悲劇的事件です。
1945年3月13日未明、連合国軍による空襲で大阪市は初めて大規模な爆撃を受けました。B-29爆撃機が絨毯爆撃を行い、市街地は壊滅的な被害を受け、約4千人が死亡しました。火災旋風や瓦礫による二次災害も深刻で、多くの市民が家を失い避難を余儀なくされました。この空襲は都市の軍事的重要性を背景に行われ、日本本土への空襲激化の一環として位置づけられています。戦後、大阪は復興都市として再建を目指し、空襲の記憶を伝える慰霊碑や資料館が設置されました。
1945年
大阪大空襲
大阪市
1954年
第一次インドシナ戦争: ディエンビエンフーの戦いが始まる。
フランス植民地との戦いで転機となるディエンビエンフーの戦いが始まりました。
1954年3月13日、第一次インドシナ戦争においてフランス軍とベトミンがディエンビエンフーで激突しました。フランスは基地を攻略拠点と位置づけて前線を構築し、ベトミンは周囲を包囲して包囲戦を展開しました。激しい砲撃と地上戦が繰り広げられ、最終的にフランス軍は壊滅的な打撃を受けました。この敗北はフランスのインドシナ支配に終止符を打ち、ジュネーヴ協定への道を開くきっかけとなりました。アジア植民地解放運動の象徴的事件として歴史に刻まれています。
1954年
第一次インドシナ戦争
ディエンビエンフーの戦い