538年
東ゴート王ウィティギスがローマの包囲を解きラヴェンナに退却。
538年3月12日、東ゴート王ウィティギスがローマ包囲を解いてラヴェンナへ退却しました。
東ゴート王国と東ローマ帝国の間で争われたゴート戦争の一幕です。ウィティギスはローマ包囲を解き、戦略的にイタリア半島北部の要衝ラヴェンナに撤退しました。この退却により東ゴート軍は防衛線を再編成し、長引く抗戦を続けました。しかし帝国側の反撃も激しく、後の戦局に大きな影響を与えることとなりました。ラヴェンナは当時、帝国勢力の拠点であり、包囲解除は戦争の転換点の一つとされています。
538年
東ゴート王
ウィティギス
ローマ
ラヴェンナ
1622年
イエズス会を創始したイグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルが列聖される。
1622年3月12日、イエズス会の創始者であるイグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルが列聖されました。
教皇グレゴリウス15世によって列聖されたこの日は、カトリック改革時代の象徴とも言えます。イグナチオ・デ・ロヨラは1540年にイエズス会を創設し、教育や宣教学に大きな足跡を残しました。フランシスコ・ザビエルは日本を含むアジア各地で宣教活動を行い、その布教手法は後世の宣教師たちにも影響を与えました。二人の列聖は、カトリック教会の国際的な布教と教育活動を称える意味合いがあります。またこの出来事は、宗教改革への対抗としてのカウンター・リフォーメーションの一環とも位置づけられています。
1622年
イエズス会
イグナチオ・デ・ロヨラ
フランシスコ・ザビエル
列聖
1689年
ウィリアマイト戦争が始まる。
1689年3月12日、アイルランドでウィリアマイト戦争が勃発しました。
この戦争は、イギリス王位を巡る名誉革命の余波として発生しました。カトリック支持のジェームズ2世とプロテスタント支持のウィリアム3世の対立がアイルランドに飛び火し、両勢力が武力衝突を開始しました。戦闘は主にアイルランド南部・西部で行われ、多くの要衝が争われました。最終的にウィリアム派が優勢となり、1691年のリメリック条約締結につながります。この戦争はアイルランドの歴史に深い傷跡を残し、宗教・政治の対立構造を強固にしました。
1689年
ウィリアマイト戦争
1832年
バレエ作品『ラ・シルフィード』が初演。
1832年3月12日、パリのオペラ座でバレエ作品『ラ・シルフィード』が初演されました。
フィリッポ・タリオーニ振付、舞踏家マリー・タリオーニ主演によるロマンティックバレエの代表作です。妖精の精霊と人間の青年の悲恋を描き、繊細な演技と幻想的な舞台装置が観客を魅了しました。『ラ・シルフィード』はその後も各国で上演され、ロマンティックバレエの金字塔とされています。舞踊史においてはチュチュ(チュール製スカート)の使用が定着した作品としても知られています。今日でも世界中のバレエ団でレパートリーに加えられ、芸術性と技術の高さが評価されています。
1832年
バレエ
ラ・シルフィード
1876年
官公庁で日曜日を休日・土曜日を半休(半ドン)とする太政官布告。
1876年3月12日、太政官布告により官公庁の休日制度が定められ、日曜全休・土曜半休(半ドン)が導入されました。
明治政府は欧米流の労働時間制度を取り入れる一環として、この布告を発しました。以後、官公庁では日曜日が正式な休業日、土曜日は午前のみ勤務となり『半ドン』の習慣が生まれました。この制度は公務員のワークライフバランス向上を目的とし、後に民間企業にも広がっていきます。また、週末の過ごし方やレジャー産業の発展にも影響を与え、現代の週休制度の原型となりました。歴史的には明治期における労働改革の重要なマイルストーンとされています。
1876年
日曜日
土曜日
半ドン
太政官布告
1894年
ミシシッピ州ヴィックスバーグで瓶詰コカ・コーラが初めて販売される。
1894年3月12日、ミシシッピ州ヴィックスバーグで初めて瓶詰めコカ・コーラが市販されました。
ジョン・S・ペンバートンが発明した清涼飲料『コカ・コーラ』は当初薬局でシロップとして提供されていました。ボトリングのアイデアを実現したのは菓子店経営者ジョセフ・ビーデンハーンで、瓶詰めにより広範囲での流通が可能となりました。この商業的成功がコカ・コーラ社の急成長を促し、世界的ブランドの礎を築きました。ヴィックスバーグでの初販売は観光客向けの試験的販売とされ、好評を博したと伝えられています。
