222年

帝政ローマの皇帝ヘリオガバルスが近衛隊プラエトリアニによって暗殺される。

ローマ皇帝ヘリオガバルスが暗殺された劇的な事件。
222年3月11日、ヘリオガバルス帝が近衛軍プラエトリアニにより暗殺されました。 彼の奇抜な政治・宗教政策に対する不満が背景にあり、ローマ市民や貴族の信頼を失っていました。 暗殺後、プラエトリアニは彼を廃位し、ガルス帝を擁立しました。 短期間で退位・暗殺という劇的な結末を迎えたヘリオガバルスの治世は、異端と混乱の象徴とも評されます。 古代ローマ帝政の暗部を物語る歴史的な事件です。
222年 帝政ローマ ヘリオガバルス プラエトリアニ 暗殺
天智天皇3年2月9日

中大兄皇子(後の天智天皇)が、弟の大海人皇子(後の天武天皇)に命じて冠位二十六階を定める。

中大兄皇子が冠位二十六階を制定した政治改革。
天智天皇3年(664年)2月9日、中大兄皇子(後の天智天皇)は、大海人皇子(後の天武天皇)に命じて冠位二十六階の制度を定めました。 中国の冠位制度をモデルにしたこの官位制度は、身分や功績に応じた位階を細分化し、朝廷内の身分秩序を明確にする目的がありました。 日本古代国家の官僚制度整備の一環として、律令制の基礎を築いた重要な改革です。 この制度により、有力豪族や有能な人物の登用が進み、中央集権化が促進されました。 後の日本の政治制度に大きな影響を与えた画期的な出来事です。
664年 2月9日 天智天皇 天武天皇 冠位二十六階
和銅元年2月15日

元明天皇が、都を藤原京から平城京に遷す詔を発せられる。

元明天皇が都を藤原京から平城京へ遷都した歴史的決定。
和銅元年(708年)2月15日、元明天皇は藤原京から平城京への遷都を詔して発表しました。 平城京は奈良盆地を見渡せる地形を持ち、政治的・経済的に優れた立地とされました。 中国の長安にならった碁盤目状の都市計画が採用され、奈良時代の文化・仏教信仰の中心地となりました。 遷都により、政治の中心が変わるとともに、仏教寺院や官衙が多数建設され、都市機能が飛躍的に発展しました。 平城京は約70年間にわたり日本の首都として栄え、後の奈良文化の基礎を築きました。
708年 和銅 2月15日 元明天皇 藤原京 平城京
1510年

メディチ家出身のレオ10世がローマ教皇に就任。

レオ10世(メディチ家出身)がローマ教皇に就任。
1510年3月11日、ジョヴァンニ・デ・メディチがローマ教皇レオ10世として即位しました。 メディチ家の出身でバロック文化を奨励し、芸術・学問の庇護者として知られます。 ルネサンス期の芸術家ミケランジェロやラファエロを支援し、サン・ピエトロ大聖堂改修の資金を提供しました。 一方で贅沢な政治と教会財政の乱用が批判を招き、宗教改革の契機の一つとなりました。 教皇としての数少ない在位期間ながら、文化史における影響は極めて大きい人物です。
1510年 メディチ家 レオ10世 ローマ教皇
天正8年2月16日

織田信長が、安土城下の沼を埋め立て、イエズス会のイタリア人宣教師オルガンティノに、セミナリヨ(神学校)の建設用地を与える。

織田信長が安土城下の土地を神学校建設用地としてイエズス会に提供。
天正8年(1580年)2月16日、織田信長は安土城下の沼地を埋め立て、イエズス会宣教師オルガンティノにセミナリヨ(神学校)建設用地を与えました。 これは日本におけるキリスト教教育施設の初期事例とされ、ヨーロッパとの文化交流を象徴する出来事です。 信長の寛容政策の一環で、欧州の宣教師が自由に活動できる環境を整備しました。 神学校では教義教育や神職育成が行われ、西洋の学問や技術が日本に伝わる契機となりました。 安土城下の国際色豊かな景観は、織田政権の開かれた姿勢を示しています。
1580年 天正 2月16日 織田信長 安土城 イエズス会 オルガンティノ
1649年

フランス王国で起こったフロンドの乱の一局面としてリュイユ和議が締結される。

フロンドの乱の一局面を終結させたリュイユ和議が締結。
1649年3月11日、フランス国内の貴族反乱「フロンドの乱」の一局面を終結させるリュイユ和議が締結されました。 フロンドの乱は王権強化策に反発した貴族やパリ市民が起こした反乱で、長年にわたり国力を削ぎました。 和議により、反乱側は皇太子ルイ(後のルイ14世)の権威を承認し、一部特権の回復を認められました。 しかし根本的対立は解消されず、間もなく再び反乱が再燃することとなります。 リュイユ和議は絶対王政の確立過程における重要な挫折と転換点を示す出来事です。
1649年 フランス王国 フロンドの乱 リュイユ和議 英語版
1708年

