1649年
フランス王国で起こったフロンドの乱の一局面としてリュイユ和議が締結される。
フロンドの乱の一局面を終結させたリュイユ和議が締結。
1649年3月11日、フランス国内の貴族反乱「フロンドの乱」の一局面を終結させるリュイユ和議が締結されました。
フロンドの乱は王権強化策に反発した貴族やパリ市民が起こした反乱で、長年にわたり国力を削ぎました。
和議により、反乱側は皇太子ルイ(後のルイ14世)の権威を承認し、一部特権の回復を認められました。
しかし根本的対立は解消されず、間もなく再び反乱が再燃することとなります。
リュイユ和議は絶対王政の確立過程における重要な挫折と転換点を示す出来事です。
1649年
フランス王国
フロンドの乱
リュイユ和議
英語版
1795年
マラーター王国を中心とするマラーター同盟とニザーム王国の軍勢が激突し、マラーター側が勝利した(カルダーの戦い)。
カルダーの戦いでマラーター同盟軍がニザーム軍に勝利。
1795年3月11日、インド西部でマラーター王国を中心とするマラーター同盟軍とニザーム王国軍がカルダーで衝突しました。
マラーター側は優れた騎馬隊と組織的戦術でニザーム軍を圧倒し、決定的な勝利を収めました。
この戦いの結果、ニザーム王国は多額の賠償金と領土割譲を余儀なくされました。
マラーター同盟の勢力はインド半島西部で一層強化され、英国東インド会社への対抗力を高めました。
後のインド史における大国間の力関係に影響を与えた重要な戦闘です。
1795年
マラーター王国
マラーター同盟
ニザーム王国
カルダーの戦い
1920年
ロシアで尼港事件が発生。シベリアはニコライエフスク(現・ニコラエフスク・ナ・アムーレ)に出兵中の日本軍が、武装解除を要求した抗日パルチザンに攻撃し、敗北する。
シベリア出兵中の日本軍と抗日パルチザンとの衝突が尼港事件として知られます。
1920年3月11日、シベリア出兵中の日本軍がニコラエフスク・ナ・アムーレ近郊で抗日パルチザンと対峙しました。パルチザンは日本軍に武装解除を要求し、一部の交渉が武力衝突へと発展しました。日本軍は反撃を試みましたが、最終的に敗北し多数の死傷者を出す結果となりました。尼港事件はシベリア出兵の困難さと現地情勢の複雑さを象徴する事例とされています。この事件を契機に日本国内でもシベリア出兵の是非をめぐる議論が高まりました。
1920年
ロシア
尼港事件
シベリア
ニコラエフスク・ナ・アムーレ
日本軍
抗日パルチザン
1941年
第二次世界大戦: アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトにより、レンドリース法(武器貸与法)が制定される。
ルーズベルト大統領がレンドリース法を制定し、連合国への軍事援助が本格化しました。
1941年3月11日、米国議会でレンドリース法が成立し、ルーズベルト大統領が署名。
現金払い不要の武器・物資貸与制度を導入し、英国やソ連など連合国への支援を加速。
「武器貸与法」とも呼ばれ、第二次世界大戦における米国の対枢軸国戦略の転換点となりました。
法の下で航空機、戦車、食糧など数十億ドル相当の物資が提供され、連合国側の戦力維持に大きく寄与。
後のパールハーバー攻撃後は、米国の本格参戦への布石ともなりました。
1941年
第二次世界大戦
フランクリン・ルーズベルト
レンドリース法
1942年
第二次世界大戦・フィリピンの戦い: マッカーサー将軍がコレヒドール島から退却。
フィリピンのコレヒドール島からマッカーサー将軍がオーストラリアへ退却し、「I shall return」の言葉を残しました。
1942年3月11日、マッカーサー将軍がフィリピン最終防衛拠点のコレヒドール島を脱出。
米豪間を結ぶPTボートで夜間に出航し、オーストラリア領ダーウィンを経由して安全地帯へ移送。
撤退直前には「I shall return(私は必ず帰ってくる)」と宣言し、後のフィリピン奪還作戦の象徴となりました。
フィリピン守備隊はその後降伏し、日本軍が全域を占領。
この撤退は太平洋戦線の戦局に大きな影響を与えました。
1942年
フィリピンの戦い
マッカーサー
コレヒドール島
1948年
福岡県で起こった九州大学生体解剖事件の軍事裁判開廷(横浜軍事法廷、8月27日判決)。
福岡県での九州大学生体解剖事件に関する軍事裁判が横浜で開廷されました。
1948年3月11日、横浜軍事法廷にて九州大学生体解剖事件の裁判が開始。
本事件は1945年に福岡県で発覚した旧日本軍関連の人体解剖事件で、被告は旧陸軍関係者。
法廷では生体解剖の経緯や被害者の実態が詳細に審理され、医学倫理と戦時責任が問われました。
8月27日の判決では数名に有罪判決が下され、戦後の人権保護や医学研究倫理への転換点となりました。
事件は戦後日本の戦争責任と医療倫理の問題を浮き彫りにしました。
1948年
福岡県
九州大学生体解剖事件
8月27日
2004年
マドリード列車爆破テロ事件発生: スペインのマドリードで通勤列車の連続爆破テロが発生し、死者191人を出す。
スペイン・マドリードの通勤列車が連続爆破され、191人が死亡した強烈なテロ事件です。欧州歴史上最悪級のテロ攻撃となりました。
2004年3月11日8時頃、マドリードの主要区間を走行中の通勤列車4本で爆弾が同時に爆発。
爆発装置は駅構内と車内に仕掛けられ、191人が死亡、約2000人が負傷した。
アルカイダ系組織の関与が疑われ、スペイン政府は即座に非常事態を宣言した。
翌日に予定されていた総選挙に大きな影響を与え、欧州のテロ対策強化の契機となった。
遺族や負傷者への支援活動が国内外で行われ、マドリードは長期にわたり復興活動を続けることになった。
2004年
マドリード列車爆破テロ事件
スペイン
マドリード
テロ