1623年
朝鮮第15代国王・光海君が西人による変革クーデターにより失脚・廃位。(仁祖反正)
朝鮮王朝第15代国王光海君が、西人派による「仁祖反正」と呼ばれるクーデターで失脚・廃位された歴史的事件。
光海君は1608年に朝鮮王朝第15代国王として即位し、内政や対清外交で一定の成果を上げた。
しかし、摂政派の西人は光海君の政策に反発し、政局の主導権を狙った。
1623年3月13日、西人派の将軍らが仁祖反正と呼ばれるクーデターを決行した。
クーデター成功後、光海君は幽閉・廃位され、孝宗(インジョ)が即位。
光海君はその後、済州島に流され生涯を終えた。
この事件は朝鮮王朝の政争と派閥抗争の激しさを示す代表的な出来事である。
1623年
朝鮮
光海君
西人
クーデター
仁祖反正
1758年
フレンチ・インディアン戦争: かんじきの戦いでフランスが勝利。
北米を舞台としたフレンチ・インディアン戦争中、1758年のかんじきの戦いでフランス軍がイギリス軍に対し勝利を収めた戦闘。
1754年から続いたフレンチ・インディアン戦争は、フランスとイギリスが北アメリカ大陸の領有権を巡って争った。
1758年3月13日、スノーシュー(かんじきの戦い)でフランス軍と先住民同盟軍がイギリス軍を奇襲し、混乱に乗じて勝利を収めた。
深雪の中での戦闘は極めて過酷で、多くの死傷者を出した。
この勝利はフランス側の士気を高め、一時的に戦況を有利に進めた。
しかし最終的にはイギリスが優勢となり、戦争の帰趨を決することになる。
1758年
フレンチ・インディアン戦争
かんじきの戦い
1781年
ウィリアム・ハーシェルが天王星を発見。
イギリスの天文学者ウィリアム・ハーシェルが新天体「天王星」を発見し、天文学の歴史に名を刻んだ画期的な出来事。
ハーシェルは自作の望遠鏡を用い、1781年3月13日に天空を観測中、星の動きがおかしい天体を確認。
詳細な軌道計算により、これは新たな惑星であると結論づけた。
当初「ジョージウム・シドゥス」と命名されたが、後に「ウラヌス(Uranus)」と改称。
これまで肉眼で観測できなかった外側の惑星として初めて発見された事例であり、天文学に革命的なインパクトをもたらした。
この発見により太陽系の構造認識が大きく更新され、以後の惑星探索への関心が高まった。
1781年
ウィリアム・ハーシェル
天王星
1809年
第二次ロシア・スウェーデン戦争敗戦の責任を問われていたスウェーデン王グスタフ4世アドルフがグリプスホルム城に幽閉され、王位を剥奪される。
ロシア・スウェーデン戦争の敗北責任を問われたスウェーデン王グスタフ4世アドルフが幽閉され、王位を剥奪された歴史的事件。
1808年から続いた第二次ロシア・スウェーデン戦争はスウェーデン王太子グスタフ4世アドルフの指導下で敗北を重ねた。
国民や貴族は彼の責任を追及し、1809年3月13日にグリプスホルム城へ幽閉された。
同時に摂政議会が王位剥奪を決議し、アドルフは退位を余儀なくされた。
その後、彼はドイツへ追放され余生を送った。
この出来事は絶対王政の終焉とスウェーデン近代化の転機となった。
1809年
第二次ロシア・スウェーデン戦争
スウェーデン王グスタフ4世アドルフ
グリプスホルム城
1845年
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64がライプツィヒで初演される。
メンデルスゾーンの傑作ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64が1845年にライプツィヒで初演され、音楽史に名を残した。
フェリックス・メンデルスゾーンは1845年3月13日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスで自身のヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64を初演した。
当時、難解とされたホ短調の旋律は、独創的なリズムと調性で聴衆を魅了した。
ソリストには名手フェルディナント・デ=ジェヴリが起用され、鮮烈な演奏を披露。
この協奏曲は即座に高い評価を受け、現在も世界中のヴァイオリニストに愛奏されるレパートリーとなっている。
メンデルスゾーンの叙情的かつ技巧的な作曲様式が結実した代表作である。
1845年
メンデルスゾーン
ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64
ライプツィヒ
1848年
オーストリア三月革命によって、オーストリア宰相メッテルニヒが失脚、ロンドンに亡命。
オーストリア三月革命によって宰相メッテルニヒが失脚し、亡命を余儀なくされた政治的転換点。
1848年3月、ウィーン市内で自由主義や民族主義を求める民衆運動が激化した。
抗議デモは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にも波及し、長年権力を握ってきた宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒは責任を問われた。