イギリス女王アンがスコットランド民兵法の裁可について拒否権を発動。

アン女王がスコットランド民兵法に拒否権を行使した政治的判断。
1708年3月11日、イングランド女王アンがスコットランド民兵法の裁可について拒否権を発動しました。 この民兵法は、スコットランドの治安維持を目的とする法案でしたが、女王は議会の権限拡大を懸念して認めませんでした。 アン女王の拒否権行使は、初期の王権と議会の権力闘争を象徴する出来事です。 拒否権の行使により議会は反発し、王権と立法府の関係性に新たな緊張が生まれました。 この事件は、後のイギリス立憲君主制確立への道筋に影響を与えました。
1708年 イギリス アン スコットランド民兵法 裁可 拒否権
1795年

マラーター王国を中心とするマラーター同盟とニザーム王国の軍勢が激突し、マラーター側が勝利した(カルダーの戦い)。

カルダーの戦いでマラーター同盟軍がニザーム軍に勝利。
1795年3月11日、インド西部でマラーター王国を中心とするマラーター同盟軍とニザーム王国軍がカルダーで衝突しました。 マラーター側は優れた騎馬隊と組織的戦術でニザーム軍を圧倒し、決定的な勝利を収めました。 この戦いの結果、ニザーム王国は多額の賠償金と領土割譲を余儀なくされました。 マラーター同盟の勢力はインド半島西部で一層強化され、英国東インド会社への対抗力を高めました。 後のインド史における大国間の力関係に影響を与えた重要な戦闘です。
1795年 マラーター王国 マラーター同盟 ニザーム王国 カルダーの戦い
1851年

ジュゼッペ・ヴェルディ作曲のオペラ『リゴレット』がヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演。

ヴェルディの名作オペラ『リゴレット』がフェニーチェ劇場で初演。
1851年3月11日、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『リゴレット』がヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演されました。 台本はヴィクトル・ユゴーの戯曲を原作とし、復讐と悲劇を描く重厚なドラマが特徴です。 主人公リゴレットのアリア「女心の歌」はオペラ史上屈指の名アリアとして知られています。 初演当初から観客の熱狂的な支持を受け、ヴェルディの名声を不動のものとしました。 以来、世界中の歌劇場で上演され続ける不朽の名作となっています。
1851年 ジュゼッペ・ヴェルディ リゴレット ヴェネツィア フェニーチェ劇場
文久2年2月11日

皇女和宮の降嫁: 幕末の日本で徳川家茂と和宮親子内親王(皇女和宮)の婚儀が執り行われる。

皇女和宮と徳川家茂の婚儀が幕末日本で執り行われた。
文久2年(1862年)2月11日、皇女和宮親子内親王が徳川家茂のもとへ降嫁し、正式に婚儀が執り行われました。 この政略結婚は朝廷と幕府の和解と結束を図るもので、幕末の混乱期における重要な政治的意図がありました。 和宮は公武合体策の象徴として、江戸城での生活を余儀なくされましたが、幕府内外に大きな注目を集めました。 婚儀後も和宮の存在は政治的圧力や尊号問題などさまざまな問題を呼び、幕末史に影響を与えました。 幕末日本の歴史を語る上で欠かせない、政治と個人を繋ぐ象徴的な出来事です。
1862年 文久 2月11日 皇女 幕末 日本 徳川家茂 和宮親子内親王 婚儀
1867年

ジュゼッペ・ヴェルディ作曲のオペラ『ドン・カルロ』がパリで初演。

イタリアの作曲家ヴェルディによる大作オペラ『ドン・カルロ』がパリで初演を迎えました。
ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した『ドン・カルロ』はフランス語で作られた壮大なオペラです。初演は1867年3月11日にパリのオペラ座で行われ、美しいアリアとドラマティックな演出が観客を魅了しました。原作はフレデリック=エミール・マゴーの戯曲『ドン・カルロス、インファン・オブ・スペイン』に基づいています。物語は16世紀のスペイン宮廷を舞台に、王子カルロスとフィリップ2世、エリザベートとの複雑な愛憎劇を描きます。初演は反響を呼び、その後も多くの改訂を経ながら世界各地で上演される代表作となりました。現在も世界中のオペラハウスで愛される名作です。
1867年 ジュゼッペ・ヴェルディ ドン・カルロ パリ
1869年

アルマン・ダヴィドがジャイアントパンダの存在を“発見”する(中国四川省で配色の特殊なクマの毛皮を見出す)。

フランスの宣教師・探検家アルマン・ダヴィドが四川省でジャイアントパンダの存在を西洋に伝えました。
宣教師として中国に滞在していたアルマン・ダヴィドは1869年3月11日に四川省の市場で毛皮の特徴的なクマを発見しました。その後、この動物が未知の大型哺乳類であることを確信し、西洋に報告したことでジャイアントパンダの存在が広く知られるようになりました。ダヴィドは植物学者としても多くの動物・植物標本をヨーロッパに送っており、その業績は自然科学分野で高く評価されています。ジャイアントパンダはその後、世界的な保護の象徴となり、自然保護活動の中心的存在となりました。発見当時はその生態や生息域がほとんど知られておらず、多くの謎に包まれていました。
1869年 アルマン・ダヴィド ジャイアントパンダ 発見 中国 四川省 クマ