1864年

南北戦争: レッド川方面作戦開始。

南北戦争で連邦軍がレッド川方面作戦を開始した。
1864年3月10日、アメリカ南北戦争中の連邦軍がルイジアナ州レッド川方面で大規模攻勢を開始した。 指揮官ナサニエル・バンクス少将は綿花地帯を制圧し、テキサスへの補給路確保を目的に作戦を展開した。 連邦軍は陸上戦力とともに砲艦を動員し、レッド川を軸とした河川戦術を試みた。 しかし地形の悪条件や補給線の脆弱性が影響し、進撃は次第に停滞し戦果は限定的となった。 最終的に作戦は失敗に終わり、南部ゲリラや過酷な環境に悩まされる結果となった。
1864年 南北戦争 レッド川方面作戦
1902年

ボーア戦争: 南アフリカのボーア人がイギリス軍に最終的に勝利し、将軍を捕らえる。

南アフリカのボーア人がイギリス軍に勝利し、将軍を捕らえたボーア戦争終盤の戦闘。
1899年に始まったボーア戦争の終盤にあたる激戦です。 南アフリカのボーア人部隊はゲリラ戦術を駆使し、イギリス軍の補給線を破壊しました。 戦闘の結果、有力なイギリス将軍が捕らえられ、戦況はボーア側に有利に傾きました。 この勝利はボーア人の士気を大いに高め、続く和平交渉に影響を与えました。 同年中に講和条約が締結され、南アフリカにおける新たな政治体制の形成が始まりました。
1902年 ボーア戦争 南アフリカ イギリス軍
1905年

日露戦争: 奉天会戦が日本軍の勝利で終結。

日露戦争中、奉天会戦で日本軍が決定的な勝利を収めた。
1905年2月から3月にかけて満州で行われた戦闘です。 日本軍は機動力と統一された攻勢でロシア第1軍を包囲し撃破しました。 この勝利により、日露戦争の戦局は大きく日本側に傾きました。 戦闘終結後、ロシアは和平交渉を本格化させ、ポーツマス条約締結への道が開かれました。 最新の砲兵火力と鉄道補給の活用が勝利の鍵となりました。
1905年 日露戦争 奉天会戦
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 東京大空襲。

第二次世界大戦末期、米軍による大規模な焼夷弾攻撃が東京を襲った。 東京大空襲とも呼ばれ、甚大な被害を生んだ。
第二次世界大戦中の1945年3月10日未明、米国陸軍航空軍による大規模な空襲が東京下町を襲った。焼夷弾1万2000発以上が投下され、市街地は一面の火の海に包まれた。 死者は推定10万人以上、被災者は100万人を超え、日本史上最大の都市空襲とされている。 火災旋風が発生し、瞬時に街を焼き尽くし、多くの市民が犠牲となった。 この空襲は戦争の悲惨さと都市への無差別攻撃の象徴として今日も語り継がれる。
1945年 第二次世界大戦 日本本土空襲 東京大空襲
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 第1回平空襲。

東京周辺を対象とした最初の昼間空襲が行われた。 戦略爆撃の一環として火災が拡大した。
1945年3月10日、日本本土空襲は東京大空襲の前に初の平空襲が実施された。 米軍B-29爆撃機が日中に飛来し、施設や都市部を標的に焼夷弾を投下。 焼失面積は数平方キロに及び、民間人にも多大な被害を与えた。 これにより日本の防空体制の脆弱さが露呈し、戦局に影響を及ぼした。 後の大規模空襲への布石となり、空襲戦略の転機とも評される。
平空襲
1959年

チベット蜂起。

チベット住民が清朝、後の中華人民共和国統治に抗議して蜂起。 独立運動の象徴的出来事。
1959年3月10日、チベットのラサでダライ・ラマ14世を支持するチベット人が中国共産党政権に対する蜂起を起こす。 暴動は即座に軍事鎮圧され、多数の死傷者と難民流出を招いた。 ダライ・ラマはインドに脱出し、亡命政府を樹立した。 この蜂起はチベット独立運動の転機となり、国際的な関心を集めるきっかけを作った。 現在も人権問題や文化抑圧の象徴として語り継がれている。
1959年 チベット蜂起
1974年

ルバング島に残留していた陸軍少尉の小野田寛郎が救出される。

ルバング島で潜伏を続けていた小野田寛郎陸軍少尉が救出される。
1974年3月10日、フィリピン・ルバング島で潜伏を続けていた小野田寛郎陸軍少尉が救出された。 小野田は1944年に同島へ派遣され、終戦の報せを受け取らずに約29年間にわたり隠れ続けていた。 日本政府や軍は度重なる降伏勧告を行ったが、小野田は全て敵の情報戦と受け取っていた。 救出の際には旧上官の田中勇中尉が現地へ赴き、ようやく正式に降伏命令を伝えた。 帰国後、小野田は著書を発表し、その異色の体験は国内外で大きな関心を呼んだ。
1974年 ルバング島 陸軍 小野田寛郎
2008年

チベット騒乱が始まる。

中国チベット自治区で大規模な市民デモが勃発し、武力衝突へと拡大しました。
2008年3月10日、中国チベット自治区ラサ市でチベット仏教徒らによる大規模な抗議デモが発生。 中国政府の統治への不満や宗教的制限への反発が背景となり、市街地で衝突が発生。 治安部隊による鎮圧が行われ、多数の死傷者が出たと報じられます。 この騒乱は各国メディアで大きく報道され、人権や自治問題を巡る国際的議論を呼び起こしました。 以降、ラサを中心としたチベット高地の情勢は緊張状態が続いています。
2008年 チベット騒乱