3月13日にメッテルニヒは辞任し、ロンドンへ逃れて亡命生活を送る。
この革命はハプスブルク帝国内での改革要求と国民運動の高まりを象徴し、ヨーロッパ各地の三月革命とも連動した。
メッテルニヒ失脚以降、オーストリアは一時的に自由主義的方向へ舵を切った。
1848年
オーストリア三月革命
メッテルニヒ
亡命
ユリウス暦3月1日
ロシア皇帝アレクサンドル2世が投げつけられた爆弾により暗殺される。
ロシア皇帝アレクサンドル2世が革命派の襲撃により爆弾テロで暗殺された衝撃的な事件。
アレクサンドル2世は「皇帝解放者」と称され、農奴解放などの改革を推進していた。
しかし、過激派組織「人民の意志」による抵抗運動は激しさを増し、テロに発展。
1881年3月13日(ユリウス暦3月1日)、聖ペテルブルクで巡幸中の皇帝に爆弾が投げつけられ、即死した。
彼の死はロシア帝国の改革路線に大きな打撃を与え、後継のアレクサンドル3世は保守的政策へ転換した。
暗殺事件はヨーロッパ全体に衝撃を与え、国家警備体制の強化を促す契機ともなった。
1881年
ユリウス暦
3月1日
アレクサンドル2世
暗殺
1898年
ロシア社会民主労働党が初の党大会。
ロシア社会民主労働党が初の党大会を開催し、組織の基盤を確立した歴史的瞬間。
1898年3月13日、モスクワでロシア社会民主労働党(RSDLP)の最初の党大会が密かに開かれた。
当時の参加者はわずか9名ほどで、党の綱領と組織規約の策定を行った。
この大会は後のボリシェヴィキ派とメンシェヴィキ派の分裂へとつながる重要な契機となった。
大会の記録は厳重に秘密にされたが、ロシア革命への道筋に大きな影響を与えた。
RSDLPはロシア帝国内での労働者運動の中核として台頭していく。
1898年
ロシア社会民主労働党
1912年
ギリシア・ブルガリア・セルビア・モンテネグロがロシア主導による反オーストリア同盟「バルカン同盟」を結成。
バルカン半島のギリシア・ブルガリア・セルビア・モンテネグロの4カ国が、ロシア後押しのもとオーストリアに対抗するバルカン同盟を結成。
1912年3月13日、バルカン半島のギリシア、ブルガリア、セルビア、モンテネグロがロシアの支援を受けバルカン同盟を結成した。
同盟の目的はオーストリア=ハンガリー帝国の影響力を排除し、領土拡大を図ることにあった。
同盟結成後すぐに第一次バルカン戦争が勃発し、同盟国側がオスマン帝国領土の大部分を占領した。
この動きは第一次世界大戦への複雑な同盟構造の一端を示し、ヨーロッパ情勢を不安定化させた。
バルカン同盟は短期間で崩壊したものの、地域の民族問題に長期的な影響を残した。
1912年
ギリシア
ブルガリア
セルビア
モンテネグロ
バルカン同盟
1920年
ドイツでカップ一揆が起こる。
ヴァイマル共和国期のドイツで、右翼勢力が政府転覆を狙いカップ一揆(Kapp・プッチ)を起こした事件。
1920年3月13日、退役将校ヴォルフガング・カップらがベルリンで政府転覆を図るクーデターを実行。
プロイセン政府は逃亡し、クーデター勢力は暫定政府を樹立しようとした。
しかし全国的な総ストライキが呼びかけられ、多くの官庁や産業が停止。
社会的混乱に直面したクーデター勢力はわずか数日で崩壊し、当局は鎮圧に成功した。
この事件はヴァイマル共和政の脆弱性を浮き彫りにし、政治的極右勢力の脅威を示した。
1920年
ドイツ
カップ一揆
1921年
モンゴル人民党がトロイツコサフスクでモンゴル臨時人民政府樹立。
モンゴル人民党がロシアの後押しで臨時人民政府を設立し、近代モンゴル国の基礎が築かれた出来事です。
1921年、モンゴル人民党はトロイツコサフスク(現ソ連領トルニツァ)にてモンゴル臨時人民政府を樹立しました。設立にはロシア革命後のボリシェヴィキ政権からの支援が大きく影響しています。当時のモンゴルは清朝崩壊後の混乱期にあり、民族主権と近代国家建設を目指す動きが高まっていました。臨時政府の樹立はモンゴル人民共和国の前身であり、その後の独立運動を象徴する重要な転換点となりました。国際社会にも大きな注目を集め、一連の歴史的経緯が冷戦構造の一端を形作ることになります。
1921年
モンゴル人民党
1933年
ドイツで国民啓蒙・宣伝省が発足、ヨーゼフ・ゲッベルスが大臣に就任。
ナチス政権下でプロパガンダ省が発足し、ゲッベルスが情報統制を担った転換点です。
1933年3月、ドイツではヒトラー政権の下で『国民啓蒙・宣伝省(Reichsministerium für Volksaufklärung und Propaganda)』が設置されました。初代大臣にはヨーゼフ・ゲッベルスが就任し、ドイツ国内の報道、文化、教育を一元的に管理する役割を担いました。ゲッベルスは新聞やラジオ、映画などあらゆるメディアを利用してナチズムのプロパガンダを展開し、反対派の弾圧や情報統制を強化しました。この省の樹立はナチス・ドイツが国民統制を深化させる重要な一歩となり、戦時中のプロパガンダ戦略に大きな影響を与えました。また、彼の巧みな宣伝技術は国内外で大きな波紋を呼び、後の歴史における情報操作の手法を象徴する事例として知られています。
1933年
国民啓蒙・宣伝省
ヨーゼフ・ゲッベルス