1894年
ミシシッピ州
ヴィックスバーグ
コカ・コーラ
1896年
人夫が客車を押す豆相人車鉄道が、小田原〜吉浜〜熱海間に(24.8km、所要4時間)で開通。
1896年3月12日、豆相人車鉄道が小田原~吉浜~熱海間(24.8km)で運行を開始しました。
人力で客車を押し進める珍しい鉄道として知られます。急峻な勾配と曲線が多い沿線を、地元の人夫が車両後部から押し上げて運行しました。所要時間は約4時間と長く、旅客や荷物輸送に利用されましたが、乗客への労働問題や効率性の低さが課題となりました。後年、蒸気機関車や電気鉄道への転換が進み、1912年に廃止されました。地域交通の黎明期を象徴する鉄道として注目されています。
1896年
豆相人車鉄道
1910年
暴風雪により千葉県銚子沖で漁船83隻が遭難。1055人死亡。
1910年3月12日、千葉県銚子沖で暴風雪に遭い83隻の漁船が転覆・遭難し、1055人が死亡しました。
冬季の突発的な暴風雪が発生し、沖合いを操業中の漁船団が犠牲となりました。強風と高波により多くの船が転覆、避難する間もなく被害は拡大しました。この事故は日本海域における最大級の漁船遭難事故として記録されています。遺族や地域社会への影響は深刻で、救助体制や気象予報の重要性を再認識させました。以後、沿岸警備や航行安全対策の強化が進められる契機となりました。
1910年
銚子
1912年
アメリカでジュリエット・ローがガールスカウトを創立。
1912年3月12日、アメリカでジュリエット・ローがガールスカウトを創立しました。
ジョージア州サバンナを拠点に、少女たちに責任感や自主性を育む場を提供するために設立されました。第1回の集会には18人の少女が参加し、活動は手芸や野外活動を通じたリーダーシップ育成が中心でした。組織は急速に拡大し、全米に支部を持つまでに成長しました。その後、世界各国にガールガイド・ガールスカウト運動が広がり、女性の社会進出や地域貢献の先駆けとなりました。創立者ジュリエット・ローは1978年に教会によって聖人として顕彰されるなど、その功績は今日も評価されています。
1912年
ジュリエット・ロー
ガールスカウト
1912年
外国人観光客向けの旅行案内所としてジャパン・ツーリスト・ビューロー(現・日本交通公社・ジェイティービー)が創立。
1912年3月12日、外国人観光客向けの旅行案内所としてジャパン・ツーリスト・ビューロー(現・日本交通公社・ジェイティービー)が創立されました。
大日本帝国政府の後援により設立され、日本初の公式旅行案内所となりました。当初は東京に本部を置き、欧米からの訪日観光客向けに鉄道や宿泊の手配を行いました。1920年代には海外支店を開設し、国際的な旅行事業を展開しました。戦後は民間企業として再編され、ジェイティービー(JTB)に社名変更。日本最大級の旅行会社へと成長しました。観光産業の発展と文化交流に大きく寄与した歴史的組織です。
日本交通公社
ジェイティービー
1917年
第一次世界大戦: 第十次イゾンツォの戦い。
第一次世界大戦のイゾンツォ戦線で行われた第十次イゾンツォの戦いです。
イタリア軍とオーストリア・ハンガリー軍が激戦を繰り広げました。
第十次イゾンツォの戦いは、イタリア軍がオーストリア・ハンガリー軍に対して行った連続攻勢の一つです。
激しい砲撃と塹壕戦が続き、多大な犠牲を伴いながらわずかな前進を試みました。
戦線はイゾンツォ川沿いに展開し、地形の厳しさが戦闘を過酷なものにしました。
この戦いは大規模な消耗戦の典型とされ、両軍の損害は甚大でした。
後の戦局にも影響を与え、イタリア軍はさらなる攻勢計画を練り直す必要に迫られました。
1917年
第一次世界大戦
第十次イゾンツォの戦い
1918年
ロシアがモスクワに遷都、サンクトペテルブルクへの遷都から215年ぶりにモスクワがロシアの首都となる。
ロシア革命後、1918年3月12日に首都をサンクトペテルブルクからモスクワに移し、215年ぶりにモスクワが国家の政治中枢となりました。
ロシア臨時政府以降の不安定な状況を背景に、首都遷都が決定されました。
モスクワへの移転は戦時下での安全確保やボリシェヴィキ政権の強固化を図る狙いがありました。
サンクトペテルブルク(当時ペトログラード)は第一次世界大戦で前線に近く、安全性に課題がありました。
遷都により内陸に位置するモスクワが政治・経済の中心地として発展し始めます。
この決定はソビエト政権の象徴的な一歩となり、以後今日まで続く首都機能を確立しました。
1918年
ロシア
モスクワ
遷都
サンクトペテルブルク
首都