1872年

日本で最初のプロテスタント教会「横浜海岸教会」が設立される。

日本初のプロテスタント教会「横浜海岸教会」が設立された。
1872年3月10日、横浜の元町居留地に日本初のプロテスタント教会「横浜海岸教会」が設立された。 英国国教会やアメリカ長老派の宣教師が協力し、主に外国人居留者の礼拝所として建設された。 木造洋風建築の礼拝堂は横浜の開港場で異文化交流の象徴となり、多くの人々の注目を集めた。 その後日本人信徒も増え、日本におけるプロテスタント布教・教育活動の拠点として機能した。 この教会の創設は明治期の宗教的自由と国際交流を促進する重要な一歩だった。
1872年 横浜海岸教会
1922年

上野公園で平和記念東京博覧会が開幕。文化住宅の展示などが行われた。

上野公園で平和記念東京博覧会が開幕し、文化住宅などが展示された。
1922年3月10日、上野公園で平和記念東京博覧会が開幕しました。 第一次世界大戦終結を記念し、平和と文化の交流をテーマにさまざまな展示が行われました。 会場では最新の文化住宅模型が展示され、当時の住環境や建築技術を紹介しました。 そのほか工業製品や芸術作品など多彩なブースが並び、国内外から多数の来場者を集めました。 博覧会は後の大規模イベントへの参考となり、都市文化発展に寄与しました。
1922年 上野公園 平和記念東京博覧会 文化住宅
1947年

全国労働組合連絡協議会(全労連)結成。

戦後の労働運動の中心組織として全国労働組合連絡協議会(全労連)が発足した。 労働者権利の向上を目指す重要な一歩となった。
1947年3月10日、戦後日本の労働運動を統一するため、複数の労働組合が合同し全国労働組合連絡協議会(全労連)を結成。 全労連は賃金引上げや労働環境改善など労働者の権利擁護を掲げ、各産業で組織拡大を図った。 政治的にも影響力を持ち、社会政策や法改正の場で存在感を発揮。 その結成は戦後民主主義の一環として、労働者参画の礎を築いた。 今日の労働組合運動の基盤として、労使関係における重要な役割を担い続けている。
1947年 全国労働組合連絡協議会
1952年

北海道初の民間放送・北海道放送(HBC)ラジオ開局。

日本初の民間ラジオ放送局として北海道放送(HBC)が開局した。 地域メディアの草分け的存在。
1952年3月10日、北海道放送(HBC)は国内初の民間ラジオ局として札幌から放送を開始。 これまで国営のNHKが主体であった放送市場に民間局が参入し、地域密着型番組を提供し始めた。 ニュース、音楽、バラエティなど多彩な番組編成でリスナーの支持を集め、北海道の情報インフラを拡充。 民間放送の可能性を示し、全国各地への民放進出の契機となった。 現在もテレビ・ラジオともに北海道の主要メディアとして広く親しまれている。
北海道 北海道放送(HBC)ラジオ
1960年

昭和天皇の五女清宮貴子内親王が島津久永と結婚。

昭和天皇の五女・清宮貴子内親王が島津久永氏と結婚し、皇籍を離脱。
1960年3月10日、皇族の清宮貴子内親王が島津久永氏と結婚。 清宮内親王は昭和天皇と香淳皇后の五女として生まれた。 結婚を機に皇室典範により皇籍を離脱し、以後は民間人として生活を送った。 島津氏は薩摩藩主家の子孫にあたり、旧華族の家柄を持つ。 この結婚は皇族女性が旧華族出身者と結婚した初の例として注目された。 結婚後、清宮内親王は島津貴子として新たな生活を始めた。
1960年 昭和天皇 清宮貴子内親王 島津久永
1968年

成田空港問題 TBS成田事件: 第2次成田デモ事件。

成田空港建設に反対する第2次デモが発生し、警察と激しく衝突。
1968年3月10日、成田空港の建設に反対する市民や農民グループが第2次成田デモを展開。 デモ隊は空港予定地周辺で抗議活動を行い、警察との衝突に発展した。 現場ではTBSの報道車両が取材中にデモ隊と警察の双方から攻撃を受ける「TBS成田事件」が発生。 この事件は過激化する成田空港問題の象徴的出来事となり、全国的に大きな注目を集めた。 以後、建設反対派と警察との対立は激化し、地域社会を巻き込んだ長期抗争へと突入した。
1968年 成田空港問題 TBS成田事件 第2次成田デモ事件
1997年

フジテレビが東京都新宿区河田町から同港区台場へ移転し、本放送開始。

フジテレビ本社が河田町から台場へ移転し、新社屋での本放送が始まりました。
1997年3月10日、フジテレビは東京都新宿区河田町の旧社屋から港区台場の新社屋へ本社機能を全面移転しました。 新社屋はお台場海浜公園に隣接し、最新設備を備えた放送スタジオや会議室が導入。 地上波キー局では初めて大規模なオープンスタジオを設置し、イベントや公開生放送も可能に。 この移転は視聴者への開放感を高め、番組制作や情報発信の新たな拠点として話題に。 また周辺の商業施設や観光スポットとの連携が進み、地域活性化にも寄与しました。
1997年 フジテレビ 東京都 新宿区 河田町 港区 台場
2000年

東海道・山陽新幹線の食堂車が廃止される。

東海道・山陽新幹線から食堂車が姿を消し、長距離列車の旅文化が一つの区切りを迎えました。
2000年3月10日、東海道・山陽新幹線の全列車から食堂車サービスが廃止されました。 1992年に導入されて以来、車内での飲食提供は人気コンテンツでしたが、乗客のニーズ変化とコスト面の課題が重なり終了。 その後はワゴンサービスや駅弁販売への移行が進み、気軽に購入できるスタイルが定着。 乗客のプライバシー重視や効率化を背景に、列車旅の風物詩ともいえる食堂車は鉄道史に一つの幕を下ろしました。 現在では懐かしむ声も多く、イベント列車への復刻運行なども行われています。
東海道・山陽新幹線 食堂車