538年
東ゴート王ウィティギスがローマの包囲を解きラヴェンナに退却。
538年3月12日、東ゴート王ウィティギスがローマ包囲を解いてラヴェンナへ退却しました。
東ゴート王国と東ローマ帝国の間で争われたゴート戦争の一幕です。ウィティギスはローマ包囲を解き、戦略的にイタリア半島北部の要衝ラヴェンナに撤退しました。この退却により東ゴート軍は防衛線を再編成し、長引く抗戦を続けました。しかし帝国側の反撃も激しく、後の戦局に大きな影響を与えることとなりました。ラヴェンナは当時、帝国勢力の拠点であり、包囲解除は戦争の転換点の一つとされています。
538年
東ゴート王
ウィティギス
ローマ
ラヴェンナ
1689年
ウィリアマイト戦争が始まる。
1689年3月12日、アイルランドでウィリアマイト戦争が勃発しました。
この戦争は、イギリス王位を巡る名誉革命の余波として発生しました。カトリック支持のジェームズ2世とプロテスタント支持のウィリアム3世の対立がアイルランドに飛び火し、両勢力が武力衝突を開始しました。戦闘は主にアイルランド南部・西部で行われ、多くの要衝が争われました。最終的にウィリアム派が優勢となり、1691年のリメリック条約締結につながります。この戦争はアイルランドの歴史に深い傷跡を残し、宗教・政治の対立構造を強固にしました。
1689年
ウィリアマイト戦争
1917年
第一次世界大戦: 第十次イゾンツォの戦い。
第一次世界大戦のイゾンツォ戦線で行われた第十次イゾンツォの戦いです。
イタリア軍とオーストリア・ハンガリー軍が激戦を繰り広げました。
第十次イゾンツォの戦いは、イタリア軍がオーストリア・ハンガリー軍に対して行った連続攻勢の一つです。
激しい砲撃と塹壕戦が続き、多大な犠牲を伴いながらわずかな前進を試みました。
戦線はイゾンツォ川沿いに展開し、地形の厳しさが戦闘を過酷なものにしました。
この戦いは大規模な消耗戦の典型とされ、両軍の損害は甚大でした。
後の戦局にも影響を与え、イタリア軍はさらなる攻勢計画を練り直す必要に迫られました。
1917年
第一次世界大戦
第十次イゾンツォの戦い
1938年
第二次世界大戦: ドイツ軍がオーストリアに進駐。翌日、ドイツへの併合(アンシュルス)を宣言。
ナチス・ドイツ軍がオーストリアに進駐し、翌日にアンシュルス(併合)を宣言しました。
1938年3月12日、ドイツ軍は国境を越えてオーストリアに進駐しました。
この無抵抗の進駐により、オーストリアは事実上ドイツの支配下に入りました。
翌13日、ドイツはアンシュルスを宣言し、オーストリアを併合しました。
この出来事はミュンヘン会談直後の欧州情勢に影を落とし、第二次世界大戦への道を加速させました。
国際社会は有効な対応を取れず、領土変更を黙認する結果となりました。
1938年
第二次世界大戦
オーストリア
アンシュルス
1940年
冬戦争停戦:モスクワ講和条約が締結される。
ソ連とフィンランドがモスクワ講和条約に調印し、冬戦争が停戦に至りました。
モスクワ講和条約は1940年3月12日に調印され、冬戦争の公式的停戦を成立させました。
条約によりフィンランドはカレリア地峡や沿バルト諸島などをソ連に割譲しました。
戦闘は1939年11月に始まり、過酷な冬季条件の中でフィンランド軍は奮闘しました。
フィンランドは軍事的には善戦したものの、最終的に領土の一部を放棄する形で講和に応じました。
この条約は第二次世界大戦中のソ連の西方戦略に影響を与えました。
1940年
冬戦争
モスクワ講和条約
1945年
第二次世界大戦: フランス領インドシナの植民地政府を破った日本軍が、シハヌーク国王にカンボジアの独立を宣言させる。
第二次世界大戦中、日本軍がフランス領インドシナを制圧し、シハヌーク国王にカンボジアの独立を宣言させた出来事。
1945年3月12日、太平洋戦争の末期において日本軍はフランス領インドシナの植民地政府を打倒しました。
占領した地域で、当時まだ幼かったシハヌーク国王にカンボジアの独立を宣言させることで、日本の戦略的支配を強化。
この宣言はカンボジアがフランスからの脱却を目指す契機となり、その後の同国の政治的展開にも大きな影響を与えました。
また日本軍のアジアにおける「大東亜共栄圏」構想を象徴する出来事とも位置づけられています。
しかし終戦後、カンボジアの独立は再びフランスの統治下に戻されるなど、複雑な歴史的経緯をたどりました。
1945年
フランス領インドシナ
シハヌーク国王
カンボジア
1945年
第二次世界大戦・日本本土空襲: 名古屋市街地に標的とする最大の空襲。
日本本土空襲で名古屋市街地が最大規模の標的となった。
1945年3月12日、アメリカ軍の本土空襲作戦の一環で名古屋市街地が最大規模の標的となりました。
爆撃は夜間から翌朝にかけて断続的に行われ、市街地の大部分が焼失し、多数の民間人が犠牲となりました。
名古屋は重要な軍需工場や港湾施設を抱えており、連合国にとって戦略的価値が高かったため、重点攻撃対象とされました。
この空襲は他都市への連続爆撃とも連動し、日本本土の戦闘能力と民間生活に甚大な打撃を与えました。
戦後の復興を通じて名古屋は復活を遂げましたが、当時の被害の爪痕は後世に深い影を残しています。
日本本土空襲
名古屋市街地に標的とする最大の空襲
1974年
小野田寛郎がフィリピン・ルバング島から30年ぶりに日本に帰還。
太平洋戦争終結後もフィリピン・ルバング島に残留していた小野田寛郎が、約30年ぶりに日本へ帰還した。
1974年3月12日、元日本陸軍一等兵・小野田寛郎がフィリピンのルバング島で約29年間にわたりゲリラ戦を続けた末、公式に帰国しました。
終戦から降伏勧告まで受け取れず、任務続行を信じて戦い続けた彼の姿は国内外で大きな反響を呼びました。
小野田の帰還は、日本人戦後世代に戦争の記憶と平和の尊さを改めて考えさせる象徴的な出来事となりました。
帰国後は平和運動や講演活動に携わり、自身の体験を通して戦争被害の実相を伝える役割を果たしました。
その波乱に満ちた人生は映画や書籍でも取り上げられ、日本の戦争史における象徴的エピソードとなっています。
1974年
小野田寛郎
フィリピン
ルバング島
2001年
アフガニスタン・バーミヤーンの巨大石仏が、ターリバーンにより破壊されたことをユネスコが確認。
2001年3月12日、ユネスコがターリバーン政権によるバーミヤーンの巨大石仏破壊を確認しました。
アフガニスタン中部バーミヤーン渓谷には6世紀ごろに造られた石仏が2体ありましたが、2001年3月にターリバーン政権が宗教的理由からこれを破壊。ユネスコは3月12日にその破壊を公式に確認し、国際的な非難が高まりました。バーミヤーンの石仏は世界遺産に登録されていたため、文化遺産保護の重要性が改めて世界中に訴えられる契機となりました。破壊後も跡地は観光地となり、記憶を伝える遺産として保全活動が続けられています。
2001年
アフガニスタン
バーミヤーン
ターリバーン
ユネスコ